卒業論文「雲仙普賢岳噴火に見る被災地復興の現状」

国際社会学科 松下容子

 

雲仙普賢岳の噴火から丸10年。

まずは当時の模様から今の状況を被災者側から見ることによって、

今本当に何が求められており、何を教訓にしなければならないのかを見てみようと思う。

 

雲仙普賢岳の噴火活動は1990年11月17日に始まり、1996年6月3日に終息を

迎えたということになっている。ここでは、その丸5年間を

1.1990年(降灰初期)

2.1991年〜1993年(降灰全盛期)

3.1994年〜1996年(降灰終息期)

という風に区切って考察していきたいと思う。

 

1.1990年

この年の11月17日、午前7時過ぎ、雲仙普賢岳は突然噴火活動を始めた。

当初、山から煙が上がるのを見て山火事、または普賢神社が燃えていると思った人が殆どだったという。

そのくらい市民には普賢岳が噴火するということは考えられなかったことだといえる。

しかし

九州大学島原自信火山観測所や雲仙岳測候所において噴火はある程度予測していたらしい。

→「雲仙火山は約200年の沈黙を保ってきたが、最近になって噴火活動に繋がるとも考えられる観測データが得られ・・・」

              (「熊本日日新聞」199年11月17日朝刊より抜粋)

1990年7月20日、島原市に設置された地震計で今までとまったく違った波形が記録されていた。

もしかして火山性微動かも・・・→7月4日にもでていた

雲仙岳測候所でも7月4日、雲仙岳の矢岳において火山性微動が観測されている

→11月17日まで断続的に発生し、その発生源は雲仙岳山頂付近と推定された

雲仙岳測候所は7月25日、「雲仙岳の地震活動について(一)」を発表している

「昨日19時過ぎから地震が多発し、25日3時までに約376回観測しました。(中略)

火山活動との関連は今のところ明らかではありませんが、今後の推移に注意して下さい。」            

 (平成2年(1990年)7月25日発表 雲仙岳測候所)

関係自治体にも伝達されたはずだが、緊急を要することもないということで市民には知らされなかった

 

火山性微動はその後も振幅、継続時間の増幅を重ね、

1990年11月初旬、九大観測所が「雲仙は噴火の恐れがある」と報告をするに至った

その後、国立大学火山観測機関の主要メンバーで雲仙岳の集中観測をやる話が持ち上がり

1990年11月14日に島原地震観測所は公表に踏み切った

また、雲仙測候所も福岡管区気象台や測候所、九州大学を中心とする全国国立大学火山観測機関の取り組みなどを具体的に

「雲仙岳の状況についてのお知らせ(17)」で発表している

「雲仙岳では11月に入り、5日から6日にかけて90回の地震(いずれも無感)を観測しました。(中略)

11月から来年2月にかけて九州大学を中心に全国国立大学火山観測機関が合同して、火山性微動の正確な発生位置を把握するため、

高密度観測を行う予定です。現在の雲仙岳の活動状況は、今後も注意深く監視を続けていく必要があります。」

                     (平成2年(1990年)11月14日発表 雲仙岳測候所)

この3日後、雲仙普賢岳の噴火は始まった。

 

 

1990年、私は小学校5年生だった。

私はいつ、誰から噴火が始まったことを聞いたのか覚えていない。

それはその後の出来事にどう対処していくか子供ながらに必死で、誰がどういう風に普賢岳が噴火したということを伝えたかということは、

たいして重要なことではなかったのだ。そのくらい普賢岳の噴火というのは突然であり、突然私たちの生活を大きく変えたのだ。

しかしもしその年の7月に「普賢岳が近々噴火する」と宣言されていたら、噴火という事実は徐々に私たちの生活に侵食してきたのだろうか。

それは私はノーであると思う。警告をされても例え準備をしていたとしても、災害というのは突然やってくるものだというのはその後の生活で思い知らされている。災害など事前に行政がそれなりの状況を把握できていたことを市民に伝達しなかったことが後に明るみに出ると、それをただ批判することがあるが、それは間違っていると思う。行政はその後、何ができるのか、何をしたかと言うことが問われるべきであると思うのだ。処理のスピードや的確さは事前の情報収集や様々な機関とのネットワークに比例するだろう。行政がどんな立ち回りを見せたかで、事前に言う言わないなどの問題は一掃してしまえるのではないだろうか。

災害は突然だ。予測してても突然にやってくる。だからこそ市民に安全な暮らしを提供する行政はその後に備え準備をしていなくてはならない。

噴火か終息から5年が経ち、事前に噴火するということを知らせてくれればよかったのにという声を、私は聞いたことがない。

だとすれば、それはその後の行政の動きが市民に好意的に受け入れられているからだろうか。

それともその後の処理の仕方に言うことがありすぎて、そこまで言うに及ばないのだろうか。

それは今後の考察によって明らかにしていこうと思っている。

 

                     参考文献

                「杉本伸一著 『そのとき何が 雲仙普賢岳噴火 住民の証言と記録』(2001年6月3日発行)」