この文章はレポート作成のノートとしては直接関係のないものですので時間に余裕のない方は6月11日の演習のページから各ノートにアクセスしてください。(でも、結構いいことを書いたように思うのでぜひ読んでみてください。)
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レポート作成を終えて レポート作成過程を振り返る
長田 元 レポート完成直後の私 一通りレポートを書き終えて、ようやく一息つくことができました。後は、来週以降の講義でレポートの微調整を行うだけです。今回は、リラックスして楽な気持ちで、レポートや普段の議論を離れて行政学演習で感じたこと徒然と述べてみようと思います。
レポート作成を終えて レポート作成過程を振り返る 行政学資料室の門をたたいて約3ヶ月になる。他に例を見ないほどのテーマ設定の自由度と中村先生のご指導が特徴的だった行政学演習A。指導者である中村先生はこのゼミをどのように捉えていたのだろうか。 中村先生はこのゼミをどのように捉えていたのかは本人ではないので断定はできないが、私から見ると、中村先生はこのゼミに対してゼミ生各自の自主性に任せていたように思われる。このことは、ゼミ生による個人発表の拡充やレポートのテーマ設定の自由度から推測される。同時にこのゼミを通しての私自身というものは、個人的に日々レポートの指導をしていただいた中村先生のも絶対的な力、子供にはない大人(路を極めた者)だけが持つ知識やプライドに裏付けされた絶対的な力に圧倒された日々でもあった。 このような中村先生と他の11人のゼミ生、そして情報共有に支えられた私であったが、このゼミを通してレポート作成による結果とは全く違った観点から学んだことがあった。今日はそのことについて簡単に述べたい。 行政学演習Aは12人のゼミ生が演習室で90分を共有しているという現実が存在しながらも、各人がそれぞれの興味に基づいているので同じ空間で全く違うものを見ているような錯覚に陥ることが何度かあった。 だが、この90分という時間は、ITやインターネットによる情報の共有によって、実際にこのような錯覚が現実のものになることはなく、多くの情報や知識を獲得することができる建設的なゼミであったように思う。改めてインターネットによる情報の共有の重要性や価値の高さに新鮮さを感じた。
この段落は私の完全な推測である。 中村先生は講義中にレポート作成に関するテクニカルなアドバイスはあまりなかったと思う。ゼミ生のプレゼンテーションを黙って聴いていただけである。この行為を表面的に捉えた人の中には何の指導もないと受け止める人もいるかもしれない。だが、裏を返せば、完全に『個人の責任に基づいてゼミを運営しろ』とも捉えることができる。中村先生は講義の中でノートの重要性について何度も指摘していた。つまり、各人のノートによっておのずとレポートがどのようなものになるかをみていたとも取れるのである。 実際にレポートを作成しているとき、今まで自分が築いてきたノートが大いに役に立ったことがあったし、幾度となくノートに助けられた。ノート作成の重要性は後になって思い知らされた。 よく考えれば、このゼミはもともと、各人の自主性に基づくゼミであったのだ。これほど個人の自由と同時に個人の責任を問うゼミはない。中村先生の行動は実に合理的でこのゼミに合致したものだと感じた。また、同時に自由と責任の表裏一体関係と自由を実現するための責任の重さを実感したゼミでもあった。つまり、私自身の興味・関心へのアプローチに対して完全な自由を与えられる一方で、それに対して真剣に取り組み、ノート作成、プレゼンテーション、そしてレポート作成を行わなければならないという責任があったのだ。 つまり、人によって、90分が価値あるものになるのか、ただラクに単位を取るためのものになるのかが大きく変わってくるということである。これは、個人の責任と個人の自主性を重視し個人の学ぼうとする意欲にインセンティブを与える最も合理的な方法である。 一ゼミ生としてあまり大きな口は叩けないが、この90分の使い方は今後の自分に少なからず影響を与えるものではないか?、そしてそれは必ずレポートという結果によって証明されるのではないか?と感じることが何度もあった。 自分の努力と学ぼうとする意欲しだいで、自分が当初学びたかったもの以上のものを得ることができる。こんなに面白いゼミは他にない!! 他の11人が次々とテーマを絞り、目標に向かっている現実を直視しなければならない一方で、自分はなかなかテーマを絞ることができずにいた。中村先生にそのことを相談したことがあったが、『レポートには様々な形式があり、大きなテーマで議論をおこなうレポートもあっていい。』とおっしゃっていただいたことが幸いして、『私は私らしく自分のスタイルを貫く』覚悟ができた。 出来上がったレポートを読んでみて、これはどうみても他の11人とは180度性格が異なるレポートになるだろうと感じた。一般にレポートとは、自分以外に興味を抱かないような小さな現象に対して議論や検証をおこうなうものである。対して、私のレポートは、大きな視点にたって広く浅く検証するというレポートになってしまった。 しかし、約2ヶ月の調査にもかかわらず、なかなか手ごたえのあるレポートを書くことができなかった。 レポートに限らず何かをやって成功するときや勝利を確信するときは手ごたえを感じることが多い。今回のレポートでは2ヶ月の調査にもかかわらず揺らぐことのない勝利の感覚や誰にも破ることができないような堅い論旨を展開することができなかった。確固とした手ごたえが感じられない。 レポートはルール無用の邪道なものになってしまった。レポートとしては失格である。だが、今はこれでよかったと思う。レポートでも少し述べたが、このレポートは、私が常日頃感じている疑問、問題、興味について、様々な角度からアプローチを試みてみようとする趣旨で作られたものだ。 多少の達成感はえられた。少なくともこの2ヶ月を全力ですごしたという達成感は感じられる。このレポートを自分の学ぼうとする姿勢や意欲を前面に押し出したものにしたかった。私は、これがやりたかった。このレポートを通して自分の熱い思いを伝えたかった。 なぜなら、このレポートはゴールではなく、スタートに過ぎないのだ。学問を志すものは誰でも、常に何らかの問題意識をもって生活している。そのことは、質は違うだろうが、大学教授も東大生も地方の国立大学の学生も同じである。ゼミのレポートはゴールではない。私たちはゼミを通して前進するのだ。ゼミは始まりである。もう少し厳密に言うなら、始まりの終わりである。私たちは、ゼミで得たことを生かして次のステップへ進むのだ。そういった点から、このようなレポートも一寸の価値はあるように思える。 今、この文章を書いているとき、昨年度の地方行政論の最終講義で中村先生がおっしゃったことを思い出した。立花隆氏の『謎の空白時代』のことだ。この本自体は読んだことはないが、立花氏が空海の不明の修行時代とその後の大きな成長について述べた文章である。ここでは、青春=謎の空白時代をどのようにすごすか、そこでの蓄積がいかに人生を豊かにするかを述べている。 私の現在の生活は、空海の謎の空白時代には質・量ともに到底及ばないのはいうまでもない。立花氏が述べるような青春や『謎の空白時代』をおくっているかどうかの判断もできない。だが、これからも立花氏が言う『船出』へ向けて全力で取り組みたい。これからも『求めんとする意志』をもって自分の興味に関して様々な角度から見つめたい。いつか訪れるであろう『船出』のために。 これを読んで、私のレポートに関心を持った方はぜひ、読んでみてください。 2001年6月21日 午前2:33分
参考 http://gyosei.mine.utsunomiya-u.ac.jp/kogimemo/genchi010129.htm
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