行政学概論演習

国債の在り方

 

最近新聞やテレビなどを通じて、国と地方の借金は合わせて660兆円にのぼることが明らかになった。

私の感覚からすると600兆円を超える借金は大変莫大な額である。そのため借金に対するこれまでの経過と必要性

の有無、そしてこれからの借金返済の展望は大変興味深い点である。そこで私はこの問題に対して

 

(1)これまでの経過

    借金の歴史(どのような状況で借金が増えていったのか?)

 

(2)現在の状況

    現在の構造的な赤字財政の問題点は何処にあるか?

    他の先進国の状況

 

(3)これからの展望

    政府の借金返済計画はどのように進められるべきか?

 

    という3つの時代区分をして見ていきたい。その前にまず国の借金とは何を指すか整理したい。

国の「借金」とは?

 国の借金とは国債のことを指す。現在日本の財源は政府の税収と国債の発行から成り立っている。

 

 国債(government bond)について

 広辞苑では「国家が財政上の必要から国家の信用を似て設定する金銭上の債務」と記している。

本来は債券発行(この債券も国債と呼ぶ)を通じた借り入れをいうが、広い意味で財源調達のための借り入れ一般

に対する債務を表す。また国債にはその性質によって「建設国債」と「赤字国債」に分類される。

「建設国債」と「赤字国債」

建設国債と赤字国債の大きな違いは国債発行を裏打ちする法律上の違いといえる。建設国債は公共事業のような

将来的にも国民の生活に関わる事業について使われる費用として財政法の但し書きで国会の承認を得ることを条件

に認められている。これに対して赤字国債はそのとき限りで消費されるので、将来的に国民の生活には関係がないた

め、本来財政法では認められない種類の国債である。しかし、これまでの経緯では特別に新しく法律を制定すること

でつじつまを合わせている。

ひとつの意見として、現実的にはこの区分にはあまり意味がないといわれている。なぜなら両方とも財源が国債である

以上借金をすることに変わりはなく、また将来的に国民の生活に関わる事業には教育や情報環境の整備等幅広い分野を

含めることが出来る。よって建設国債の枠組みを明確にするのは困難であるからである。

   

T、戦後の赤字国債発行の歴史

a,概要

 日本の財政の大まかな流れとして、66年度から86年度まで赤字が拡大し、87年度から91年度の間は収縮した。

そして92年度より再び拡大期に戻った。

 初の国債発行

戦後、日本初の国債発行をしたのは1965年の補正予算においてである。これは東京オリンピック後の過剰生産

不況を受けての税収不足が原因だった。このときの発行金額は2000億円だったが、あくまで一時的な措置だった。

しかし、政府はやがて毎年のように国債を発行して不足する財政資金を賄うようになった。財政法では、基本的

国債の発行で財政を運用することを禁止しているが、公共事業についてはその限りでないことを記してある。

道路やダムは後世に資産として残るものだからという考え方である。しばらく経つと公共事業は国債発行で実施する

ものだという常識が登場した。 しかし、オイルショック後の75年度にはそれでも歳入不足が生じたので財政法

ではなく、特例法により特例国債(赤字国債)が発行され、以降15年間、わが国の財政は赤字国債依存体質を強め、

70年代後半から80年代前半に一つのピ一クに達する。以後毎年発行されるようになった。79年には国債依存度

が39%に達した。

 財政再建への試み

拡大する国債依存に対して政府は80年度から歳出一律カットによる厳しい財政再建に乗り出した。本来緊縮財政

を敷くと景気の伸びは悪くなる。しかし80年代前半は米国において双子の赤字が拡大して高金利が異常なドル高を

もたらしたため日本は輸出に頼って景気を維持することが出来た。80年代後半は円高となったが、今度はバブル景気

となり、財政は税収増やNTT株売却などバブル収入のお陰で90年度には赤字国債新規発行ゼロというところまで改善した。

90年までの赤字国債からの脱却を目指した結果、91年ようやく赤字国債から脱却することが出来、国債依存度も10%

にまで低下した。しかしその後循環的不況とバブル崩壊で再び赤字が拡大した。赤字国債94年より再び発行され、

現在に至っている。

 1994年以降の経過

    1994年以降は着実に財政赤字は増えつづけた。そのため1997年には財政構造改革法が制定され、2003年までに赤字国債

の新規発行をゼロにすること、また国土地法の財源赤字を対GDP比3%以下にすることを政府が義務付けられた。しかし

19975月に始まったアジア通貨危機や相次ぐ金融機関の破綻により、経済対策と財政改革を同時に行なわなければ

ならないという苦しい状況になった。現在小泉内閣のもとでは財政改革を重点的に取り組む動きがあり、赤字国債の削減

と歳出削減をその基本に据えている。

b,国債増加の原因は何処にあるのか?

(1)ニクソンショックをめぐって

日本の財政にとって戦後の大きな転換期となった事件である。当時1ドル=360円という固定相場は貿易に頼ってきた経済構造上非常に重要な規定であった。そのため、ヨーロッパ各国を含める先進国がいち早く変動相場制への対応へ追われる中、日本だけは1ドル=360円の相場を守ることを国の最重要課題であるとして、ドル売りの世界状況に対し1国だけで大量のドル買いを行なった。しかしながら、ドルの担い手であるアメリカ自身がドルの切り下げを政策としていたためこのレートを維持することは難しく、なし崩し的に円の切り上げが継続された。

この事件と国債との関わりは政府が円の切り上げを不安視するあまり過剰ともいえる財政拡大政策を行なったという点である。変動相場制になれば国の経済力にあった円の強さが相場に現れる。しかし、当時の政府は円の切り上げを過剰に恐れた。そのため、「調整インフレ策」という政策がとられた。これは大量の国債を発行し内需拡大を達成し、国内が不況に陥るのを防ぐことを目的としていた。そのため、この年の一般会計予算は142841億円でその伸び率は24,6と過去最高の値をみせた。

     そしてこの大量の出資は公共事業と社会福祉に向けられた。この政策により1973年は福祉元年と呼ばれ、また田中内閣での列島改造計画の推進へと向かうことになった。

(2)田中角栄の時代

 内需拡大を目指すこの時期、日本は激しいインフレに見舞われていた。(列島改造計画のとき資金をばら撒きすぎたことが原因の一つとしてあげられる)そのため特に社会福祉面では物価の伸びに対応できない人の需要を満たすため多大な財政支出が行なわれた。と同時に1973年の第一次石油危機は日本の不況をいっそう加速させていた。そのため、1974年には経済成長率が戦後初のマイナス成長を記録した。したがって、田中内閣はインフレーションと不況を2つ同時に相手取らねばならなかった。しかし、当時の政府はとりあえずの物価抑制に全力をあげた。そのきっかけとなったのが福田蔵相就任である。

 

 

[1]

国債発行前後の経過

1964年          東京オリンピック開催

1965年          補正予算にて初の国債発行

1971年 ニクソンショック(変動相場制への移行)

1972年 田中角栄内閣発足

1973年          第一次石油危機

1975年 特例法により赤字国債を発行

1979年          第二次石油危機

国債依存度が39%に達する

1980年          アメリカ合衆国にてレーガン大統領誕生

アメリカで双子の赤字が問題となる

日本の輸出が拡大

1986年          バブル景気始まる

1989年 消費税が導入される

1990年          バブル崩壊・平成不況始まる

赤字国債新規発行ゼロになる

1994年          再び赤字国債を発行

1997年 財政構造改革法制定

 

                     

 U、アメリカにおける財政問題

 アメリカにおいて今日に続く財政赤字の始まりとなったのは1965年のベトナムへの介入を始めたときからである。

この1965年から1968年の間に軍事支出は47%の増加、財政赤字は10億ドルから250億ドルに跳ね上がった。

その後1969年にはベトナム戦争の戦費調達のため増税が行なわれた。そのため1970年は不景気になった。

しかしアメリカを最大の債務国へと追いやった原因は変動相場制への移行と石油危機による1970年代のインフレである。

(1)変動相場制に至るまでの経緯

 アメリカは1969年にベトナム・インフレともいえる第二次大戦後最高の物価上昇率を経験した。ニクソン大統領はこのインフレ

をなんとか景気悪化を避けつつ抑えようとした。しかし景気は悪化してしまい1971年には失業率が6%近くになった。

大統領選を近くに控えたニクソンは思い切った景気対策をとることを決定し、数十億ドルの紙幣増刷を行なった。

このため世界中でドルが余りだし、1971年にはドルを金に変えようとする国が増えた。また金の交換をしないまでも市場を封鎖してドルの流入を阻止したりした。そしてついに金・ドル交換停止となった。この発表によってアメリカもまた紙幣増刷による

景気刺激政策の足枷がなくなった。この時期イギリスもまた通貨増刷により、だぶつきが出ておりあふれた通貨は不動産投機

へと流れた。この時期は丁度田中内閣における列島改造政策のころと一緒である。日本のだぶついた通貨もまた不動産につぎ込まれていた。そのような世界規模のインフレ前兆の中、先進国の蔵相によるスミソニアン会議でのレート決定はすぐ覆され(日本は

1ドル=308円)変動相場制(フロート化)し始めた。そのような下地の中1973年石油危機が起こった。

(2)石油危機とアメリカ

 アメリカにとって石油価格の管理は重要政策のひとつである。それはまたアメリカの強力な外交カードでもあった。

そのためセブンシスターズと呼ばれるアメリカとイギリスの石油会社が中東の石油を抑えていた。

しかし変動相場制への移行によるドルの下落は石油収入の減少に直結していたため、アラブ諸国の代表者を一様にいらだたせ

さらにイスラエル支援の問題もあって団結することを阻止できなかった。セブンシスターズによる石油価格の管理という

枠が外れたため、石油もまた変動相場制へと移行しフロート化した。この結果として先進国の富はOPECへと流れた。

そのためアメリカは日本と同様に不況とインフレを同時に体験するスタグフレーション状態に陥った。

スタグフレーションに陥ると政府は非常に身動きが取れない。インフレを抑えるために政府支出を減らすと不況が深刻になる。

不況の解決のため紙幣を増刷すればインフレに拍車をかけることになるからである。

(3)レーガノミクス

1980年になるとレーガン大統領によって「小さな政府」が目指されるようになる。その骨子は「減税しながら税収を増やす」

ことである。これはつまり減税して好景気になれば税収も増えるというものである。また国防費の増加にも力を入れた。

しかし実際にはレーガンの時代においてはこの構想は達成できなかった。すなわち景気の回復にはいたらなかったのである。

また国は国民のさまざまな面倒を見るのでなく国民の安全を守ることにそのほとんどを割く事を政策としていた。

したがって国防費は増加し、税収は減少したため国の赤字は増えつづけた。

                                    「アメリカが破産する日」より

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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