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中村祐司「東日本大震災後の地域スポーツ組織の役割と課題」
1.大震災に直面して
プロとアマチュアを問わず、また、近隣における総合型地域スポーツクラブなど、近年、地域社会の草の根レベルにおけるスポーツ活動の浸透が顕在化してきた。
プロチームは既存ファンとの関係維持や新規ファンの獲得(市場開拓)のために、積極的に自らが拠点とするホームタウンの地域社会への浸透を目指す。これがPR活動等の基本戦略となっている。また、アマチュアのチームも当該の競技水準の高さと地元での知名度の高さとは相関関係にあり、地元の自治体、企業、ファンが提供する支援こそが良好な練習環境や試合環境につながり、そのことがチームパフォーマンスの向上に直結する。
総合型地域スポーツクラブの場合、活動メンバーは当該地域住民であり、日常のクラブ運営やイベント開催にあたっては小中学校や自治会など近隣社会の理解・協力が欠かせない。
3月11日の東日本大震災は、被災地においてこれまでに積み上げてきた多くの地域密着型スポーツクラブの活動を根こそぎ崩壊させてしまった。「負の巨大エネルギー」ともいうべきものが、クラブ活動を支えるメンバーの生活基盤、活動環境、メンバー間のつながりを断ち切ってしまったのである。そして甚大な被害に直面した後には、ライフラインの復旧が第一であり、その後は生活再建や雇用や産業の確保などの復旧・復興プロセスが主流となるので、スポーツ活動は脇に追いやられる。
確かに、メジャーなプロスポーツチームや、競技水準が高く地元で人気のあるアマチュアチーム、あるいはマイナー競技であっても日本代表選手レベルのエリートスポーツ選手が、自らの意思で物資や人的支援に奔走し今日に至っているケースは多いものの、草の根レベルの地域スポーツクラブは自らが被災クラブであり、活動の休止・停止が目立っている。この非常時に「スポーツどころではなくなった」のである。
しかし、震災前に地道な活動の継続によって近隣社会の内外に根を張りつつあったスポーツクラブだからこそ、震災時・震災後に日常のクラブ活動の枠を超えて被災者を助け、物資を運び、生活再建に奔走したクラブも存在した。非常時にこれまで培ってきたクラブ運営のノウハウが生きたのである。つまり、「スポーツが必要とされた」と見ることもできるのではないだろうか。
「スポーツが必要とされた」希少な活動事例を地域スポーツクラブ、サッカー・野球以外のどちらかといえばマイナーな競技スポーツや高校の部活動等に絞って、以下、羅列的にはなるものの事例をまとめてみた。
2.スポーツ組織による被災地支援と相互支援
宮城県の塩釜FCには震災直後全国から支援物資が届いた。輸送用に軽トラックごと置いていった人などもいた。日用品、食料品、サッカー用品など、交番の警察官や近隣町内会と協力して独居老人に届け、まさに行政の支援物資が届くまでのつなぎの役割を果たした。岩手県の大船渡三陸FCの代表は知人のトラックを借りて物資を高田市、釜石市、大槌町、山田町、宮古市といった沿岸部の被災地へリレーした[1]。栃木県の矢板中央高は、福島県第一原発事故の影響で練習場所確保に苦慮している尚志高(福島県郡山市)や宮城県仙台市の聖和学園高など東北の高校サッカー部の練習受け入れを始めた[2]。
岩手県の新日鉄釜石ラグビー部は、震災の数日後には被災者の支援へ向かい、高齢者の移動や救援物資の運搬などの力仕事を担った。4月10日は、練習グラウンドに避難所生活の小中学生らを招き、タグラグビーで交流した[3]。宮城県の日本製紙石巻工場野球部は、3月末以降、所属部署ごとに物資の運搬や社員の自宅の片付けを行った[4]。練習拠点となるヨットハーバーが壊滅的な被害を受け休部となった岩手県の宮古商高ヨット部では、震災から1カ月後に海岸でヨットの残骸を探し始めた。艇庫から約2`の海岸で修復不可能な部所有のヨットを見つけ、使えそうな部品を回収した[5]。
東北フリーブレイズ(アイスホッケー・アジアリーグに所属し、本拠地は青森県八戸市と福島県郡山市)の主将は3月26日、横浜市の新横浜スケートセンターでチャリティーサイン会や少年向けのアイスホッケー教室を行った。また、選手のうち10数人が八戸市でがれきの撤去などのボランティア活動を行った[6]。選手の大半が東京ガス社員であるバレーボールのプレミアリーグ男子のFC東京のある控え選手は、3月30日から2週間、仙台市で毎日数十軒のガス開栓作業に従事した。同総監督は被災高校生選手に向けてユニホームやジャージの古着約100着、バレーボール約200個を集め、4月7日に岩手県大船渡市に自家用車で輸送した。その後1週間にわたって車に寝泊まりしながら、がれき撤去活動などを行った[7]。
バスケットボール男子日本リーグ(JBL)のリンク栃木ブレックスに所属する福島市出身の選手は、チームスポンサーで福祉用品を制作する業者か車いすなど7台を確保し、福島県南相馬市役所に連絡して同市総合病院へ寄贈(当面の間は市内避難所で利用)した。同市訪問の際には選手間で費用を出し合って購入したチームロゴ入りバスケットボール40個、Tシャツなどを持参し、避難所生活を送る子どもたち約60人にお菓子などと一緒に手渡した。ラグビー・トップリーグの神戸製鋼は3月19日にチャリティー交流会を開き、募金を通じて防寒着を購入し被災地へ送った。また、リストバンドを1万個発売し、その収益を被災地に送ろうとしている[8]。フットサルFリーグのバルドラール浦安は、選手、スタッフら約20人を浦安市の災害ボランティアセンターに登録し、清掃を手伝った。市内の幼稚園で園児らとボールをける地域貢献活動、チャリティー講習会や義援金集めも行った[9]。
アイスホッケーの日光アイスバックスは、4月1日開幕の「東日本高校アイスホッケー大会」の中止を受けて、「東日本高校アイスホッケーの集い」を地元有志とともに選手が運営を買って出る形で開催した[10]。岩手県の大槌高校野球部のマネージャーは、体力づくりに部室に保管してあった米10`を、震災後に「避難してきた人には何も食べ物がない。このお米を使うしかないと思って」、プロパンガスを使うタイプの炊飯器で作ったおにぎりを配った[11]。宮城県の総合型地域スポーツクラブである石巻スポーツ振興サポートセンターの理事長は、避難所暮らしをしながら活動を再開した。「遊びが心を癒やす」という考えのもと、仮設住宅へ入居したら、地域対抗の運動会を開く計画を立てている[12]。
3.地域スポーツ組織は何をなすべきか
以上のような、地域を拠点とするスポーツクラブあるいはクラブの選手たちによる被災地支援の活動や、高校の部活動をめぐる相互支援の現状から何が見えてくるのであろうか。
第1に、プロやアマを問わず、大震災に直面して何とかしなければという非常時対応にあたって「スピード」「迅速さ」「俊敏さ」といったスポーツ活動が有する本来的特性が生きた形での対応状況が見られた。「理屈付けは後から出てくる」「体が先に動く」「動きなから考える」といったスポーツに携わるチームや選手特有の濁りのないストレートな反応が、実のあるかつ迅速な被災地支援に直結した。
第2に、スポーツ活動組織が有するところの、強い相互連結のネットワーク機能の発揮が挙げられる。とくに同一スポーツ競技種目に従事する者同士の間では、面識のあるなしにかかわらず、相互のコミュニケーションや意思疎通がスポーツ以外の活動領域に比べて素早く円滑になされやすい。ファンも含めてこうした連帯力を生かした支援が行われている。しかもこうした支援の輪は広がる傾向にある。
第3に、「スポーツどころではない」と見なされがちであった被災地において、スポーツや身体運動の機会提供が被災者に喜ばれ求められている。生活不活発病の予防といった面からの適度な身体活動の必要生に加えて、子どもたちが生き生きとスポーツを行っている姿は父親母親や祖父祖母にとって心の癒やしになっている。被災地においてこそスポーツの楽しさや大切さに対する認識が深まっているのかもしれない。
第4に、震災は「地域密着」とは何かについての再考を迫るものとなった。地域、とくに近隣レベルにクラブが浸透していき、地域社会になくてならないものと認知され、ある種の地域文化資源の一つに定着すれば、クラブ活動の継続や次の世代への活動の引き継ぎ、運営ノウハウの伝授などがスムーズに進むことになる。当該地域内でのスポーツ仲間内の閉鎖的なバリアもなくなってくる。要するにスポーツ活動の波及効果がスポーツ以外の人々の様々な生活局面に及ぶこととなる。しかし、それが地域内で完結し、地域外への広がりを持たない場合、今回のような大災害によって、そうしたひとまとまりの地域文化資源が根こそぎ破壊されてしまう危険が浮き彫りにされた。
第5に、そうであるからこそ、地域スポーツクラブは地域外組織との積極的なネットワークを構築していかなければならない。リーグや協会における存在価値、大会の運営や参加を通じたつながり、スポーツ以外の活動組織との外部的な連携など、地域内完結では終わらない関係性づくりが、今後は不可欠となってくるのではないだろうか。上記に紹介した事例に共通するのは、何らかの形でいずれもこうした地域外組織とのネットワークを築き上げていることである。そしてこうした内的外的に構築された地域スポーツクラブのネットワーク力こそが、被災地域における復旧・復興プロセスを先導する力を持つのではないだろうか。
[1] 「助け合う それがクラブ 物資続々 支援の拠点に」(2011年4月14日付朝日新聞)。
[2] 「グラウンド貸与 練習”アシスト”」(2011年4月13日付下野新聞)。
[3] 「今度は市民に恩返し」(2011年4月16日付毎日新聞)。
[4] 「再びの球音 信じ」(2011年4月10日付毎日新聞)。
[5] 「次代につなぐために」(2011年4月17日付毎日新聞)。
[6] 「物資を 気持ちを 被災地へ」(2011年3月27日付毎日新聞)。
[7] 「『何かしたい』思いは共通」(2011年4月27日付毎日新聞)。
[8] 「二つの故郷に『笑顔を』」(2011年5月11日付毎日新聞)。
[9] 「『浦安』の名 背負っている」(2011年5月28日付朝日新聞)。
[10] 「プロチームの役割再確認 地域のためにやれること」(2011年5月28日付下野新聞)。
[11] 「再輝へ」(2011年5月27日付朝日新聞)。
[12] 「避難先で仲間急増 深まる交流」(2011年5月24日付朝日新聞)。