1.「調べて書く、発信する」(立花隆の模倣?)ことと、インターネット情報
「情報摂取量は、基本的に『情報摂取に費やされる時間』と『摂取する情報密度』の積である。情報密度とは、「単位時間の情報摂取で得られる有効情報量」すなわち「情報の濃さ」といってもよい。」「一つはできるだけ濃い情報を選んで摂取すること。もう一つは、情報を摂取する過程でそれを自分で濃縮して情報密度をあげることである。」(p.15.)
「コンピュータ・リテラシーがあって、英語で受信も発信もできる人だったら、すぐにでもそういうグループに入って世界の第一線の人たちと対等に語り合うことができるんです。インターネットは国境の壁を取り去っただけでなく、専門家と非専門家の壁、玄人と素人の間の壁を取り去ったみたいなところがあって、発信能力がある人なら、どんな世界にもどんどん入っていくことができます。」(p.43)
「一つの目安として、日本経済新聞に載る情報関係の記事は全部読んでわかるようにするというのが、一つの実践的目標になるだろうと思います。日本経済新聞の情報関連の記事というと、相当幅が広くて結構中身があるんですが、やはり、大学で情報教育を受けたというからには、それが全部わかるくらいになってもらいたいと思います。」(p.55)
(立花隆『新世紀デジタル講義』新潮社、2000年)
2.インターネット情報を「現代政治」「地方行政」の勉強に利用することの意味
@ 紙媒体との差異
A 一次資料、インタビュから得られた情報との差異(実証研究・フィールドワークには及ばないのか)
B 内容の政治性についての考慮(インターネット情報の怪しさ?)
3.インターネット情報の特殊性と「現代政治」「地方行政」
「家電製品や車を買う人はだれでも、店頭の商品やカタログを確かめる。値段や様々な機能、ガソリン消費量などのデータがきちんと表示されている。」「でも、医療には、そうした情報がない。担当医は何回手術をし、何人が亡くなったのか・・・」「米国ではここ数年、『医者』を知る」ための取り組みが、かなり進んできた。」「出身校や卒業年度、研修を受けた病院、専門分野、発表論文数、病院での懲罰歴・・・。瞬時に画面に現れる。」(朝日新聞2001年1月25日付)
4.レポートの見栄えと中身
@ 掲載・不掲載の決断迫られる?
A 著作権はインターネットの世界では存在しない?
B 編集作業過程での迷いと適正受講者数は?
C 多様性か雑然か
5.文系と理系の融合的な視点(主として「現代政治の理論と実際」受講生へ)
@ 「技術」的知識の必要性を痛感
A 「技術」者の倫理や哲学が方向性を左右
6.国内を対象とした研究と国外を対象とした研究(主として「地方行政論」受講生へ)
山崎浩一氏の小論「バックパッカー」を読んで感じたこと。(「週刊プレイボーイ」21号、1999年5月25日)
の
p.110 p.111 を参照
7.地方からの発信、ITの使いこなし、政治環境変化の兆候
8.教員から提示すべきこと(レポート内容をめぐる討議において感じたこと)
「大学で教鞭をとるものの義務はなにかということは、学問的にはなんぴとも明示しえない。かれにもとめうるものはただ知的廉直ということだけである。すなわち、一方では事実の確定、つまりもろもろの文化財の数学的あるいは論理的な関係およびそれらの内部構造のいかんに関する事実の確定ということ、他方では文化一般および個々の文化的内容の価値いかんの問題および文化共同社会や政治的団体のなかでは人はいかに行為すべきかの問題に答えること、―このふたつのことが全然異質的な事柄であるということをよくわきまえているのが、それである。もしこれにたいしてさらに人が、なにゆえ教室ではこのどちらもが同様に取り扱われてはならないのか、とたずねたならば、これにたいしてはこう答えられるべきである、予言者や煽動家は教室の演壇に立つべき人ではないからである、と。」
「予言者や煽動家に向かっては普通『街頭に出て、公衆に説け』といわれる。というのは、つまりそこでは批判が可能だからである。これに反して、かれの批判者ではなくかれの傾聴者にだけ面して立つ教室では、予言者や煽動家としてのかれは沈黙し、これにかわって教師としてのかれが語るのでなければならない。もし教師たるものがこうした事情、つまり学生たちが定められた課程を修了するためにはかれの講義に出席しなければならないということや、また教室には批判者の目をもってかれにたいするなんぴともいないということなどを利用して、それが教師の使命であるにもかかわらず、自分の知識や学問上の経験を聴講者らに役立たせるかわりに、自分の政治的見解をかれらに押しつけようとしたならば、わたくしはそれは教師として無責任きわまることだと思う。」 (マックス・ウェーバー『職業としての学問』(尾高邦雄訳、岩波書店、1999年)pp.41-51.
9.社会への働きかけ
(例)宮台真司氏の活動
10.「謎の空白時代」(立花隆氏の文章から)
プロローグ「恥なしの青春、失敗なしの青春など、青春の名に値しない」
青春というのは、それが過ぎ去ったときにはじめて、ああ、あれがオレの青春だったのかと気が付くものなのである。
テレビの青春ドラマの主人公のように、青春のまっただ中にいるときに、
「ウン、これが青春というものなんだなア」などと、自分でしたり顔にうなずくなどという場面は、よほど浅薄な精神の持主にしか起こりえないものである。
それが青春であるかどうかなど考えるゆとりもなく、精一杯生きることに熱中しているうちに、青春は過ぎ去ってしまうものである。
ぼくの場合もそうだった。ある日突然、ああ、オレの青春は終わったなと自覚した。そう遠い昔のことではない。正確に覚えていないが、片手で数えられる数年前のことである。 それは自分の生き方に対する迷いからふっ切れたことを自覚したときだったと思う。
いつからいつまでが青春期などと、青春を時間的に定義できるものではない。自分の生き方を模索している間が青春なのである。それは人によって短くもあれば、長くもある。はじめから老成してしまっていて、青春など全く持たない人も、必ずしも珍しくはない。どういうわけか、最近その手の若者がふえているような気がする。肉体は若く、精神は老いぼれた青年である。世間の常識から一歩も外れないようなことばかりいい、また、そういう身の処し方、生き方しかしようとしない。そういう人の人生は、精神的には墓場まで一直線の人生である。
平均的には、30代までを青春期に数えていいだろう。孔子は「四十にして惑わず」といった。逆にいえば、40歳までは惑いつづけるのが普通だということだ。
ぼくの場合もそうだった。青春が終わった自覚と共に、孔子がいった「不惑」とはこういうことであったのかと思った記憶がある。
迷いと惑いが青春の特徴であり特権でもある。それだけに、恥も多く、失敗も多い。恥なしの青春、失敗なしの青春など、青春の名に値しない。自分に忠実に、しかも大胆に生きようと思うほど、恥も失敗もより多くなるのが通例である。
迷いと惑いのあげく、生き方の選択に失敗して、ついに失敗したままの人生を送ってしまうなど、ありふれた話だ。若者の前にはあらゆる可能性が開けているなどとよくいわれる。そのとき、”あらゆる可能性”には、あらゆる失敗の可能性もまた含まれていることを忘れてはならない。
先に述べた精神だけが老化した青年とは、実は、あらゆる失敗の可能性を前にして足がすくんでしまった青年のことである。彼は口を開けば人生にチャレンジしない自分の生き方についていろいろ聞いたふうのことをいうかもしれない。しかし、真実は、彼は人生を前にして足がすくんでしまっているというごく単純なことなのだ。
また、あらゆる失敗の可能性を忘れている人は、いかに大胆に生きようと、無謀に生きたというだけである。あらゆる失敗の可能性を見すえつつ大胆に生きた人こそよく青春を生きたというべきだろう。
ぼく自身はどうであったのかと問われれば、どちらかといえば無謀に生きてきたというほうが近いかもしれない。だからまあ、あまり偉そうなことはいえない。
ともかく、迷いと惑いだけは人なみ外れて多かった。そして忍耐力に欠けていた。我慢できないことは、なんとしても我慢できないのだ。耐え難きを耐えて生きるよりは、残りの人生を捨てたほうがまし、と思うたちなのだ。人生のしがらみにキリキリ締めつけられると、どこか誰も知らない所へ一人で行って姿を隠してしまいたくなるたちだった。
それまでのキャリアを捨てて、新しい職業についたことが二度あるし、いつ帰るともしれぬあてのない旅に出たことも二度ある。全く誰一人知る人とてない旅先で病いを得て、金もなく治療の手段もなく、安宿のベッドの上でただじっと横たわって天井をながめながら、どうやら今度こそいけないようだ、このまま誰にも知られずに死んでしまうのではないかと思ったことも一度ならずある。
しかし、不思議なことに、そんなときでも、悔恨はなかった。人生がそこで終わったとして、それも仕方がないと、妙にさめたあきらめの気持ちがあった。それまで自分が好きなように生きてきて、ことここにいたったのだという思いがあったからだろう。
人生における最大の悔恨は、自分が生きたいように自分の人生を生きなかったときに生じる。
一見いかに成功し、いかに幸せに見えても、それがその人の望んだ人生でなければ、その人は悔恨から逃れることができない。反対に、一見いかにみじめな人生に終わろうと、それが自分の思い通りの選択の結果として招来されたものであれば、満足できないが、あきらめはつくものである。
若くして老化した青年たちは、それぞれに一見人なみ程度に幸せな人生は送ることができるだろう。しかし、いつの日か、ほんとは自分にはちがう人生があったのではないかと、その可能性を試せるときに試さなかったことを悔む日がくるにちがいない。
これからはじまる連載に登場してくる男たちは、いずれも、自分の人生を大胆に選択して生きようとしている男たちである。
選択の結果、成功したか、失敗したかを語るにはまだ早すぎる例ばかりだ。何しろまだ青春の真っただ中にいる男たちだ。だから、迷いも惑いもまだ山のようにある。不安も悩みもあるだろう。だが少なくとも、自分自身の人生を生きているぞという実感は持っているにちがいない男たちである。
その男たちと、人が生きるということについていろいろ語ってみたい。彼らから、何か悟りに満ちたことばをききだしたいとは思わない。むしろ迷いを語ってほしいと思う。過去の、そして現在の惑いをあからさまにさらけ出してほしいと思う。
人生論は、もっぱら喫茶店やバーの椅子の上で語られるものと思っている人がいる。自分の人生とは無関係の論であると思っている人がいる。しかし、ほんとの人生論は語るべき対象というよりは、実践すべき対象なのだ。自分の人生を語ることが、論を何もたてなくとも、そっくりそのまま人生論になるような人生、そういう人生を目指している男たちを選んだつもりである。
エピローグ「謎空白時代」
一般論としていえば、私はいまの若者たちがあまり好きではない。軽佻浮薄な大勢順応主義者があまりにも多い。太平楽で浮かれている若者たちの姿を見ていると、暗澹たる思いがしてくる。人間も社会もどんどん薄っぺらになり、いい加減なものになっていくような気がする。この連中が日本の将来のにない手というなら、日本の反映もそう長いことではあるまいなどと思ったりする。
だから、この企画をもちかけられとき、私はどちらかというとあまり乗り気ではなかった。ろくな若者に会えなくて、ろくなものが書けないのではないかと心配だったのである。 だが、結論から先にいってしまえば、その心配は杞憂だった。
1年間かけて、11人の若者たちに会った。いずれも魅力的で、かつ頼もしい若者だった。ここまで読んでくださった読者の方には、それはあらためていう必要がないことだろう。
連載を終えて1年分の「スコラ」を積み上げて読み返してみると、1人1人との出会いが懐かしく思い出されてくる。どの人とも、インタビューというよりは、何時間も何時間もかけて語り合った。最低でも4、5時間。長いときは泊りがけで語り合った。それを少ない紙数な中に押し込むのにいつも苦労した。
それだけ長時間語り合うことができたのも彼らの一人一人と共感するところがあったからだろう。共感しない相手とは、そんなに長時間語り合うことはできないものだ。
一人一人についてはすでに語っているので、最後に、取材全体を通じて得た感想なようなものを記しておきたい。
不思議にみんな落ちこぼれだった。早くも中学で落ちこぼれた人もいれば、高校や大学までいってから落ちこぼれた人もいる。時期にちがいこそあれ、みんなどこかで、人なみの人生コースから外れてしまった男たちだった。落ちこぼれた理由は人によってさまざまである。しかし、一言で乱暴に総括してしまえば、面白くなかったからということになろう。通常のコースをフォローする能力に欠けていたから落ちこぼれたのではなく、そうしたくなかったから落ちこぼれたのである。
落ちこぼれつつ、自分の情熱をかけるべき対象を追い求めていたのである。そして、それをいったん発見するや、彼らは落ちこぼれ人間から、とてつもない努力家に変身する。 それまでの彼が落ちこぼれであったとはとても信じられないくらい、精進を重ねて、一つの道をまっしぐらに進む。そしてただ、自分と自分の意志を情熱のみを信じて、新しい人生を切り開くのである。
連載を終えるにあたって、編集部から、どこか行ってみたいところはないかと問われた。この連載を終えるにふさわしい地に行って思うところを記してもらえばよいとのことである。
たまたま九州に行く用事があったところなので、
「平戸に行こう」
と提案した。なぜ平戸なのかというと、今年(1984年)は弘法大師空海御入定1,150年御遠忌の年にあたり、平戸でそれを記念した解纜(かいらん)法要がいとなまれることになっていたからである。
いまを去る1,180年前、空海は平戸の田浦港から遣唐使船に乗って中国に渡った。田浦で船の纜(ともづな)を解いたから、「解纜」法要なのである。
ときに空海は31歳だった。
四国の讃岐出身の空海は、18歳のときに京に出て大学に入った。大学というのは、貴族階級の子弟の教育機関で、古代のエリート教育機関である。
しかし空海は、せっかく大学に入ったのに、ほどなくしてドロップアウトしてしまう。そして、乞食同然の私度僧(自分勝手に頭を丸めて坊主になること)となって、四国の山奥に入り山岳修行者となる。
これ以後、31歳の年に遣唐使船に乗り込むまで、空海がどこで何をしていたのかは明らかではない。「謎の空白時代」といわれる。山野をめぐり、寺院をめぐり、修行に修行をつづけたと推定されるだけである。それがいかなる修行であったかは明らかでない。
彼が遣唐使船に乗り込むにいたった経緯もまた明らかではない。ただ一つはっきりしていることは、彼がその直前まで私度僧であったことである。空海は留学僧として遣唐使船に乗り込んだ。しかし、留学僧になれるのは、正式に出家した僧だけである。そこで空海は、遣唐使船に乗り込むほんの一カ月ほど前に、あわてて東大寺で正式の出家を果すのである。その記録が東大寺に残っている。
遣唐使船に乗り込んだ空海は一介の無名の留学僧にすぎなかった。彼に注目する者は誰もいなかった。
しかし、唐の地に入るや、空海はたちまち頭角をあらわす。十年余にわたる彼の修行時代の蓄積が一挙に吐き出されて、唐人から最高の知識人として遇されるにいたるのである。密教の権威、恵果阿闍梨をして、門弟の中国人僧すべてをさしおいて、外国人たる空海に、密教の全てを伝授しようと決意させるほど、空海に対する評価は高かった。
「謎の空白時代」に、彼がどこで何を修行していたかは明らかでない。しかし、その修行がもたらしたものは、歴史にはっきりと刻印されている。唐に滞在したわずか一年余の間に、空海は名もなき留学僧から、密教の全てを伝えられた当代随一の高僧となる。それは、留学の成果というよりは、「謎の空白時代」の修行の成果が、留学を契機に花開いたものというべきであろう。
「謎の空白時代」は、空海の青春である。
空海においてそうであったように、青春は誰にとっても「謎の空白時代」としてある。
青春時代を取材するというのは、「謎の空白時代」を取材するということなのだ。
この連載で取材して歩いてきたように、もし、空海の「謎の空白時代」を取材して歩くことができたなら、どんなに面白かったろう。
そんなことを考えながら、私は平戸島の田浦の海岸に立って海をながめていた。田浦は、平戸島の外れにある小さな湾で、付近にはほとんど住む人とてないうらさびれた海岸である。「弘法大師渡唐解らん之地」と記された石碑が立つ以外にはほとんど何もない砂利だらけの海岸である。いまですらこうなのだから、1,200年前の昔は、もっとさむざむとした海岸であったろう。
そのころ、遣唐使船に乗り込むことは半分命を失うことを意味した。造船術も航海術も未熟なこの時代、東支那海を横断するという大航海は技術的に難しく、遭難が続発して、無事に往復できた人はほんのかぞえるほどしかいなかった。それは文字通り、命賭けの航海だった。
空海はむろんその航海が危険なものであることを承知していた。生きて日本に帰れるという保障は何もなかった。唐へ留学したからといって、どうなるというあてがあるわけでもなかった。志を得ぬまま異郷の地に死ぬ可能性もまた大だった。
田浦で目前に広がる未知の海を前にして、空海の心中は不安であったろう。船出は、未知のものに、自分の人生を賭けることを意味した。
それでも空海は船出した。「謎の空白時代」は、彼に、自分に対する自信を与えていた。自分に対する自信があったから、空海は自分に賭けた。自分の人生を自分に賭けたのである。未知の大海の中で自分が切り開いていくであろう状況に賭けたのである。
自分の人生を自分以外の何ものかに賭けてしまう人がどれほど多いことか。自分以外の誰か頼りになれる人、頼りになれる組織、あるいは、自分自身で切り開いていくのではない状況の展開などなど。他者の側に自分の人生を賭ける人が、世の大半である。
しかし、空海にしろ、この連載に登場した若者たちにせよ、自分の人生をそうしたものに賭けようとはしなかった。彼らは、他者の側にではなく、自分の側に自分の人生を賭けたのである。
この連載に登場した一人一人、それぞれに「船出」の時があった。これというあては何もないのに、自分だけを頼りに、自分の人生を賭けた航海に、未知の大海へ向けて漕ぎ出していく「船出」の時があった。
注意してもらいたいのは、その「船出」の前の時期である。空海の「謎の空白時代」にあたる時期である。この連載では、それを「謎の空白」に終わらせずに、できるだけ本人をして、そのとき何を考え何をしていたのかを語らしめている。
「謎の空白時代」が明らかになってみると、「船出」がやみくもの冒険ではなかったことがわかる。自分の人生を自分に賭けられるようになるまでには、それにふさわしい自分を作るために、自分を鍛えぬくプロセスが必要なのだ。それは必ずしも将来の「船出」を前提としての、意識的行為ではない。自分が求めるものをどこまでも求めようとする強い意志が存在すれば、自然に自分で自分を鍛えていくものなのだ。そしてまた、その求めんとする意志が充分に強ければ、やがて「船出」を決意する日がやってくる。
そのとき、その「船出」を無謀な冒険とするか、それとも果敢な冒険とするかは、「謎の空白時代」の蓄積だけが決めることなのだ。
青春とは、やがて来るべき「船出」へ向けての準備がととのえられる「謎の空白時代」なのだ。そこにおいて最も大切なのは、何ものかを「求めんとする意志」である。それを欠く者は、「謎の空白時代」を無気力と怠惰のうちにすごし、その当然の帰結として、「船出」に日も訪れてこない。彼を待っているのは、状況に流されていくだけの人生である。
そうではなくて、何ものかを「求めんとする意志」に駆られて苦闘しつつある諸君たちにやがてよき船出の日が訪れんことを祈って本稿の筆を置くことにする。
(立花隆『青春漂流』講談社、1989年、7−12頁、271−278頁。)