「栃木科学・技術シンポジウム2001」

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第2部   インターネット・ミーティング

―ITがつなぐ地域―

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講演者/田村泰彦・群馬大学社会情報学部長

(群馬大学社会情報学部からのIT中継)

演 題/情報の本質を考える

コメンテーター/内山雅生・宇都宮大学国際学部教授

司会/藤田和子・宇都宮大学国際学部長

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藤田インターネット・ミーティングは画期的な試みだと思う。今後の学部教育(遠隔教育など)に生かしていきたい。宇都宮を拠点に世界をみるのが国際学部の特徴。日本全国、世界各国から学生が集まっており、地球社会、地球文化形成に役立つ人材を輩出していきたい。科学・技術のプラス面を重視して、世界から情報を収集し、また発信していきたい。国際学部設立以来、群馬大学社会情報学部とは密接な連携を保っている。これから報告される田村氏は、常に社会の中で理論を生かす姿勢で精力的に研究活動に従事してきており、大変興味深い話をしていただけると期待している。

 

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田村:大きく2つのことを話したい。第1点は情報技術の本質について、第2点は情報と社会との関わりである。

まず第1点、ITの進展によってパソコンが電化製品になるかのような勢いである。しかし、パソコンは家電製品と違ってそのまま持ってきただけでは使えない。パソコンはそこに人間が機能を加えないと使いものにならない。ここ5年間の趨勢をみると、マルチメディア→インターネット→そして現在はIT革命といわれるが、実質は革命というよりはブームと捉えた方がいいのではないか。

 

IT革命といわれているものは、鉄器革命とか蒸気機関革命と同じようにtoolの革命に匹敵するのではないか。ここ50年間を振り返るとむしろ情報技術は着実に地道に発達してきたと捉えた方がいい。次世代はホーム・オートメーションの時代である。すなわち、家庭に情報技術が入りこんでくる。しかし、これにも普及の点で限界があるように思われる。

 

100年単位で考えると、50年前100年前に人間が夢に描いた技術はそのほとんどが実現している。ここで大切なのは現在、地域社会に対して技術を適用させるための環境条件が果たして十分なのかということ。交通問題、環境問題、教育、病院など社会の問題はまだまだ未解決である。このような諸課題は情報技術が適用された結果、確かに以前よりは良くなっているが、例えば、患者の立場からみた診療待ち時間の長さなど多くの問題が残っている。

 

要するに「個」の技術は性能が向上し便利になっているが、「社会に対する技術」については相変わらず課題が多い。例えば交通渋滞や交通事故が典型的な例である。その原因は市場経済にある。需要と供給のバランスだけでは片付けられない問題状況に対処する社会技術が不足しているからではないか。

 

次は情報の本質と社会の関わりについて話をしたい。まず情報社会の認識であるが、これをどう把握すればよいか。ここでは広義と狭義の情報を設定したい。情報とデータとは区別しておきたい。というのはデータは現象、すなわち、社会現象や自然現象を数値や文章を用い表現したもの。それに対して、情報はそれを欲する人がいて初めて成り立つ。こうして考えると、よくいわれるのは「情報の氾濫」ではなく「データの氾濫」ではないか。情報は人間の心の問題である。ある人にとっては情報でも他者にはデータに過ぎないことがある。

 

情報化社会とはコンピュータ機器やパソコンを多く使う社会と捉えがちだが、これは単なる現象に過ぎない。本当のところは、情報が豊かな社会こそが情報化社会と呼べるのではないか。要するに「リッチ・インフォメーション・ソサイアティ」である。情報の含有量が深くなっている社会が情報化社会なのであって、衣服にしてもその中にデザインなどの情報コストがかなり含まれている。この「デザインコスト」こそ情報である。あるいは宣伝用コストや製造過程でのコンピュータ利用も情報コストに該当する。この情報コストこそが50年前、100年前と比べると格段に高い割合になっている。

別の角度から考えると、情報の中でも「意味情報」が重要視される。たとえば、このインターネットミーティングは、文章を読む場合とはかなり違う。ここには筆舌には尽くせない意味がある。あるいはコンテクストがある。文章とか音声とかでは伝えられないところの意味がある。

 

次に情報の価値である。情報というのは希少価値と結びつく。自分の引き出しの中に情報をしまっておく。これが情報の独占につながる。対して、情報の多様価値というのは、情報が多くの人に使われれば使われるほど価値を持つという考え方である。例えば、モーツアルト作曲の音楽譜が引き出しの中にしまわれていた場合、我々はその良さを享受することができない。やはり今の時代は希少価値よりも多様価値の時代ではないか。

 

「あいつはよくできるやつだ」という評価は、以前ではその人間が持っている技能を他者に隠すことによって成り立っていた。しかし、今やそのようなことでは通用しない。情報を他者に広めてチーム力、あるいは会社の力にどれだけ貢献したかどうかでその人間が評価されるようになっている。

 

ネットワーク社会は、いわゆる「電線ネットワーク」だけをいうのではない。人間同士がお互いに情報交換する。そこには人間の心が働く。各々の人間同士の違いを評価し合うということがネットワーク社会の本質である。すなわち、人間同士違うことが前提なのである。お互いに違うことを意識しながら交じり合うこと。日本では「変わり者」は評価されないが、アメリカではこれを独創的、他人と違う考えを持っているとして評価する。ネットワーク社会の本質は、まさにこのような考えにあるのではないか。

 

社会が情報化するための本質はネットワーク社会。重要な情報は個人個人が単独で持っているのではなく、人間同士が関係を持ってそこで評価し合うことで生まれるのである。個々が情報を発信してこそ、お互いに繋がっていくのではないか。そうなると、一人一人の身近な情報、個人個人の生活情報を交換することにこそ意味がある。すなわち、「生活情報ネットワーク」こそが情報の本質なのである。また、生活情報ネットワークは自己表現の場としても生まれる。

 

地域情報ネットワークを広めることも大切である。本当に価値のある情報は各個人個人が生活している地域社会、地域組織から発する。個人個人が結びついて、新しい情報を発信したり、お互いの情報を評価することが重要である。すなわち、個人個人の情報は単独で存在しているのではなく、お互いに「評価し合いながら」成り立つものである。人間同士が交わってこそ情報の価値が生まれることを繰り返して強調しておきたい。

 

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内山:宇都宮大学国際学部と群馬大学社会情報学部との間で共同プロジェクト研究の立ち上げを提案したい。具体的には北関東地方におけるブラジル・ペルー社会人と地域社会との共生について探ってはどうか。

日本社会における多文化社会の実現を目指す上で、果たして移民者間でのネットワーク形成における情報の核は何か。人間が移動し新たな社会を形成するということは同時に新たに生きた情報が生まれてくるということ。

 

168万人に達する外国人登録者は日本における全人口の1.4%に達している。ブラジル人、ペルー人についてはこどもの数が多く、ネットワークを形成している。来日後10年を経て、彼ら彼女らは定住する傾向にある。日系人枠を用いて製造業に従事する者が多くなっている。栃木県と群馬県に住む日系ブラジル人は3万8000人ほどで非常に多い。特に両毛地域に集中している。今後10年で3世が生まれてくる。

 

群馬大学と宇都宮大学の連携でこうした諸課題を共同で研究していきたい。単なる隣県同士だから一緒にやるのではなく、日本社会の深層部を研究していきたい。これは地球社会の課題解決にもつながるのではないか。国際学部と社会情報学部はこうした研究を通じて飛躍していきたい。

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田村:内山氏の意見・コメントに大いに賛同したい。外国人労働者は直接間接的な問題として、家庭の問題もあれば、こどもの問題、日本の製造業の問題、さらには文化面・社会面でも難しい問題を抱えている。非常に重要な課題で研究対象としてやる価値がある。今後、当学部の教授会でも提案し、ぜひ国際学部と一緒にやっていきたい。

 

 

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(文責 中戸祐夫、中村祐司)