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津島萌「余暇におけるテレビ鑑賞が我々に与える影響」

 

 

1.余暇=テレビ鑑賞

 

 このテーマを選んだ理由は、映像と音声が同時に視聴者に伝わるために新聞や雑誌よりも瞬間的な記憶が残りやすく、また、録画もできるという便利さゆえに余暇のほとんどの時間をテレビに費やしている人は多いのではないだろうか、という疑問が沸いたと共に、瞬時に多くの情報を手に入れられるがために、私たちの思考が固定化されてしまっているのではないか、という危機感を覚えたからである。そこで、私自身、テレビが無い生活など考えられないというほどのテレビ好きであるため、余暇時のテレビ鑑賞が我々にどのような影響を与えるのか調査したいと考えた。一人で家にいる時や、家族と過ごす時間、友人と集まって談笑している途中で間が持たなくなった時などにテレビをつけ、様々な番組を鑑賞することは暇つぶしにもなるし、新たな話のタネにもなる。我々の生活とテレビは依存し合って共存していると言っても過言ではない。近年、テレビが生活基盤の“常識”として捉えられ、ほとんどの家庭に必ずあるモノとして溶け込んでいる中で、そのテレビの存在が、多感な時期を生きた我々の幼少期にどのような影響を与えたのかについて、持論を展開していきたい。

 

 

2.私たちの世代における「余暇」の定義

 

 今回、このレポートを作成するにあたって紙を媒体としたアンケートを行った。アンケート内容として@あなたにとっての余暇とはどのようなものか、A幼少期(小学校6年生まで)に鑑賞したテレビ番組の中で印象に残っている映像はあるか、もしある場合は、それはどのような映像か、Bあなたは余暇にテレビを見る習慣があるか、また、見るとしたらどのような番組を鑑賞し、どのくらいの時間を費やしているか、の三つの質問を挙げた。アンケートは2012628日木曜日に無記名で記入・回収し、対象は国立宇都宮大学に在籍する学生(学部学科問わず)に無差別に実施したものであり、以下は、アンケートを回収できた43人からの返答内容に基づいたものである。

 

 アンケートの設問@への回答の中で最も多く見受けられたのは、“余暇=心身を休めることのできる時間または何かを見つけたり聞いたりできる時間である”という類のものであった。余暇とは何かに追われることなく自由に過ごせる自分の時間であり、大学からの課題が控えている時は気持ちがソワソワするため余暇と言うことはできない、という意見もあった。アンケート設問@の回答をまとめると、アンケートに回答してくれたほとんどの学生の中で、余暇とは“時間に制限されることや、やらなければないことが無い一方で、自分のやりたいことをやれる時間のことである”と定義づけられているという結果が見えた。余暇とは休むための時間であり、その時間には日常生活とは切り離せない“心からのリラックス”の意を込めていると考えられる。

 

次に、アンケートの設問Aについては、“生命の生と死”が絡んでいる回答が全体の約8割を占めた。動物の弱肉強食の世界の映像や、アメリカで発生した9.11(同時多発テロ)の映像、ゾンビ(ここでは幽霊も含む)等の死者が引き起こす恐怖体験から作られた映像など、生命の終焉に関連する映像が幼少期の記憶に残りやすいという結果が見られた。残りの2割は、教育テレビや海外のコメディードラマ、他には少しマニアックな映像で、昆虫や爬虫類の生体に関する映像等が挙げられた。私も人間やその他動物の生と死は衝撃的で、動物世界の食物連鎖を、テレビを通じて目にした時は言葉を失った記憶がある。それほど“生きること”と“死ぬこと”は人間の思考に大きな変化をもたらすものであるため、私たちは幼少期に“生命の生と死”をテレビで流れる映像を通して自然に学んだのかもしれない。

 

 最後のBあなたは余暇にテレビを見る習慣があるか、また、見るとしたらどのくらいの時間をテレビ鑑賞に費やしているか、という質問には0分〜30分が1人、30分〜2時間以内が24人、2時間〜4時間が16人、4時間以上が2人であった。今日の学生の余暇の過ごし方としては、友達と遊びに出かけたり、眠ったり、音楽を聴くなどといったテレビ以外のことに回答が集中していた。余暇のほとんどをテレビ鑑賞に費やす私とは対照的に、多くの人はテレビ鑑賞を4時間以内におさめ、その他のプライベートに費やしていることがわかった。余暇の過ごし方は人それぞれで、簡単にまとめることはできない。他人の余暇に干渉することはできるだけ避け、誰もが皆より満足した休息を取れる余暇を実現させなければならないと感じた。

 

 私の余暇の定義は回答の集計結果と同様に「好きなことに時間を割ける時間」であり、未だに衝撃に残っている映像は医療現場の手術中の映像である。この場面も人の生死の境目を扱っていたため、私の記憶に残った映像も“動物(人間)の命”に関連するものであると言える。最後の設問Bに関しては、私は余暇のほとんどをテレビ鑑賞に費やしている、と冒頭でも述べたため、ここでは省略する。

 

アンケートへの回答を踏まえ、ここで最も大きく取り上げたいことは“余暇時にどのような番組を鑑賞するか”という質問に対する返答についてである。アンケートへの返答で最も多かった番組のジャンルはバラエティー番組で6割、最も少なかった番組のジャンルはニュース番組で2割であった。この点は日常生活における情報源をテレビ番組に頼っている日本人が非常に多いと思い込んでいた私の考えとは正反対であり、これによって学生はニュース番組に頼らない生活を送っているのかもしれないという疑惑が浮上した。もちろんこれはアンケートに回答してくれた大学生の間だけの事実であり、全国の大学生が上記と同じ現状を送っているとは言えないが、ニュース番組を見ない同級生が、意外に身の回りに多く存在していたことに驚きを隠せなかった。

 

 

3.テレビが我々にもたらす影響

 

 私たちにとってのメディアとはテレビのことである。上記のアンケート結果からこれがすべての日本人に共通しているとは言い切れないが、多かれ少なかれ、日本人とテレビは切っても切り離せないものであると言える。私のこの考えを決定付けるものとして、吉見(2010)によると、2002年のNHK放送文化研究所による国勢比較調査では、「日本でテレビを5時間以上鑑賞している人は約23%で、アメリカやフランスの14%よりもはるかに高い[1]」という文献が挙げられる。

 

テレビが家にあることで何が起きるか。私の経験上、テレビをつけている限りはその内容に夢中になって勉強をしないため、よく母親に怒られた。この私のほろ苦い経験は他の児童にも共通して当てはまるものなのだろうか。これを検証するべく、まず始めに、児童がテレビを見る時間帯を年齢・学年別に比較する。

 

依田(1964『テレビの児童に及ぼす影響』第3章子どものテレビ視聴の実態より)の児童の視聴量に関する文献からは、小学生が幼児より視聴量が多いという結果が見受けられたが、全体的に見ると小学校35年生ぐらいの児童がテレビを最も多く視聴するようであることが読み取ることができた。また、女子児童よりも男子児童のほうが年齢に関係なくテレビの視聴量が多いということが共通している点も読み取ることができる。児童は性別・年齢・階層を問わず、日曜日は平日より視聴量が多く、これは児童の余暇時間が日曜日に多いことから考えられる[2]。この点から、私同様にテレビに夢中になっている児童は少なくは無いと言うことができた。

 

では、休日にテレビの視聴量が増えることによって何が起こるのだろうか。それは、テレビ番組の裏側に潜む“命”を軽んじて扱う番組プログラムを児童が視聴してしまう可能性が大きくなってしまう、というものである。“命”を軽んじて扱う番組プログラムとは、例えば、奥様方に大人気の昼間に放送されるサスペンスドラマや、児童に大人気の、子供が探偵になって難事件を解決していくといったテレビ番組のことである。これらの番組の中では、必ずと言っていいほどほとんどの回で“殺人事件”が扱われている。これらのテレビ番組の内容は児童に悪影響を与えないのだろうか。これについて述べていきたい。

 

1997年神戸市児童連続殺人事件・2000年の1家殺傷事件などの少年犯罪には、その加害者がホラー番組や残虐な映像を日常的に見ていたことが殺人事件の起因の一つであると、多くの報道機関が放送していたことは記憶に新しい。新たな少年犯罪が発生する度にこの二つの少年犯罪が例として挙げられ、この事件をもとにコメンテーターが新たな少年犯罪を解説する場面を今までに何度も目にした。この事実や、これ以上安易な考えからの殺人を予防するためとの理由から、“人間が死んでいる状態”や、“殺される瞬間”の映像を簡単にテレビ番組で放映することは望ましくないと考える。映像によるマインドコントロールは児童に限られたことではなく、私たちのような大学生でも簡単に引っかかってしまう危険なものである。我々はこのことを常に念頭に置き、人間としてあるべき姿とは何かを考えていかなければならない。

 

 

4.消えゆく放送倫理〜日本社会への提言〜

 

 日本のテレビ番組を鑑賞していて常々感じることは、多くの番組が暴力で溢れているということだ。もちろん全ての番組ではないが、身体的な暴力から言葉の暴力までの全ての“暴力”が番組内に収められているバラエティー番組は少なくない。芸人たちはそれらの暴力へのリアクションをいかに上手く行うか、ということに縛られて必死になり、それは視聴者にも痛いくらいに伝わるほど、彼らにとっての“やらなければならないこと”であり、それが“仕事”である。様々な形で振り掛かる“暴力”への対処方法でそこから先の仕事の量が決まっていっている気がしてならない。その様子を見てそれが笑いに繋がってしまう日本社会もおかしい気がする。日本の本来の“笑い”は「落語」や「うた(俳句)」であった。これが時代の流れと共に、今日の“笑い”へと変容していったのである。

 

テレビ番組は私たちに瞬時に多くの情報を与えてくれる反面、本来であれば知る必要の無い情報まで教えてくれる機械である。我々は一つの情報に左右されない強い精神力を身に着けるとともに、人間としてやってはいけないことは何であるのか、をよく考えながら生活していく必要がある。暴力に溢れる今日のテレビ業界を変えられるのは、視聴者の私たちであるのだから。

 



[1]『大衆文化とメディア』p166 吉見俊也・土屋礼子 2010831日 ミネルヴァ書店

[2]『テレビの児童に及ぼす影響』依田新・著 1964530日発行 東京大学出版会