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中村祐司「ロンドン五輪のガバナンス」
1.五輪開催をめぐる波及・周縁課題
目前(執筆時点の2012年7月8日)に迫ったロンドン五輪[1]をめぐり、日本でもとくにメダル獲得が有望な選手やチームに対する期待や調整ぶりを取材・紹介した新聞記事が目立つ。五輪施設の紹介やロンドン市民の反応や街の盛り上がりの様子を取り上げた記事も多い。このように本番での競技パフォーマンスに焦点を当てた正統的な主流報道の一方で、競技パフォーマンス以外での貢献活動といった、いわば報道や人々の関心の傍流に位置する波及課題もある。巨大スポーツイベントの開催に必然的に伴う交通問題、参加の平等、若者の五輪意識、ドーピングやテロに対する対策、ロンドン五輪開催の決定的要因となった国際啓発プログラムなどがそれである。
狭義のロンドン五輪報道が選手の競技パフォーマンスに焦点を当てるのに対して、広義の五輪報道は、五輪開催に伴う様々な波及・周縁課題に目を向ける。本レポートでは後者の視点に立って、いくつかの課題を抽出し、各々の内容を整理・把握した上で若干の考察を加えることとする。
2.交通問題は克服できるのか
ロンドン市中心部と五輪公園を7分でつなく高速鉄道の新設、有料貸し自転車8.300台(2012年3月8日以降)、五輪期間中の市内バス200台増量(計7,700台)、在宅勤務の奨励、ひいてはラッシュ回避のためのパブ立ち寄りの勧めなどといった対策が挙げられるものの、五輪関係者専用路(48km)の設置などもあり、期間中は「交通マヒ必至の情勢」にある[2]。
車両の小ささ、混雑の常態化、設備の老朽化、信号機故障といった深刻な課題を抱える地下鉄をめぐり、ロンドン交通局(TFL)は増発や路線拡張なども含めて約8,060億円の改善費を投じた。期間中、市中心部の複数の駅では乗車まで30分以上要すると予測されている[3]。
3.スポーツをめぐる参加の平等とは
ロンドン大会ではボクシングの女子が採用され、26競技すべてが男女を対象とすることになった。前回北京大会ではサウジアラビア、ブルネイ、カタールが女子選手を派遣しなかったが、今回はサウジから馬術競技(個人障害飛越)の派遣が有力で、ブルネイ、カタールも女性の参加を容認する方向にある[4]。なお、サウジでは女子の学校体育教育が禁じられているという[5]。
人種・民族、身体能力や障害、性別、性的指向にとらわれない参加を目指す「多様性(ダイバーシティ=Diversity)」がロンドン五輪のキーワードとなっている。市民からは黒人・少数民族(BME)のスポーツ参加が少ないという指摘もある。相対的に心臓病・糖尿病、肥満などが少数民族には多いとの報告もある。BMEのスポーツ支援団体「スポーティング・イコールズ(SE)」では、情報不足、経済的不遇、言語の違いといった障壁を克服する取り組み(スポーツ体験やそれぞれの民族・言語向けの情報発信)を行っている。
1986年設立のロンドン・タイガース(会員3,000人)のスタッフが話す言語は20以上あり、幅広い民族の若者受け入れに加えて、無職の若者への就職支援や市民スポーツ教室の開催などの社会貢献活動も進めている[6]。また、性的指向をめぐり、英国内務省は2011年に「スポーツチャーター」を発表し、この中でスポーツにおける同性愛者・両性愛者・性同一性障害者(総称してLGBT)への差別をなくす宣言を行った[7]。
パラリンピック発祥国の英国でさえも、「障害に合った運動ができる場の少なさ、用具や専用車いすなど経費の負担などが障壁」であり、障害者のスポーツ参加は十分とはいえないものの、開催が決まった2005年以降、パラリンピック代表候補選手への競技活動費支援が充実し、障害者スポーツの拠点として世界的に知られるストーク・マンデビル・スタジアムの改修も進んだ[8]。
ロンドン五輪組織委員会(LOCOG)の職員や、約7万人の大会ボランティアは、いずれも過半数が女性である。また、五輪公園の建設工事など大会の準備事業に従事する雇用者の約2割が近隣住民であり、その中には少数民族の人も多い[9]。
4.ロンドンの若者は五輪をどう迎えるのか
約1,600人の若者が逮捕された2011年8月のロンドン市内における暴動の背景には失業率の高さや、経済格差の拡大などからくる若者らの閉塞感があると指摘されている。さらに「スポーツを取り巻く環境の変化」を挙げる声もある。1979年から1997年までのサッチャー・メージャー保守党政権時代に運動場を持つ公園(PF=Playing Field)が財政赤字解消のために売却され、18年間で約1万カ所が住宅地に変わったという調査報告もある。
また、学校教育でもスポーツの勝敗を重視し、競技色を強め、勝者優遇の風潮が強まり、さらに教師の部活動指導の手当の廃止などもあり、生徒のスポーツ離れが進んだ。この点はやや改善が見られるものの、現キャメロン保守党政権による厳しい緊縮財政も追い打ちをかけている[10]。
5.待ったなしのドーピング対策やテロ対策
英キングスカレッジ薬物検査センターは製薬会社グラクソ・スミスクライン社と提携し、最新の質量分析機などを用いて、「史上最高の検査スピードと感度を実現」したドーピング対策を確立したという。科学者約150人が1日最大400件の検査を24時間体制で実施する。検査の「工業化」(同時に100以上の化合物を調査)や「新データ捕獲法」(未知の薬物も捕捉し、再調査で検出が可能となり、採取した検体も8年間保存)も新たに導入される[11]。
サイバー攻撃も含むテロ対策について、ロンドンでは2005年7月に乗客56人が犠牲となった地下鉄・バスの同時爆破テロがあり、「テロの脅威から五輪を守ることが重大使命」となっている。大会期間中、英軍は兵力1万3,500人を投入し、五輪スタジアム周辺には2種類の地対空ミサイルを配備し、ロンドン近郊は最新鋭戦闘機やヘリコプター揚陸艦を待機させ、「即応態勢」を取る。
国家保安部も全職員3,800人を総動員するほか、警察も最大1万2,500人を市内に配置する[12]。市内6カ所に地対空ミサイルを設置する方針だが、その中には高層集合住宅の屋上も含まれているという。また、各国選手や家族、大会関係者、ボランティア、記者など五輪会場の許可を持つ最大50万人の前科などを調査しているという[13]。
6.国際啓発プログラムと「遺産」の構築
ロンドン五輪組織委員会では国際啓発プログラムと称して、主として発展途上国を対象に学校体育指導や安全な運動施設整備、女子参加促進に取り組んできた(20カ国を対象に計1,200万人以上の参加)。水泳を教えるバングラデシュでは、洪水のため、「毎年約1万8,000人の17歳以下の子供たちが水難事故で死亡し、子供の死因の第1位になっている」という背景がある。また女子の受講者が水泳の先生となることで「イスラム社会で女性が社会進出する好機」を作ったといわれている[14]。
7.ロンドン五輪をめぐるガバナンスの視点
以上のようにロンドン五輪報道をめぐる波及・周縁課題として、交通問題、参加の平等、若者の受け止め方、ドーピング対策・テロ対策、国際啓発プログラムを取り上げてきた。果たして各々の課題は克服され得るのであろうか。
交通を利用する人々は警戒の対象となり、参加の平等は若者の意識を変えるかもしれない。ドーピング対策やテロ対策は五輪そのものの本質的価値を維持するために不可欠な安全装置であり、とくに後者は選手・役員・関係者のみならず、英国外からの大量の観戦・観光客の訪問と競技場やイベント会場への集積を考えれば、国家のメンツや国際関係の維持だけでなく、世界から集まってくる人々の生命を守るという意味で、まさに英国政府そして協力国政府の「重大使命」である。
そう考えると、取り上げた課題項目は、いずれも単独ではなく相互に連鎖しているのである。関心・興味のあるスポーツ競技種目の映像配信の内容や勝敗に一喜一憂し、勝利の感動や負けた悔しさを、他者と共有することがスポーツ楽しむ主流であるとすれば、ここで取り上げた課題は、スポーツを純粋に楽しむことを遮るかのような性質を有している。しかし、こうした傍流の周縁課題の克服がなければ、「見るスポーツ」を享受できないこともまた事実であろう。
しかし、五輪が市場、経済、政治、技術といった側面で、これだけ肥大化し、ヒト・モノ・カネがロンドンを拠点に世界中に集約・点在するようになった時代だからこそ、すべての「見るスポーツ」の関係者には、ここで取り上げた課題を横串に把握した上で、五輪成功のガバナンスを考察する自覚を持つことが必要ではないだろうか。
本レポートでは、当初よりも大幅に膨れあがった五輪総予算(2005年時の4倍近い約1兆1,300億円[15])や経済波及効果など財源や市場経済をめぐる課題、ネット中継などスポーツメディアの変容(=「デジタル・オリンピック」)、さらにはグローバルな国籍移動などについては触れなかった。今後の研究課題としておきたい。
[1]
ロンドン五輪は2012年7月27日に開幕し8月12日まで(26競技302種目)。パラリンピックは8月29日から9月9日まで(20競技)。出場する日本人選手は293人(男子137人、女子156人)、役員221人の計514人。ロンドンの人口は約780万人。なお、以下の註に掲載の新聞はいずれも朝刊。
[2]
「3度目の誇り London 2012 混雑対策 決めてなし」(2012年2月26日付朝日新聞)。
[3]
「交通対策は市民頼り 地下鉄代わりに『徒歩や自転車を』」(2012年6月27日付毎日新聞)。
[4]
「スポーツ時想
女性の五輪参加拡大 指導者、運営側にも必要」(2012年4月18日付下野新聞)。
[5]
「発信箱
サウジ女性と五輪」(2012年4月15日付毎日新聞)および「サウジ 女性選手初出場 ロンドン五輪に 馬術競技が有力」(2012年6月26日付毎日新聞)。
[6]
「誰にも機会を 英国スポーツの『多様性』(1)人種、民族の壁越えて」(2012年4月11日付毎日新聞)。
[7]
「誰にも機会を 英国スポーツの『多様性』(4) 性的指向 差別なくす」(2012年4月14日付毎日新聞)。
[8]
「誰にも機会を 英国スポーツの『多様性』(2) 障害者に『楽しさ』提供」(2012年4月24日付毎日新聞)。
[9]
「誰にも機会を 英国スポーツの『多様性』(5) 議論通じ『理想』模索」(2012年4月15日付毎日新聞)。
[10]
「英国市民と五輪 運動場
財政難で失われ」(2012年1月3日付毎日新聞)。
[11]
「厳戒
ドーピング包囲網」(2012年2月24日付読売新聞)。
[12]
「五輪厳戒3万人 期間中 地対空ミサイルも配備」(2012年6月27日付読売新聞)および「ロンドン五輪『テロの標的』」(2012年6月28日付産経新聞)。
[13]
「史上最大の警備作戦 テロ対策
市内にミサイル設置」(2012年6月27日付毎日新聞)。
[14]
「3度目の誇り London 2012 スポーツが人生を変える 啓発計画 世界で浸透」(2012年2月22日付朝日新聞)。
[15] 「英国市民と五輪 巨額投資 広がる懸念」(2012年1月6日付毎日新聞)。