観光地と行政

政治に影響される観光と一つの開発モデル〜

宇都宮大学国際学部国際社会学科3年

佐々木 哲夫

 

序 何故インドネシアなのか?

 

 当然の疑問であろう。何故インドネシア情勢分析が「余暇」なのか。これは、私はインドネシアへ毎年春休みに訪問し、そうした旅行・滞在が一種の余暇だからである。では「余暇」に関連したインドネシアについては、何を分析したらよいだろうか。わたしは「政治・行政」と判断した。結局は、インドネシアへの旅行も現地の治安維持が(何とか)行われているからこそ渡航できるのであり、治安が悪化した場合、私の判断による前に、外務省の海外危険情報により、法的拘束力はないものの、不急の渡航の延期を勧告する「海外旅行延期勧告」(危険度2)などが発令される。ちなみに現在の首都・ジャカルタは危険度1の「注意喚起」(渡航・滞在に特別な注意を必要とする)が発令中である。

 こうした治安は、今までのインドネシア情勢を見る限り、その時々の政治に因るところが大きい。つまりは、インドネシアの情勢分析(特に政治を中心に)が、私個人にとっての「余暇」に必要なのである。

 

 

一 インドネシアの主な概要

 

概況

 

1. 面積  約192.3万平方キロ(日本の約5倍)

2. 人口  約2億400万人

3. 首都  ジャカルタ

4. 言語  インドネシア語が公用語。その他に各地の民族語としてスンダ語、ジャワ語、バリ語、ブタウィ語等がある。

5. 宗教  イスラム教87.1%、キリスト教8.8%、ヒンズー教2.0%、その他に仏教、アニミズム等がある。世界最大のイスラム人口を抱えるが、イスラム教は国教ではない。

6. 独立  1945年8月17日、オランダより独立

7. 国是  建国五原則(パンチャシラ

     (A)全知全能の神への信仰

     (B)公正にして善良な人道主義

     (C)インドネシアの統一

     (D)代表者間の協議による全会一致の叡智によって指導される民主主義

     (E)全インドネシア国民に対する社会主義

 

 パンチャシラを考えると、特に(C)はすなわち「多様性の中の統一」という、多民族国家インドネシアらしいメッセージである。(D)はスカルノによって提唱されたように、指導制民主主義とは特殊な民主主義である。(E)における社会主義についてであるが、インドネシアは1965年の9.30事件(共産党とそれに関係する国軍将校によるクーデター未遂事件。これをきっかけにスカルノは失脚し、スハルトが台頭し始める。裏で中国政府が糸を引いていたとの説もあり、以来地域最大の華人社会を抱えているにもかかわらず、中国語の出版や放送などを禁じていた。現在は中国語解禁となっている)以来共産主義を厳しく弾圧しており、これは公平な開発と発展という意を含有している。

 

政治制度

 

1. 政治体制

共和制。国家元首は大統領。1945年の建国以来現在までの56年間で歴代大統領は、初代スカルノ(Soekarno、1945-68、但し1967-68はスハルトが大統領代行)、第二代スハルト(Soeharto、1968-98)、第三代ハビビ(Habibie、1998-99)、第四代アブドゥルラフマン・ワヒド(Abdurrahman Wahid、1999-現在)の4人のみ。

2. 議会  

(イ)国民協議会(MPR、Majelis Permusyawaratan Rakyat)

 国権の最高機関。憲法制定・改定、正副大統領の選出、「国策大綱」の策定など。大統領弾劾も可能。従来は5年に1度の開催だったが、1998年のハビビ政権による憲法改正により、毎年開催となった。

 議員定数は700名(従来は1,000名)。内訳は500名が国会議員と兼任、残り200名の内、135人は地方代表議員(27州×5名)、各種団体代表が65名となっている。ちなみにアブドゥルラフマン・ワヒド(厳密には「ワヒド」とは彼の父親の名前であるため、以下、愛称の「グス・ドゥル(Gus Dur、ドゥル若君)」を用いる)大統領は各種団体代表(ナフダトゥール・ウラマ(以下、NU)代表)である。任期は5年。

(ロ)国会(DPR、Dewan Perwakilan Rakyat)

 法律案の審議・承認など。一院制で定員は500名。内462名が総選挙(各州毎の比例代表制選出)による。残り38名は大統領による国軍任命議員(軍人は選挙権及び被選挙権を有せず。その代わりに大統領任命による議席を確保し、一定の発言力を保つ。次回総選挙では国軍枠は廃止予定)。任期は5年。99年6月7日実施の総選挙結果は以下の通り(次回総選挙への参加条件となる10議席以上獲得した政党のみ)。

 

DPR各政党議席数(出典;外務省ホームページ)

政 党 名

得票率

議席数

党 首 名

闘争民主党

33.74%

153

メガワティ・スカルノプトリ

ゴルカル党

22.44%

120

アクバル・タンジュン

開発統一党

10.71%

58

ハムザ・ハズ

民族覚醒党

12.61%

51

マトゥリ・アブドゥル

国民信託党

7.12%

34

アミン・ライス

月星党

1.94%

13

ユスリル・イザ・マヘンドラ

各党首の経歴

メガワティ・スカルノプトリ=現副大統領。スカルノ・初代大統領長女。

アクバル・タンジュン=現DPR議長。官房長官を歴任。

ハムザ・ハズ=前国民福祉・貧困緩和担当調整大臣。

マトゥリ・アブドゥル=現MPR副議長。

アミン・ライス=現MPR議長。ムハマディア会長、ガジャマダ大教授を歴任。

ユスリル・イザ・マヘンドラ=現法務大臣。インドネシア大学法学部教授を歴任。

 

3. 大統領

(イ)国家元首、行政府の長(首相職はない)。内閣は大統領の補佐機関で、国務大臣は大統領が任命。(1945年制定、インドネシア共和国憲法第17条)

(ロ)国軍最高司令官。(同第10条)

(ハ)「国策大綱」に沿った国政運営を行い、MPRに対し責任を負う。

(ニ)DPRは大統領を罷免できず、大統領は国会を解散できない

(ホ)大統領が任期内に物故、停職またはその職務を遂行できない場合は、任期終了まで副大統領がこれに代わる。(同第8条)

(ヘ)任期は5年。(同第7条)

 

 今現在、インドネシア政局で大きな焦点になっているのが、(ニ)と(ホ)である。(ニ)については、グス・ドゥルが「国会を解散する」という趣旨の発言をし、弾劾ができないDPRに対し、強気な方針を貫いていることである。これは明らか問題発言である。また、5月にDPRはMPRに対し、大統領弾劾に向けた特別総会開催を要求した。ゆえに、その後の政局については幾つかのシナリオが想定される。

 

【シナリオT】大統領弾劾

5月30日のDPRまでに大統領が警告書に対する釈明を行わない、またはDPRが承認しない場合は、DPRはMPRに大統領弾劾のための特別会を求めることとなる。それを受けてのMPRで、弾劾がもし決定された場合、メガワティ副大統領が憲法に沿って大統領へ昇格する。今のところこの可能性が最も高いと言われている。

しかし問題が無いわけではない。東ジャワを拠点とするNUやグス・ドゥル大統領の支持者が、弾劾に反対する不穏な動きを見せていることである。また、国際的にも政治手腕が未知数の「メガワティ大統領」となると、更なる政治混乱が引き起こされる恐れもあり、予断を許さない状況が続くこととなる。

 

【シナリオU】大統領が強権発動

 大統領陣営が現在模索している動きとしては、DPRがMPRに弾劾を求める決議を行った後、大統領がMPRの特別会開催を阻止するため、非常事態宣言の大統領令を発令し、国会の解散、または凍結を行うことである。インドネシア憲法第12条によるものである。先日、大統領報道官が明言した。更には、DPR総選挙の繰上げ実施をも視野に入れているといわれている。これに関連し、スシロ・バンバン・ユドヨノ政治・社会・治安担当調整相ら主要7閣僚は危機打開策を大統領に提示しているが、大統領側はこれを不服としている。ただ、国軍は5月19日に現役・退役双方の最高幹部らと協議した結果、国軍の総意として非常事態宣言には賛成しかねることで一致した。大統領自身は、「二十六日午前零時までに(大統領弾劾を狙う)特別国民協議会の開催断念の兆しが見られない場合、国家非常事態宣言を発令し、繰り上げ総選挙を行う」(2001年5月26日 じゃかるた新聞)と述べているが、5月28日現在、非常事態宣言は発令されておらず、この発言も野党へのけん制発言と見られる。

 

【シナリオV】大統領弾劾をMPRが拒否

 今回の政局混乱、当初はブルネイ・ゲート事件などの一時的な混乱に見えたが、その後の大統領発言などが火に油を注ぐ形となり、現在では大統領の政治手法・統治能力自体への疑念・不信となっている。それ故、副大統領への大統領権限委譲などでは収まりそうもない。グス・ドゥル大統領自身も、副大統領への権限委譲は昨年、約束しておきながら反古にした経緯もあり、今回も「政策決定権と人事権だけは譲れない」と強気の姿勢を崩していない。しかし、政策決定権や人事権が今のままでは、いくら副大統領に他の業務を委譲したところで、副大統領は大統領の手足となるばかりである。メガワティ副大統領も、自分は大統領選とは別個の副大統領選で選出されたので、大統領の部下になる必要はない、と権限委譲を拒否しており、先行き不透明な情勢である。

 

 

二 インドネシア政局混乱が日本人の余暇に直接与えた主な影響

 

【邦人約340人が足止め インドネシア・バリ島】

「インドネシア大統領選で敗北した闘争民主党メガワティ党首の支持者らによる混乱が起きた観光地バリ島で21日夜、日本航空便の欠航や、空港への道が閉鎖された影響で、観光客ら日本人約340人がバリ島から出られなくなり、約140人が空港で一夜を明かした。

日本航空の現地事務所によると、デンパサール発ジャカルタ経由成田行きのJAL726便が欠航。乗客約230人全員が足止めされたほか、関西空港発デンパサール経由ジャカルタ行きJAL713便に搭乗予定の乗客のうち約100人が空港にたどり着けなかったという。

現地は22日に入って平静を取り戻しており、日本航空は振り替え輸送などをしているが、正午現在で依然約200人が残っている。全員がバリ島を出るのは24日ごろになる見通しという。

東ティモール避難民支援のための自衛隊機派遣に向けた政府調査団16人も空港で足止めされたが、22日朝、ジャカルタに向かった」(共同通信ニュース速報 1999年10月22日)

1999年10月22日、日本人観光客がバリ島・ングラ・ライ国際空港に足止めとなった。これは同日の大統領選で敗北したメガワティ・闘争民主党党首の支持派がバリ島各地で暴動を起こしたため、空港が一時閉鎖となってしまった。普段、あまり地勢に明るくない旅行者は、インドネシアとバリ島とを別個にして考えており、今までは両者を隔てる「カーテン」が存在していた。しかしこの日、突然カーテンが引き上げられてしまった格好である。

 

 

三 バリ島各地の特色

 

インドネシア政府は1960年代、それまでも宗主国のオランダによる観光開発は行われていたが、外貨獲得などを目的としてバリにおいて観光開発を始めた。

 

ヌサ・ドゥア

オランダ統治下の1920年代に観光地化が始まる。1940年代から1950年代にかけては、戦争や政治混乱などにより、観光地化は一時停止されたものの、1960年代に復活する。1980年代中頃、インドネシア政府がリードしてヌサ・ドゥアビーチを開発。コンセプトは「東洋一のリゾート」。この地区は従業員やタクシー運転手などの観光産業関係者以外の現地人を割れ門(ゲート)から先への立ち入りを禁止し、旅行者とバリの生活を完全に分離する。これにより、インドネシアの生活臭がまったくといっていいほど漂わない、完全なリゾートとなる。団体旅行などのマスツーリストを対象。後述するクタ・レギャンほどの喧騒はなく、高級リゾートが集まる地帯であるゆえ、落ち着いた雰囲気となっている。海岸においても、波は穏やかなのでマリンスポーツや遊泳に適しており、朝夕の干潮時は遠浅なので、普段見られない生物(ヒトデなど)も見られる。各ホテルの中庭にはプールがあり、海岸線に隣接しているため、プライベートビーチがある。ホテルに雇われた警備員も巡回しており、安全は守られているように思われる。

しかし、プライベートビーチとは言うものの、特にヌサ・ドゥア地区ではあるものの割れ門の外にある「ブノア地区」では、海岸伝いに外部からの侵入も可能で、実際、私が宿泊中も、近くの子供たちや若者が海岸で遊んでおり、私を含めた宿泊客と話をしている現状がある。警備員も巡回が1人とあって、常に監視できるわけでもなく、一つ間違えば観光客が事件に巻き込まれる恐れもある。

 

クタ・レギャン

 静かな漁村に、サーフィンの波を求めにオーストラリアなどの若者が集まり始めたのがクタの始まり。その後、ヒッピーなどもこの地を目指し始め、いよいよ若者観光の一大スポットとなった。バリ州政府も外資の投資を積極的に認め、今ではハンバーガーチェーンのマクドナルドやコンビニエンスストアのサークルKなどがある。その他にも、若者向けのみやげ物店やファッションショップ、レストラン、バーなどが林立し、年中観光客でいっぱいである。

しかし問題点がないわけではない。急激な観光開発による環境破壊。例えば各ホテルから溝に流される汚水や、ビーチに散乱するゴミ。その他にも、スリや引ったくりの報告も、在デンパサール日本領事館に寄せられている。夜のビーチでは暗闇に紛れた強盗事件が発生し、治安悪化が問題となっている。路上では、特に日本人を対象に「タイマ、タイマ」や、「キノコ」、「オンナ」などと声をかけられることも少なくない。裏返せば、それだけ大麻(マリファナ)やマジックマッシュルームなどの麻薬、買春の需要があるわけで、早急な改善が求められる。一応インドネシアの法律では、麻薬の使用及び所持は重罪で、最高で死刑となる。また、こうした路上売りが警察と結託して、麻薬などを購入したら即逮捕、ということもある。ちょっとした気の緩みで逮捕、ということにもなりかねない。

 

ウブド

 クタ等の南部リゾートエリアの発展とそれに伴う観光公害を反面教師とし、村人たちが自主的・計画的に観光地化していった。大型ホテルやショッピングセンターの建設を拒絶し、村人が自営で観光案内所を作った。今では「芸能・芸術の中心地」となった。このウブドは、狭義で「ウブド村」をさすが、通常は周辺のプリアタン村、プンゴセカン村、チャンプアン村、サヤン村、クデワタン村などを含めた地区の総称として用いる。朝はウブド中心にあるパサール(pasar、市場)に周辺の村から人々が買い出しに来て、早朝から生活臭が充満する喧騒に包まれる。夜は毎日、各村の集会場などで芸能が催される。

上記の地区とは違い、村人たち自身で観光地を「営んでいる」ため、みすみす観光客を逃したりするようなことはせず、故に被害報告も入ってこない。クタなどでは大勢いる路上売りも、ここでは全く姿を見かけない。

 

 

四 ウブドに見る観光地化

 

ここの観光開発のやり方は、見事と言うしかないだろう。村の雰囲気を大切にしながらも、観光客を迎える気構えや準備もしっかりしている。早朝は、周辺の村人たちが乗合バスなどでパサールへと買い出しにくる。それが終わると、パサールは一気に観光地のパサールとなる。絵画を並べるギャラリーや、Tシャツをずらりと並べる店など、各店舗とも特徴ある営業である。クタなどのように半ば強引な客引きも見られず、雰囲気としては「来る者は拒まず、去る者は追わず」の精神のようだ。よく言えば商売っ気がない、強引さがない、悪く言えばやる気がない、といったところである。

夜は夜で、毎晩のように各村の集会場などでケチャやレゴンダンスなどの芸能が催されているのだが、レゴンで使用する楽器の音色も街の空気と同化し、やかましくは感じさせない。むしろ、聞き入りたいくらいである。その芸能も午後8時半前後にはほぼ終了する。クタ等の南部リゾートエリアであれば、午後8時半では夕食をやっと終え、むしろこれから、というところではあるが、ウブドは違う。午後9時を過ぎると村は静寂に包まれる。ウブドのレストランやカフェのほとんどは午後10時から午後11時にはほとんどが閉店。後は虫や川のせせらぎの音のみである。

ここには政府でも外国企業でもない、住民自身が運営している観光案内所がある。周辺の主な芸能公演スケジュールなどはほとんどがここで手に入れることができる。会話でも英語が使え、非常に丁寧に案内する。

 

参考ホームページ

外務省ホームページ http://www.mofa.go.jp/

加納啓良研究室ホームページ http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~hkano/

じゃかるた新聞  http://www.jakartashimbun.com/

インドネシア文化宮 http://www.harapan.co.jp/Indonesia/GBI/GBI_index.htm

インドネシア共和国憲法 http://travel.nifty.com/fworld/indonesia/const/

バリにおける観光表象の変遷 http://www.tr.rikkyo.ac.jp/~inagaki/Bali.pdf