Takeia010523
余暇政策論
100万都市について
2001年5月1日。埼玉県の県都、そして浦和レッズのホームタウン、サッカーの街「浦和市」。埼玉県の交通と経済の要衝地、鉄道の街「大宮市」。その浦和市と大宮市に囲まれた「与野市」。その3市が合併し「さいたま市」が誕生した。
http://homepage2.nifty.com/saitama-city/
「埼玉にはヘソ(となる都市)がない」
「埼玉に寝に帰る埼玉都民」
「ダサイタマ」
といわれてしまう埼玉県に、日本で13番目の政令指定都市「さいたま市」が生まれる。(政令指定都市になるのは2003年までに移行される予定。)
<さいたま市合併前史>
「浦和・大宮・予野合併」はいま今に始まった話ではない。70年間に7回も合併気運が盛り上がっては、消えていった。
最初は、1927年(昭和2年)に宮脇梅吉県知事(内務省から派遣された官選知事)が、大宮、予野を中心とする一大都市建設構想を明らかにした。このときは何度か協議されたが具体化せずに終わった。
このあとに協議されたのが、1931年(昭和6年)。議論の中心は、再び来任した宮脇梅吉知事。「埼玉市建設の構想」を再び提唱したが、宮脇知事が在任わずかで離任したことで立ち消え。
3回目が1939年(昭和14年)。浦和、大宮でそれぞれ周辺の町村との合併を進める気運が持ち上がった。浦和市長(1934年、浦和は市制)が大宮町、予野町を訪れ、「大埼玉市」構想を力説し、合併を呼びかけたが、この話も立ち消えに。これ以降、戦時体制でとても合併という話ではなく、合併議論は戦後まで待たなければならなかった。なお、1940年(昭和15年)に大宮が市制施行した。
戦後初めて合併気運が盛り上がったのは、1954年(昭和29年)。予野町議員が大宮市長を訪れ、「埼玉市建設」を申し入れ、浦和にも同様に申し入れた。これをきっかけに、浦和市、大宮市、与野市、土合村、大久保村の首長と議長が合併問題の会議を開いた。合併問題の会議が開かれたのは初めてだった。
次は翌年の1955年(昭和30年)、昭和の市町村合併の時期にあたる。予野町は土合、大久保2村を編入して市制を目指したが、土合、大久保は浦和市に編入。その後、与野は浦和、大宮から合併話を持ち込まれ3分割案などに揺れた。合併反対運動が高まり、町議会が合併議案の審議をしないことを決定した。
そして、1970年(昭和37年)。浦和市議会が大宮、予野に50万人の「埼玉大都市」構想を打ち出したが、立ち消えた。
1970年代に入り1973年(昭和48年)、浦和、大宮、予野3市長が「100万人都市構想」で公式な話し合いがもたれた。行政連絡会議を設置したが、東北・上越新幹線問題(市域を地下トンネルで通すか、通勤新線と併設するかなどの問題)が3市の課題の中心となり、行政連絡会議も消滅した。
1980年(昭和55年)には「埼玉中枢都市圏首長会議」が発足した。そして1982年(昭和57年)、畑和県知事が3市と上尾市、伊奈町を含めた「埼玉中枢都市圏構想(さいたまYOU And Iプラン)」を策定した。このころ3市に上尾市、伊奈町を加えた4市1町で合併し政令指定都市をめざす気運は高まった。その後、1989年(平成元年)8月、東京一極集中機能を分散させようと、1984年(昭和59年)に機能を停止した旧国鉄の大宮操車場跡地に政府の関東地方の出先機関を移転させることが決まった。移転先には、横浜みなとみらい、千葉幕張、立川、八王子も名乗りをあげたが、最終的には3市地域に決定した。実はこのとき、畑知事と埼玉出身の土屋義彦参議院議長(現知事)が石原信雄官房副長官(現浦和市・大宮市・与野市合併協議会会長)に合併の約束をしていた。これが、現在の合併話の起源であるといってもよい。
1972年(昭和47年)から5期20年の長期政権を担った畑和知事(1996年死去)が1992年(平成4年)に県庁を去った。その後を受けて県知事になったのが、土屋義彦知事である。1993年には県知事、浦和市長、大宮市長、与野市長、上尾市長、伊奈町長の連名で「彩の国 YOU And I プラン」を策定した。「YOU And I」とは、Y=与野、O=大宮、U=浦和、A=上尾、I=伊奈の英語の頭文字をとったもの。
「彩の国 YOU And I プラン」ゆとり、思いやり、潤いあふれる彩りの街 「彩の国 YOU And I プラン」は、埼玉県と浦和市、大宮市、上尾市、与野市、伊奈町の4市1町が協力 し、「ゆとり、思いやり、潤いあふれる彩りの街」をテーマとした埼玉の中枢都市圏をつくろうと、すすめている計画 【対象地域】埼玉中枢都市圏 浦和市、大宮市、与野市、上尾市、伊奈町の4市1町 【目的】
【概要】
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政府の出先機関の集団移転(さいたま新都心の着工)と「彩の国 YOU And I プラン」によって、浦和、大宮、与野の3市と上尾、伊奈の1市1町の合併話が本格的になっていった。
1994年(平成6年)5月に「政令指定都市問題等三市議員連絡協議会」が設置された。1995年(平成7年)3月に浦和と大宮の、6月に与野の市議会で「合併促進決議」が可決され、1997年(平成9年)7月には3市の議会で「3市による任意の合併協議会の設置」を決議し、12月には「浦和市・大宮市・与野市合併推進協議会」(法定の協議会ではなく、「任意の」協議会)が発足した。ここで、合併の期日や方式など本格的な議論が始まることになった。
しかし、3市の合併協議が全て順調にいったわけではない。協議が紛糾したのは、
1. 新市の市域(「六・二五合意」)
2. 合併の期日
3. 合併の方式
4. 新市の名称・市庁舎の位置
――などであった。
1. 新市の市域(「六・二五合意」)
新市の市域 |
提唱者 |
|
|
3市合併 |
++ |
浦和側が中心 |
「さいたま新都心」を中心とした3市で合併し政令指定都市化を目指すすべきだ。4市1町で合併したら、新市の中心は大宮に行ってしまうという危惧感が背景にはあった |
4市1町合併 |
++++ |
大宮、上尾、伊奈側が中心 |
「埼玉中枢都市圏(彩の国 YOU And I プラン)」を策定したのは4市1町だから、4市1町で合併し、政令指定都市化すべきだ。そうすれば新市の中心は大宮にもってこれるという期待感が背景にはあった |
3市「先行」合併 |
++ |
与野側が中心 |
最初に3市で合併し、政令指定都市移行時に上尾、伊奈の移行を踏まえて再度協議する。浦和側が主張する「3市」案と大宮・上尾・伊奈側が主張する「4市1町」案の妥協案。さいたま新都心の建設で膨大な財政負担を抱えることになる与野は、何としても合併したかった。浦和側と大宮・上尾・伊奈側との間で仲介役を果たすことになった |
合併しない |
|
合併に反対、または異議を唱える市民団体が中心 |
異議を唱える団体は、首長、議会議員でのみ議論されており、市の合併という重大な問題に市民の参加が見られないという意見。また、反対を唱える団体は、浦和、大宮、与野などの地名に歴史性、伝統性があり、安易な合併はするべきではないという考え |
浦和と大宮の確執が一番顕著に表れたのが、この新市の市域問題といっていい。上表のように、新市の中心を自分のところに残しておきたいという「3市合併」を主張する県都・浦和と「4市1町合併」を主張する埼玉経済の中心・大宮の戦い。その一方で、与野は浦和と大宮の「接着剤」の役に徹し、協議の前進に腐心した。
協議が遅々として進まず、結局、2000年度中の合併は時間的に不可能となり、浦和と大宮の思惑の妥協案は、「なお書き」という形で決着した。これが、「六・二五合意」である。政令指定都市への移行に関する基本的な事項を協議する三市合併推進協議会の第4小委員会で、新市誕生後の政令指定都市移行時に上尾市、伊奈町の合併の意向を確認することで合意したわけである。
六・二五合意新市成立後、新市は上尾市・伊奈町の意向を確認の上、速やかに合併協議を行うものとし、2年以内を目標に政令指定都市を実現する。 浦和市、大宮市、与野市は、新市成立後、新市において意向確認が誠実に実行されることを合併協定書により、新市に引き継ぐものとする。 |
2. 合併の期日
多極分散型国土形成促進法が成立した時期と前後して、前述したように、政府の関東地方の出先機関の移転が決まり、畑和知事と石原信雄官房副長官との話し合いで、「政府機関が移転してくるのなら、それまでに移転地域(旧国鉄大宮操車場跡地)の入り組んだ市域をなくし、合併はやる」と畑和知事は発言した。いわば、さいたま新都心の建設は最低でも浦和、大宮、与野3市が合併することが前提となっていた。
つまり、さいたま新都心の街開きの2000年(平成12年)度の前に合併すべきとの前提があった。
しかし、実際には、任意の合併協議会での協議が紛糾した結果、合併期日は、さいたま新都心の街開きから1年後の2001年(平成13年)5月1日となった。この2001年5月1日という合併期日も最後の最後まで決まらなかった。
3. 合併の方式
地方自治体の合併には、厳密には「編入合併」と「新設合併」の2つの方式があります。この問題は、3市合併の根本的な大きな問題ではなく、国の合併の手続き上の問題とも言える。
編入合併 |
新設合併 |
A市+B町+C村 |
D町+E町+F町+G町 |
自治体としてB町とC村が廃止され、その区域をA市に編入する |
自治体としてD町、E町、F町、G町が廃止され、その区域をもって、新しい自治体H市が発足する |
【岩手県】盛岡市+都南村 |
【東京都】秋川市+五日市町 |
浦和、大宮、与野の合併では、3市の市域を廃し、その区域を持って新市を新設する合併方式となることが決定された。
4. 新市の名称・市庁舎の位置
新市の名称、新市の市庁舎の位置の協議は、市域の問題とともに、「新市には新しい名称を」と主張する浦和・与野と「新市の名称は大宮」と主張する大宮の対立の図式が如実に現れた。
三市合併推進協議会の新市の名称などを検討する第2委員会は、3市の市民代表などからなる「新市名検討委員会」を設置して、新市の名称を報告するよう求めた。新市名検討委員会は、新市名を「公募」することに決め、2000年1月10日〜2月18日に募集し、全国から6万7,665件の応募(応募結果の詳細)があった。
応募の結果を踏まえ、新市名検討委員会は、「さいたま市」「埼玉市」「さきたま市」「彩都市」「関東市」の5案を選考し、第2小委員会に報告した。浦和・与野側が「さいたま市」、大宮側が「大宮市」を最終的に提案した。大宮側は「『大宮市』は応募数で3位にランクされている」と言えば、浦和・与野は「新市名検討委員会で3市の名称は外すことになった」と反発した。
浦和・与野の「さいたま市」案に、予想もしないところから「待った」がかかった。それは、「埼玉古墳群」がある行田からだった。埼玉県の「埼玉」は、幸魂→埼玉→埼玉と変化したもので、行田には「埼玉」という町名が残っている。行田は埼玉県名発祥の地と自負しているのである。行田市、行田市議会、行田商工会議所、行田青年会議所、行田市埼玉地区自治会連合会が、3市合併の新市名称に「さいたま」「埼玉」を使わないでほしいと申し出た。
結局、新市名称決定の期限ギリギリの2000年4月17日、大宮側が「大局的な判断」に立つとして譲歩する形で、新市名称は「さいたま市」となった。
新市の市庁舎(市役所)問題も、浦和と大宮の争いだった。経済の中心・大宮に市庁舎までも持っていかれたくない県都のプライドがある浦和と交通の利便性などでさいたま新都心周辺に新市庁舎を持ってくるべきとする大宮。この問題には、ウルトラC級の妥協案ができあがった。つまり、「新市誕生後、当分の間」と「将来」に分けたのである。
新市の市庁舎に関する合意
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つまり、新市誕生後の市庁舎は、現在の浦和市役所を「さいたま市役所」とし、大宮・与野の市庁舎については、「さいたま市役所大宮・与野総合行政センター」として住民サービスにあたり、将来的には積み立てた新市庁舎建設基金でさいたま新都心周辺地域(さいたま新都心駅東口地域が有力)に「新・さいたま市役所」を建設することが決まった。