iwasam010704 余暇政策論レポート 「21世紀型ディスコ・ユニオン」 

k990508 岩佐 真樹

 

0.はじめに

 

 「それでも地球は廻っている」と言ったのはかのガリレオ=ガリレイだが、現在世界中で絶えず廻り続けているのはミラーボールであろう。いきなり突拍子もない話で恐縮だが、これはつまり現在世界規模で未曾有のダンスブームが起きているということを意味する。『完全自殺マニュアル』の著作で知られる鶴見済(つるみ・わたる)氏によると、80年代末にまずヨーロッパで火がついたこの人類史上最大規模のダンスブームは、アメリカ、オーストラリア、カナダなどの先進諸国のみならずインド、イスラエル、南アフリカにまで及んでいると言う(出版社メディアワークスHP内、『AltCulture Japan』[URL]http://www.mediaworks.co.jp/alt/000/altculture.htmlより)。今もなお地球上で伝染し続けるこの熱は、日本も例に漏れない。総数のダンス人口が一体いか程のものであるかはわからないが、兎に角測り知れない人数が夜な夜なミラーボールの下で踊り続けているのだ。

 もちろん「ミラーボール」というのはあくまで比喩に過ぎない。が、ディスコやクラブなどの常設のダンスホールから、「レイヴ」と呼ばれる野外の空き地で行われる万単位の人々の集まる(ダンス)パーティ、果てはライヴハウスやロックフェスティヴァルに至るまで、もはや音楽にとってダンスは切っても切り離せない関係になってしまった。そして同時にこの「踊る」という行為は社会に大きな変化をもたらし、さらなる転換を迫っている。本論は、「余暇政策」の観点から、「音楽にあわせて踊る」ことと政治・経済・日常生活を含めた「社会」との関わりについて読み解くことが目的である。

 

(付記)

 「ダンスと余暇政策に何の関係があるのか?」との疑問に対しては、例えば夏休みの盆踊りを思い出して頂きたい。町内会や里帰り先での夏祭りに盆踊り、これはまさに夏の風物詩であり日本における代表的な夏休みのレジャーのひとつだ。また「踊る」という行為が古来より政治と深い関わりを持っているのは、「政」とかいて「まつりごと」と読ませることに明らかである。

 

 

1.「レイヴ」とは何か

 

 世界規模で未曾有のダンスブームが起きていると言われたところで、もちろん彼等が皆盆踊りを踊っているわけはないので、クラブに通う人々が依然としてマイノリティな日本では想像がつきにくいかもしれない。しかし欧米の先進諸国では、週末でなくともクラブやディスコに行って踊ったり、お喋りをしたり、お酒を飲んだりしてひとときを過ごすのが既に日常化している。世界を揺るがし続けているこのブームの震源地では、もはや「踊る」ことは生活の一部となっているようだ。

 では、それはどのようにして始まり、今に至るのか? この疑問を解く重要なキーワードが、「レイヴ」である。

 

 "rave"という単語のもともとの意味は、「うわごとをいう/わめく/夢中になって喋る/(風、海などが)荒れ狂う」と辞書(『エポック和英・英和辞典』)には書いてある。88年にイギリスで起きたアシッド・ハウスの野外イベントのムーヴメント以降、それは辞書ふうに書くと「野外(もしくはそれに近い場所)で集団で踊る行為」を指して使われるようになった。いわゆるイベント/パーティーのいち形態としてのレイヴを定義するならば、「数百人から数万人が野外の空き地や古い倉庫などに集まって、大音響で流れるテクノ、トランス、ゴア・トランス、ジャングル、ドラムンベース、ハッピー・ハードコア、ガバなどのダンス・ミュージック(広い意味でのテクノ)や、チル・アウトのアンビエント・ミュージックにあわせて一晩中踊ること」となるだろう。

 「ダンス・ミュージックにあわせて一晩中踊る」のは、クラブやディスコで行われるパーティーと同じなのだが、この両者の違いは決して室内か野外かという単純な話ではない。1週間なり1カ月のスケジュールがあって、決まった曜日や週末に好きなパーティーに出かけるのがクラブならば、レイヴは基本的にはどれもが、ある時、ある場所で1回限りに「起きる」不定期で単発のパーティーだ。DJやオーガナイザーはその1回のパーティーに全力を注ぎ込む。そこでできた「場」はパーティーが終われば消え去ってしまうような性格を持っている。

 自分が好きな曜日に顔を出せばなじみの知り合いに会えるような場所としてクラブはある。いわば現代の社交場的な性格も持ち合わせていると言えるだろう。レイヴの「場」はそうした一定の場所ではなく、たえず生成と移動を繰り返す場としてある。そこではフライヤー(ビラ)や口コミに代表されるネットワーク的なつながりや、音楽のジャンルやシーンごとの、あるいはサウンドシステムごとの、もっと大きな枠組みではレイヴァーであるということによる、一定の場所を持たない層が形勢される。国によってはそれが、社会に対する共意識のようなものさえをも作りだしている。

(参考・引用:出版社メディアワークスHP内、『AltCulture Japan』[URL]http://www.mediaworks.co.jp/alt/000/altculture.html/『オルタナティヴ・ヴァリューってなに?――を知るためのカルチャー&キーワード・データベース "CAVE" 』[URL]http://www.hotwired.co.jp/cave/。要約の文責は筆者。以下、特に記載のない限り同様)

 

 それぞれの土地に密着していたはずの共同体意識、コミュニティの構成員が拠り所とするアイデンティティ(その典型が言わずと知れたナショナリズムである)は、レイヴによってその呪縛から解き放たれつつあると言っていい。土地と人との、社会と人との関係性の変化だ。そしてレイヴはまた、ダンスによって別の関係性にも変化をもたらした。

 

 人間は、呼吸や歩行をするように、踊る生きものだ。4万年もある人類の歴史を見ても、どんな地域を見ても、エスキモーもインディアンも、盛んかそうでないかの違いはあれ、誰もが踊っている。そうして気持ちよさを味わい、生を豊かにしてきた。しかし最近になって、踊らない人種が登場した。「現代人」だ。踊りを見るのはいいが、現代人は踊る人を舞台の上にあげ、あとの全員はそれをじっと“観賞”するという位置関係を少しずつ固定化させていった。その結果ダンスは奇形化し、バレエを例に取ると、爪先で立ったり足を高く上げたりといった普通の人にはできないアクロバティックな動きを競いだし、より不自然な曲芸を目指して辛い訓練をするようになる。見る側も、それを“採点”したり、コマゴマとした基準や規則を体系化したりと、同じく奇形化していく。ダンスは視線を前提にした「見る」か「見せる」ものになり、もっとも重要な踊る快感が忘れ去られた。こうして「普通の人は踊らない」という現状に至ったのだ。

 そこにこのダンスブームが来た。しかも、そのダンスがこうした奇形ダンスからもっともかけ離れた、それはそれでとんでもなく極端なものだったのだ。そもそもこのダンスに名前がなく、踊りに関する決まりも一切ない。ただ飛び跳ねている人の横で、別の人が体をユラユラ横に揺すっていたりする。また、ここまで「見せる」という要素が欠落したダンスも珍しい。服装も飾りよりは動きやすさや、素材の吸湿性といった機能面に目が移りがちになる。野外のパーティーともなると山道を登ったりテントで寝るなど野外生活を送ることになり、防寒性なども含め服の機能はより重要となる。さらにすぐに汚れたり濡れたりするので、高価な服などはあまりそぐわなくなってくる。イギリスでは踊りに来る若者の間で「ドレス・ダウン!」が合い言葉になったそうだ。

 つまりこれは、踊る快感以外は何も目指さないという究極のダンスだ。レイヴ会場でいちばん人が集まるのはDJブースとスピーカーの前であって、お立ち台ではない。レイヴでは誰もが勝手に踊っているのであって、レイヴのダンスは見せるものでも、見て恰好いいものでもない。レイヴのダンスは、「見る−見られる(見せる)」という関係の中で成立するものではなくなったのだ。

 

 「見る−見られる」という関係性は従来のコンサートやライヴに顕著だ。聴衆はアーティストをまるで神であるかのように崇め、ステージ上の彼を、或いはそこから降りたときでさえその一挙手一投足を見逃さないようにと目を向ける。オーディエンスは普通の人であることに徹し、パフォーマーは「見られる」ことを前提にした上でそれを引き受け背負い、しばしばそれに酔いしれ、やがて疲弊してゆく。

 これはまるで政治家と市民の関係のようだ。市民は政治の舞台を自分とはかけ離れたものとしてみなし、無関心を装う。政治家はそれをいいことに自らを特権化し、挙げ句の果てに欲にうずもれてゆく。選挙期間中の街頭演説を思い出してもらえればよい。あそこの何処に、果たして「市民が主役」という感覚があろうか!

 レイヴは、オーディエンスに主体性を取り戻させることに成功した。しかし集団(社会)からの独立を声高に叫ぶわけでも、他人との違いを殊更に強調するわけでもない。取りあえず「自分は自分である」ということを意識させてくれるだけだ。このことはレイヴが特定の思想・主張に基づいたムーヴメントではないにも関わらず、様々な団体の活動を内包していることと無関係ではない。

 例えばレイヴカルチャーは環境問題と結び付けられることが多い。或いはゲイやレズビアンの人権保護団体など、マイノリティーの活動とも繋がる。単に「人が集まる」だけの行為が、結果として「世界にはこのような人間/思想も存在するのであって、ちゃんとそれを認めてくれ」という主張になってしまう現象。主張から集まった集団ではなく、個人個人が集まったら同じ考えを持っていたので主張の場としてレイヴが選ばれたのだろう。これは非常に興味深い特徴だ。

 

 

2.イギリス:クリミナル・ジャスティス・アクト

 

 レイヴの特徴として、またドラッグの使用という側面がある。そのため当局からは危険因子とみなされることが多く、レイヴ発祥の地であるイギリスでは、レイヴそのものを取り締まるための法律が存在する。通称「レイヴ禁止法」と呼ばれるこのクリミナル・ジャスティス・アクト  Criminal Justice Act  (以下、CJA)は、国家が娯楽を法的に規制するという点で現代の禁酒法といっていいだろう。

 

 CJAは1994年に成立した171節から成る法律で、問題は第5章である。レイヴァー(Ravers:レイヴに集まる人たち)、トラヴェラー(Traverars:定住せず旅して回る人たちを指す。レイヴァーとトラヴェラーは往々にして被ることが多い)、デモ(特に環境保護活動家たち)、スクワット(Squat:建物の不法占拠)の四つを規制するもので、レイヴについては「11人以上」の集団が「野外でレペティティブ・ビーツ(repetitive beats:ビートの繰り返す音楽)という性格を持つ音楽」を聴いていて「警官がそれを危険だと判断した場合に」取り締まることができる。判断の裁量は現場の警察官にまかされていて、黙秘権は認められていない。

 法律ができてからイギリスでは警察に許可を得たパーティーとそうではないパーティーの区別ができあがった。許可というのは具体的には地元の警察に警備名目でお金を払うことで、大きなフェスティバルでは日本円で千万円単位のお金が請求されることもあり、大きなレイヴにはスポンサーがつくのが当たり前になってもいる。

 それでもイギリスには無数のレイヴ集団やニュー・エイジ・トラベラーのグループがあって、パーティーは盛んに行われている。レイヴやスクワットに関する議論は、社会のルール(法律)がどこで機能し、どこで突破され得るのかという話でもある。オーガナイザーと警察の意思疎通が良好ならば、警察はパーティーを見に来ても帰っていく。ただ、警察はそれを好きな時にどうにでもできる権利を持っていて、場合によってはサウンドシステムが没収されたりもする。

(上記の追加として、参考:『道路を取り返せ 〜アンチ・クルマ・カルチャーの創造〜 V』内、『キーワード』[URL]http://homepage1.nifty.com/2543/dtk/keywords.html

 

 あくまでドラッグはレイヴの一側面にしか過ぎず、それだけで社会を脅かす程の脅威になるとは考えにくい。また先にも述べた通り特定の思想・主張を伴うわけではなく、レイヴに集まる人々の大半はただダンスを楽しむだけである。しかしその様なレイヴを取り締まるこの法からは、同時にあのパンクですらBBCで放送禁止になるくらいで法律的に規制されなかったことを考えると、レイヴという現象の内包する力の凄まじさがうかがえる。60年代末期から70年代初頭にかけてのフラワームーヴメントのように声高に「ラヴ&ピース」と叫ぶわけでもなく、ましてや「女王陛下万歳、オレに未来はねぇぜ」とか「オレは無政府主義者でアンチ・キリストだ」なんて言うわけでもない。権力構造にとって最も恐れるべき存在は「得体の知れない連中=理解しがたい連中」なのではなかろうか。学生運動に加担していた若者たちは、政府にとってある意味「わかりやすい連中」だったのだろう。 

 

 

3.ドイツ:ラヴパレード

 

 こうしたイギリスといちばん対照的なのが今のドイツだ。ドイツという国は、音楽の分脈の中で語られるときには、特にそれがダンス・ミュージックの中であれば必ずと言っていい程「あのテクノの祭典ラヴパレードで有名な」という冠言葉がつく。この国は「テクノ・ネイション」と形容されることがあることからもわかる通り、非常にテクノやダンスミュージックが生活に密着した地域だ。

 私がかつて訪れたことのある、ドイツ北部にあるビーレフェルト市のベーテル Bielefelt / Bethel という街は、その地域全体がてんかん患者のための医療機関として機能していることで有名だ。そこではディスコがハンディキャップの方々と一般市民との重要な交流の場として捉えられていた。ドイツ滞在の際にお世話になったホストファミリーの話によれば、「車椅子の人がふつうにいるディスコは恐らくかなり珍しい」そうだ。またかなり眉唾物の話になるが、作家であり世界各地のパーティーを渡り歩いてきた経験のある清野 栄一(せいの・えいいち)氏によれば、なんとドイツにはテクノをかける教会まであると言う。

 そんなドイツを象徴するのは、やはりなんといってもラヴパレード  Love Parade  だろう。これは大抵の場合7月の第2土曜日にベルリンで行われ、6月17日通りと呼ばれるストリートを映画『ベルリン・天使の詩』で有名になった天使の塔=ジーゲスゾイレに向かって、何台もの大規模なサウンドシステムを積み込んだワゴンの周りを練り歩きながら踊り倒すというパレードである。86年にドクター・モテなる人物が「テクノのさらなる解放を」と提唱し、わずか150人程のパーティーから始まったこのイベントは、今や100万人もの参加者(97年開催時、主催者発表)を集める巨大なパレードになった。ラヴパレード目当てにドイツを訪れる外国人観光客も多く、ベルリン市当局の積極的なバックアップのもとで重要な娯楽産業として扱われている。まさに国民的行事だ。(参考:雑誌『BUZZ』99年9月号)

 しかし前述の清野氏はこのパレードについてこう記している。

 

 電信柱には人が登れないように警察によってたっぷりとグリースが塗られ、パレードの終点は警察がつくった巨大な檻だった。そこに囲い込まれた群衆の近くに、ショットガンを持った警察が笑いながら立っている。これはこれで、イギリスとは逆方向の、エンクロージャーという管理の仕方ではある。ある新聞はパレードを「10億マルクのテクノ産業のターゲットにされる若者たち」「ビジネスとしての効果的な集団行動の手本」と評した。ラヴ・パレードに来るレイヴァーは、もはや今のベルリンの多数派なのだ。

(出版社メディアワークスHP内、『AltCulture Japan』[URL]http://www.mediaworks.co.jp/alt/000/altculture.htmlより)

 

 

4.おわりに

 

 「踊る」という行為が強要するさらなる変化の先にある社会。共同体意識の根底にあった「土地の呪縛」から放たれたアイデンティティ、アメリカのように社会との対極に存在するのではない「個人」という自由、主張することが自己目的化しない主張、音楽を楽しむことが共同体に貢献し循環する経済構造。そこは、昼もミラーボールが輝く21世紀型のディスコ・ユニオンかも知れない。

 ダンスは社会を、世界を、生活を、そしてあなた自身を変える。もし今それを実感できないとしても、間違いなく近いうちにあなたは知るだろう。しかし未だそれを詭弁だと言い張るのならば私はこう応えるだろう、ガリレオが道化のように繰り返した様に。そう、それでもミラーボールは廻っているのだ。そこで音楽が鳴り続けている限りは。