030709nakamuray 「初期セミナー」における小論

 

「大学の講義・レポート作成におけるインターネット情報利用の功罪」

中村祐司(担当教員)

 

 

1.講義におけるインターネット情報の利用とホームページへの掲載

 

 1999年度の後期から、受講生が作成したレポートを電子媒体上(研究室のホームページ)に掲載することを開始し、今日に至っている。また、2000年度後期からは「講義メモ」と題して、インターネット情報を積極的に利用し始めた。当初は、タグを用いた「メモ帳」でのhtml文書作成に戸惑い、レポートの掲載作業そのものに長時間を費やしてしまうことも多く、自ら積極的にホームページ作成に取り組んだとは言い難い面があった。しかし、こうした試行錯誤を経て、その後、ワープロソフトやホームページ作成ソフト(具体的にはWord2000Front Page2000)を用いたhtml文書作成が容易になったこともあり、いわゆるWeb上に表示する形での講義スタイルといったものを定着させてきた。そして実際、研究室ホームページの作成はほとんどの場合、Word2000で行ってきた。

 

「講義メモ」において自ら作成し提示したインターネット情報には年度間での重複も多少はある。しかし、教える側として、繰り返しやマンネリはできるだけ避けたいという強い気持ちがあり、できるだけ新しく毎回のメモを作成する姿勢を維持してきた。掲載内容を見ると、インターネット上の文書をそのまま持ってきた場合も多いが、口頭での説明ではこれをあくまでも講義の素材として捉え、引用した意図や自分なりの問題意識および解釈をそのつど提示してきたつもりである。このような講義スタイルを採用し始めてから4年近くが経過しようとしており、この機会にインターネット情報を主要なツールとして利用した場合のメリット、デメリット、さらには今後のあるべき講義やレポート作成の方策のようなものを考えてみたい。 

 

 

2.インターネット情報利用におけるメリット

 

 まず、卑近な例ではあるが、パソコン画面をスクリーンに大写しできる教室の使用と相俟って、講義前にレジメを紙媒体に印刷してこれを受講生に配布するという労力が不必要となった。紙使用量の点からすれば、HP上に作成したメモを自分用に印刷してファイルに綴じていたし、受講生もこれを印刷してファイルボックスに保存するケースもあり、総体としての紙使用量に変化があったわけではない。教員としては、毎回の授業でのレジメ配布のために、それ以前に印刷室に駆け込んで受講生分の枚数を印刷し、これを抱えて行くという作業はかなり億劫に感じるところである。しかも、欠席した受講生分のレジメが余り、これが積み重なってくるとかなりの量となる。すぱっと廃棄あるいは再利用してもいいのだが、欠席した受講生が後になってレジメを求めてくることもあり、なかなかこうした踏ん切りがつかないというのが実情であろう。電子媒体上に掲載することで、こうした作業を一切省くことができたという「精神衛生」上の効果には驚くべきものがあった。

 

次に、受講生のレポート(さらには作成途中のノート)を掲載することで、受講生間でのレポートの「相互閲覧」が瞬時に可能となり、レポートの「共有」が容易になされるようになった。もちろん、紙に印刷してこれを配布するということも不可能ではない。しかし、レポート一つをとっても受講生の人数分を印刷し、さらにはこれを綴じるといった作業量はかなりのものである。根拠データがあるわけではないが、受講生が30名を超えるとこうした紙への印刷は行わなくなるのではないだろうか。各々が他者のレポートの批判的検討を通じて、従来は「1(教員)対多(受講生)」であった関係が、複数の受講生同士という「多対多」の関係に変わったのみならず、討議の時間を確保することで、意見交換を可能にし、さらにこれをうまく「さばく」役、すなわち司会者を経験する機会が与えられたのである。

 

HP上に掲載することで、レポート作成に当たってのほどよい「緊張感」を受講生に付与することができたというメリットもある。紙媒体のレポートでは、決して意図的ではないにせよ、研究室の隅にファイルで綴じられたまま再び開く可能性がほとんどないまま埃をかぶった状態となってしまう。それとは対照的に電子媒体上のレポートは、HPを立ち上げているパソコンの故障やデータ消失といった恐れを常時抱えてはいるものの、HPが存在する限り、時が経過しても「色あせる」ことがないし、受講生には過年度のレポートを参考にする貴重な機会が与えられている。それと同時に、学外も含めて既存のレポートを模倣する行為に対しても、まさにWeb上でのレポートの存在という「証拠」が残されているがゆえに、一定の歯止めがかかっているといえなくもない。レポート作成に取り組む受講生のエネルギーには温度差や濃淡があるのは止もう得ないとしても、HP掲載はレポートに「注いだ頭脳の労力への対価」としての意味合いもあるし、受講生に対し納得の気持ちを与えているようにも思われる。

 

さらにリンク機能の利便性が挙げられる。例えば、リンクを掲載すれば、当該レポートのテーマに関心をもった他者は、すぐにインターネットを通じて当該リンクへのアクセスが可能となる。「脳細胞の増殖」のごとく個々人は知識の幅を広げることができるのである。

 

 

3.インターネット情報利用におけるデメリット

 

 しかし、コインの表と裏のごとく、上記のメリットはそのままデメリットに転化する可能性も有していて、その「弊害」に直面する現実もある。

 

新機能以前のプロジェクター使用による教室の消灯に伴って受講生の居眠りを誘うといったことや、ノートへの記述をしにくくするという点については、一部点灯や諸注意の繰り返しによって克服可能である。しかし、講義メモのスクリーンへの映写は、受講生の視点をスクリーンに向けさせ、説明者には向けさせない(たとえ、スクリーンを背にしてもやはり受講生の視線は説明者の背後にある)。これは予め準備した講義の「既定路線」を逸脱することなく、そのレールに沿って講義を予定通りに進めることができるという利便性はあるものの、裏返せば、受講生の反応や表情さらにはその場の雰囲気といった微妙な教員と受講生の間に生じる「環境」に応じた講義展開を不可能なのものにしている。「講義メモ」については、板書とは違って、説明の際に突如頭に浮かんだことの書き込みができないのも痛い。要するに講義の中身を硬直的にしてしまうのである。

 

「ペーパーレス」というメリットについても同様なことがいえる。紙媒体の場合でも、ぱらぱらとめくられるだけで中身をほとんど読まれずにほっぽっておかれる懸念はある。しかし、紙の場合、11枚の重量は僅かだとはいえ、印字媒体の集合体として何らかの「重み」が身体的感触を通じて受け手に伝わってくるのに対して、電子媒体上ではこうした「体感」をもつことができない。じっくりと精読するためには、かなりの意思の強さが必要とされる。これに追い討ちをかけるかのように、ディスプレイ上のインターネット情報はこれに接する者の「忍耐」を奪い「移り気」を加速させる性質をもっているように思われる。要するにテキスト(文字や文章)よりも、写真やイラスト、レイアウト、動画などグラフィカルなものでないとすぐにそっぽを向きたくなるのである。しかもディスプレイ上の画面というのは「一ページ一画面」に限られるため、紙の新聞がもつ「一覧性」機能がほとんど発揮できない。全体把握が困難となるのである。インターネット画面では、文章の組み立て(論理性)は伝えにくく(というよりは受け手にそのような思いを放棄させやすく)、それに代わって人々の「情動」に訴えてくる側面が強いように思われる。ただし、この点は現段階でのディスプレイをめぐる技術的な要素が大きいといえるかもしれない。紙媒体の有する「重み」や手にもった際の独特な「感触」を電子媒体上で再現できれば、こうしたデメリットは解消されるかもしれない。

 

そして、たとえHP掲載がオリジナルなレポートの「証拠」だとしても、やはり「借用」さらには「盗用」の可能性は否定できない。とくに紙媒体のやり取りというある種「閉じられた空間」(例えば、教員と受講生が形成する一過性の講義とそこでのレポート課題提示とそれに対する評価など)の中でなされる可能性は否定できない。そのまま他者のレポートを「貼り付けた」場合、レポート作成に注いだ労力、さらにはそこから得られた知識や思考の糧という点では、結局は当該学生の不利益となって戻ってくるという「原理」論を強調するとしても、一定期間ないしは表面的にはそうした行為者を利する側面があることは否定できない。仮にこうした道義的に違反した行為に至らないとしても、レポート作成者がインターネット情報に向き合う際、ネットの情報をそのまま「貼り付ける」誘惑は常に存在している。さらにリンクの利便性がこうした誘惑を後押しすることになる。論理整合的な文章を作成するという行為は基本的に「白地のキャンバスに精緻な設計図」を描くような苦しい行為でもある。それがたとえ、レポートや小論であろうとも「産みの苦しみ」は文章作成経験の蓄積の相違にかかわらず必ず存在する。したがって、「貼り付け」行為をめぐる対策がインターネット情報を利用したレポート作成を考える上での最大の課題かもしれない。

 

 

3.私たちはインターネット情報にどのように向き合えばいいのか

 

 以上のようにその利用をめぐっては功罪併せ持つインターネット情報であるが、とくに大学の授業とレポート作成時における利用という側面から、私たちはこのように大量で多様かつ日々増殖する情報洪水にどのように向き合っていけばよいのか。

 

やや精神論的な心構えの範疇も含まれるものの、以下の三つを指摘したい。

 

第一に、当該インターネット画面から発せられる文字情報としての価値の有無を見分ける能力を身に付けることである。レイアウトや見栄えの良し悪しに惑わされることなく、文字の積み重ねとしてのテキストが、アクセス者の問題意識や「知的アンテナ」と照らし合わせて、それが果たしてどのような価値をもっているかを把握するところの「知的嗅覚」を養わなければならない。そのためには、逆説的な言い方となるが、インターネット情報に依存・期待しない、白紙の状態における問題関心を主軸に置かなければいけない。この基本姿勢にぶれがない限り、インターネット情報はレポートを組み立てていく上での何らかの「ヒント」なり「契機」なりを必ず与えてくれるであろう。

 

第二に、こうした問題意識に立脚して、これは大切だと直感した情報は迷わず紙媒体に印刷すべきである。先述したように、印字感覚でディスプレイ画面の文章を読み続けられないという現段階の技術的課題は近い将来に克服されるかもしれない。しかし、やはり今のところは、インターネット情報の拡大イコール紙媒体の減少として把握するのではなく、両者は良質な情報を獲得するために相補的に不可欠な関係にあると理解すべきではないか。500年以上も前にグーテンベルクによって発明された活版印刷技術が今日に至るまで通用している歴史性と、僅か30数年前に産声を上げたインターネット技術とを同じ俎上に載せ、両者を相殺させるような捉え方が適切であるとは決して思われない。

 

第三に、氾濫するインターネット情報であるがゆえにかえって質が高く、真剣に検討・考察するにふさわしい情報を見出しにくくなる傾向にあることを想起するならば、まさに情報へアクセスする者には、情報の量ではなく質を追求する基本的スタンスと同時に、ある一定時点でのインターネット世界からの思い切った「退却・撤退」を行う決断力こそが求められるであろう。その意味ではリンク機能の最大効用であるともいえる速効的な連結性にアクセス者がひたすら引き込まれるのでなく、むしろそれとの綱引きの中で臨界点に到達するやいなやこうした連結性を自ら「断ち切る」勇気をもたなければいけない。インターネット情報は観察者にとって「資料的ツール」に過ぎない。その意味で、「情報の量や速さをいたずらに追い求めるのではなく、情報を見きわめる判断力や、断片的な知識の寄せ集めから統一的な意味を見いだす洞察力を身につける」(黒崎政男「大学制度 揺さぶるネット―情報の独占・落差の終焉―」朝日新聞朝刊2001523日付)という指摘は至言であろう。

 

 

<参照サイト>

 

http://gyosei.mine.utsunomiya-u.ac.jp/

宇都宮大学国際学部行政学(中村祐司)研究室のページ。手前味噌となるものの、今回の小論では今まで「講義メモ」および「レポート授業レジメ」を作成してきた経験から日頃漠然と感じていたことを文章化した。