Kumamotos 余暇政策論レポート「コラボレ―ションの変遷」k990121  熊本真一

 

1 テーマとしての「コラボレーション」

 コラボレーションという言葉を近年よく見たり聞いたりした。それは最初、音楽、ファッションといった若者の、そしてごく狭いカテゴリの中にあったが、今現在では、企業と企業の、もしくは多企業間に渡る一大プロジェクトとなるまでに至った。そもそも、「コラボレーション」という言葉本来の意味は「協力、共同、合作」などという意味のようだ。私自身の見解では、「お互いに手を組み、共同して、何か新たなものを創造する試み」という風に定義しているが、このような試みが生まれ、そして拡大してきた「コラボレーション風潮」ともいえる動きを見て、人と人、そして企業と企業の「繋がること」もまた、コラボレーションの重要な側面として現れてきた。本文においては、「試み」を通して「繋がる」ことがもたらすものについて、過去、現在のコラボレーションの変遷をたどり、考察したい。

2 コラボレーションの変遷

(1)   コラボレーションの始まり

 コラボレーションの始まり、それは音楽、ファッション業界から始まった。その主導者たちは、購買層とさほど年齢の変わらない、いわゆる「若手」のクリエイター達である。若者文化の象徴ともいえる音楽とファッションというカテゴリの中で生まれたコラボレーション作品によって音楽業界では「フィーチャリング」、ファッション業界では「Wネーム」という言葉が市民権を得た。この二つのキーワードにそってまずは考えたい。

 「フィーチャリング」は、あるアーティストがあるアーティストを迎え入れ、合作、共演する場合、その名義の中において頻繁に使われる単語として一般化している。例えば、○○という者が☆☆という者を迎え入れ、共演する場合、「○○フィーチャリング☆☆」となる。これはいわゆる客演扱いとなるわけだが、あくまでも共演としての形にこだわるときには、連名、もしくはまったくの別名義で作品を発表することになる。フィーチャリング名義の作品は、やがてヒットチャートを賑わし、現在まで至ることになるが、音楽業界においてフィーチャリングという言葉が頻繁に出てくるようになったのはほんの数年前のことである。確かに、共演という意味では「デュエット」という古典的手法が日本の音楽界には存在していた。しかし、コラボレーションとデュエットでは多少意味が異なる。おそらくだが、デュエットにおいてのそれは、仕掛け人はアーティスト本人ではなく、会社側であって、その意思を反映させた形の作品をリリースするのみであった。しかし、コラボレイト作品のリリースにあたっては、アーティスト本人の意思が強く反映されたものになる。会社主導からアーティスト主導へと移行しただけではなく、コラボレーションとしての体裁を保つためには大きく二つの要件が絡んでいると思われる。それは、@アーティスト自身が作詞作曲することの増加、A会社側の柔軟な体制、の二つが挙げられる。楽曲提供者が自分自身、またはコラボレイトする相手であることでより結びつきが強化されると同時に、デュエットにおいて存在していたであろう楽曲提供者といういわば第三者を排除することによってリリースの手順が簡略化されることになる。そして会社側が柔軟な体制を整えることで異なる事務所、レコード会社に所属するアーティスト達が比較的自由にコラボレイトできる環境も調った。「柔軟な体制」というのは、外からのアーティストを迎え入れる、もしくは自社のアーティストを送り出すということに対しての抵抗感を会社自らなくすよう働きかけることである。こうしたうえで音楽業界のコラボレーションは見事に定着した。

 「Wネーム」というのはいわゆる連名のことである。それは、アーティストのそれと同じように、二つのブランドが協力して製作するわけであるが、それは現在多岐に渡り、服のみならず、靴、カバン、アクセサリーのような服以外のものなどでも、Wネームの製品が作られている。次にコラボレーションの具体的な方法についてだが、最初は共同デザインが主だった。中にはただブランドロゴを羅列しただけの単純なものもあったが、その多くは双方のデザイナーが趣向をこらした力の入ったものであった。Wネーム製品は売れた。その多くが売り切れ、または入手困難なものとなり、値段が高騰するプレミア化現象も起こった。(値段が高騰するというのは正規販売店ではなく、専門のバイヤーなどに買い取られた少数の中のさらに少数の商品である。直接消費者に渡るのではなくバイヤーへと流れ、高騰した値段の商品が消費者へと渡る状況はあまり良いものではないが、それが一般的となっているのも事実である。その現象はネームバリューのある単一ブランドにも言える事であるし、やっていることは古着屋と同じなので取り締まりようがない。利潤は得られるわけだから取り締まる必要もないし、値段が上がればそのブランドの価値も上がるのだ。)そうしてWネームの商品が一般的になるにしたがい、その方法論も変化した。デザイン志向のブランドと素材志向のブランドがコラボレイトするとき、デザインと素材をお互いが請け負う。そうすれば、デザイン、素材両方とも上質な商品が出来上がる。この方法論は大変歓迎され、既存のWネーム商品からさらに深く繋がったものであるといえる。すべて協力して一つの物を作る方法から、分担し、担当以外の部分は相手に任せるという方法への移行は繋がりが希薄になったのではなく、むしろお互いが信頼できるからこそなせる技なのだ。それはWネーム商品の製作が刺激となり、お互いの向上が見込めるということ、Wネーム商品が売れることを製作側が確信していたからに他ならない。

 また、音楽とファッション、二つの業界にまたがるものも登場した。アーティストデザインの服の製作や、アーティストグッズの製作をブランドが手がけることなどがその例として挙げられるが、これは、いわゆる「業界人」の繋がりがあってこそだろう。

ここで考えたのは、コラボレーションの始まりが「文化的」であったことである。音楽業界、ファッション業界、または双方に渡るものであったとしても、それは同じ文化的な場を共有していたからである。その中に存在しているからこそ出来た「繋がり」のなかで生まれたのがコラボレーションであり、その結果として商品は売れ、コラボレイト商品は一般性を獲得したのではないか。もちろん、「お互いの購買層獲得」というのは経営を担う側の大人の前提としてあったのだろうが、その起源はやはり「文化的繋がり」ではないだろうか。確かに、お互いの才能、または感性を信じた上でのコラボレイトが利益を生むとわかった時点で、文化的繋がりのみのコラボレーションではなくなったともいえるが、純粋な心意気が先行していたため、経済的な側面が前面に出ることはなかったのだろう。

(2)   二つの異業種統合ブランドにおけるコラボレーション

 コラボレーション風潮の速度は意外に早く、時期的には音楽業界、ファッション業界のコラボレーションが成功を収めつつある中、風潮自体の動きは変化していた。表と裏の逆転と言うこともできるだろう。すなわち、文化的側面と経済的側面の逆転現象が起こったのである。大企業同士による二つの異業種合同プロジェクト、「Will」、「マツダトリビュート・リンク」をここでは例にとり、大企業による繋がりが生み出したコラボレーションについて考察したい。

 「Will」は「アサヒビール(ビール)」、「花王(生活用品)」、「近畿日本ツーリスト(旅行)」、「トヨタ自動車(車)」、「松下電器産業(電化製品)」が共同で立ち上げたプロジェクトであり、各々の会社からWill名義の商品を販売している。参加企業は各業界でも有名どころばかりで、このプロジェクトが立ち上げられたとき、私は大変華やかな印象を持った。

 「マツダトリビュート・リンク」は「マツダ(車)」を中心としたプロジェクトである。他の参加企業は「TKタケオキクチ(服飾)」、「ソニーミュージック(音楽)」、「映画『サトラレ』(映画)」で、映画、音楽、ファッションといったスタイリッシュな印象がこのプロジェクトからは感じられた。

 私は当初、この二つのプロジェクトの比較、検討をする際に、プロジェクトの違いにのみ目を向けていた。それは商品であったり、プロジェクトの期間であったり、イメージであったりしたわけだが、俯瞰的に違いを把握したところで、結局そこにコラボレイトすること、繋がることの意義はあまり見出せなかった。ただ、経済的側面の色彩が濃くなったということははっきり言える。「お互いの購買層獲得」という目標のもと、購買層へのインパクトとブランドイメージを大量の消費者に示唆することが大企業同士統合されたブランドになら出来るからだ。ある意味、巨大な「イメージ戦略」と捕らえることも可能だろう。しかし、言い換えれば、この繋がりにはイメージ戦略しか見出せなかった。それはなぜか。それを知るためには、視点を変える必要がある。視点をプロジェクトの中に落とし込むことで、その位置から周囲を見渡し、そこから繋がりについて考えたい。その場所は、商品としては唯一の共通項である「車」に定めたい。

 トヨタ自動車は、Willプロジェクトにおいてコンセプトカー「WillVi」を発売した。この車は、商品の金額、知名度ともにこのプロジェクトの花形とも言える存在である。「Vi」の斬新なデザイン(カボチャの馬車をモチーフにしたらしい)はトヨタヴィッツ(丸みを帯びたデザインの大ヒット車。)の兄弟車とは思えない。個性的な外観と、乗用車を造ってきたトヨタの技術を備えたこの車は、個性を重視する若者、特に女性の人気を得た。街でも意外にこの車を見かけるが、乗っている人もやはり女性が多い。その女性人気が狙いどおりだったのか、不本意だったのかはわからないが、次なるWill車第二弾、「Vs」では、女性的な丸さは少なく、どちらかといえば男性的な外観であり、ステーションワゴンに近い大きさからも、ターゲットは男性が中心なのだろう。車自身についてはそのようなものだ。問題は、この位置から見たプロジェクトの全体像である。

 しかし、この車と他の「Will」プロジェクト商品との関連性はないに等しい。他の全ての商品についても同様であろう。すなわち全体像として、このプロジェクトにおいて全ての商品は「Will」という名の同一平面上にあるものの、それらを繋ぐ線は存在しないという状態が見てとれる。同じブランドというより、同じ店の同じショーケースの中に違うブランドの商品が並んでいるような感じだ。となると、繋がることの意義が問われる。「Will」という巨大な名前を利用するだけのために大企業が手を組んだのであれば、「夢の競演」は「烏合の衆」であり、私のこのプロジェクトへの評価も大変低いものとならざるをえない。結果として、これは本当の意味でのコラボレーションではないのではないかと思う。

 マツダが発売したコンセプトカー「マツダトリビュート」は二十代後半から三十代前半の、主に男性をターゲットとした車である。外観は男性的でスポーティに仕上げてあり、購買層にとっては魅力的な車ではあると思う。

 この車を中心としてみたこのプロジェクトの全体像は、明らかにWillプロジェクトのそれとは違うものであった。言わずもがな、このプロジェクトはマツダが中心となって立ち上げたものである。であるからして、必然的に円の中心にマツダが在るのであり、同じところにこの車も在るのであろう。基本的にこの車が中心なのだから、マツダトリビュートのCFにはソニーミュージックのアーティストの楽曲が使われ、登場する人たちはTKタケオキクチの服を着ていた。そして「サトラレ」の映像も挿入されるという徹底された協力が他の企業からなされた。これはマツダトリビュートのCFだったのであるが、とりビュート・リンクのCFのようなものだった。これをただの集まりと評価するわけにはいかないだろう。コラボレイトする相手が複数に渡る場合、中心となるモノの存在は必要なのかもしれない。その存在によって有機的な関係を保つことが出来るのではないかとも思う。しかしながら、その効果はと問われれば、簡単に回答は出来ないだろう。要はその経済的メリットである。少なくとも、ソニーミュージックにおいてはその効果は期待できそうだ。いわゆる「タイアップ」という代物なのだが、CF、または映画の主題歌などに自社のアーティストが起用されることによって売上の向上が期待できるだろう。しかし映画「サトラレ」についてはどうか。CFへの映像の挿入のみで集客率の増加は見込めるのだろうか。そして最も重要なのは立ち上げ元であるマツダである。新車であるマツダトリビュートの発表と同時にこのプロジェクトを立ち上げたのだが、CF上の演出、映画への登場などによってどれだけの売上への効果が見込めるのだろうか。疑問に思えてくる。繋がりは良くとも、その完全な相乗効果が見込めない限り、その繋がりの価値は余り良いものとは言えないと思う。それが企業の繋がりの上で最もシビアな点であり、本音を言わせれば最重要案件なのではないか。そうした考えの上、このプロジェクトもまた、コラボレーションとしては意味をなさないと思う。

 前者では繋がりの欠落、後者では経済的保証がないということを理由にコラボレーションの範囲外という結論に至った。大企業の繋がりが生み出したコラボレーションとして始めたが、結果は双方とも完全な形でのコラボレーションとはいえなかったのだ。これは、コラボレーションの風潮の進化ではなく、あくまでも変化であったのだろう。しかし、これら二つのプロジェクトを見据えた上で、コラボレーションという行為において、文化的、経済的バランスと各々の繋がりのバランスが大変重要であることがわかった。加えて、音楽、ファッション業界におけるコラボレーションの成功は、文化的動機に経済的保証が加わったこと、若者文化という同一カテゴリの繋がりの中に存在していたことに起因するということをあらためて確認させられた。

3 コラボレーションのこれからの可能性

 コラボレーションの過去、そして現在の状況を考察したが、これからのコラボレーションはどういった変遷をたどるのか。確かに、期間は長いが一過性のムーブメントとして終わることもありうるだろう。しかし、何かを作るうえで、コラボレイトすることのメリットは、「文化的、経済的バランス」、「各々の繋がりのバランス」という二大条件を克服するに値する価値があると思う。「品質の向上」、「購買層の拡大」は、企業単体としては難しい場合もあるだろう。そのために他の企業とコラボレイトすることは、有効かつ確実な手段になりうるのではないか。

 ここに一つ例を挙げてみよう。商品は「介護設備付きバリアフリー住宅」である。これは、建築会社「A」と介護設備の会社「B」のコラボレーションによって生まれた。すべての建築はA、すべての介護設備はBが請け負うが、家の設計、また、設備の配置などについては両者が十分話し合ったうえで売り出す。条件が揃うことで品質の向上は保証されている。また、消費者のニーズに沿ったものであるから、現在、そして将来を見据えた上で消費者に提案することで結果はついてこないだろうか。確かにこうは簡単にいかないかもしれない。しかし、成功する可能性だって大いにありうるのだ。

では、そのために必要なものはなにか。それは個々の努力ではないだろうか。コラボレーションは楽をするために生まれたわけではない。各々の特性、可能性を持ち寄ったうえで、さらなる次元へと昇華させうるだけのものを個々が持たなければならない。それがなくしてはコラボレーションをする意義が問われることにもなるだろう。

新たな可能性とは新たな繋がりであり、新たな試みである。コラボレーションには一過性のムーブメントで終わらせるにはもったいないほどの可能性があると私は確信している。

 

<参照サイト>

http://www.willshop.com/

「Will」のオンラインショップ。商品量の多さには正直驚かされた。

http://www6.plala.or.jp/private-hp/samuraidamasii/

「侍魂」このレポートを書く上ではまったく役に立つことはなかったが、サイトの中の一つのテキスト「信念」には大変共感させられた。「若者」の方には是非読んでもらいたい。