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朝倉傑 「映画『秒速5センチメートル』を観る行為の目的性と手段性、そして風景表象装置としての構造分析」

 

 

1.余暇政策論とは何か――前提として

 

 そもそも、余暇政策論とは一体どのようなものなのか。そう考えると、まずこの学問がそれほど一般的ではなく、それについての体系だった研究も然程なされていないということが分かる。また宇都宮大学の本講義においても、その定義は受講生によって様々である。

 

 そのような分野であるからして、やはりこのレポートにおいてはまず、余暇政策論の一応の定義づけから始めねばならない。辞書[1]を確認してみると、余暇に対しては、「余ったひまな時間、自由に使える時間」などと説明がされている。一方、「政策」に対しては、「目的を遂行するための方針、手段」などとある。すると、余暇政策論とは、この意味で言えば、「自由に使える余ったひまな時間において、如何なる目的で、如何に行動するのかについての論」であると把握できよう。

 

 しかし、実際に余暇を過ごす人間に着目したとき、そこで人間がとる行動にはどれだけの、目的と言うべきものに向かおうとする意思があるだろうか。例えば、休日にある映画を観たとする。そして、悲壮感を感じて満足したとしよう。この場合、何が目的で何が手段なのか。この行為にはどれだけの強さの「意思」があるのだろうか。

 

 筆者の仮説を言わせてもらえば、その映画を観るという行為は目的であると同時に手段である。また悲壮感を感じ満足するということは映画という過程ないし原因に対する結果である。あるいは、矛盾するようだが、それは無意識的な目的と言ってもいいかもしれない。要するに、その映画を観るという行為は、それによって到達できるであろう、その行為の外部にある何らかの目指すべきものを強く想定して実行されるものではないだろう、ということである。

 

 余暇領域の中で、実際に余暇を過ごす主体によって実行される行為においては、目的と手段は明確に分けられるものではないだろう。敢えて言うならば、そこで目的性は、行為という手段性の中に潜在的にあるのだ。いま目的、手段と言ったが、というのも、行動が主体によって、ある程度の強い「意思」を伴って行われない以上、それは目的的性質、手段的性質に留まるのである。余暇を現に過ごす主体にとっては、それらは寧ろ結果と過程ないし原因なのである。

 

 よって、本当ならば、余暇政策論は余暇領域を余暇外において扱う人々の側に即して語られるものなのかもしれない。例えば、映画は往々にして観客にとって余暇の中で観られるものだが、余暇政策論では、映画を製作する人々の方面から映画という事象を論じた方が具合いいのではないかということだ。具体的には、その場合、「どのような映画(手段)が、より大きな利益(目的)を生むのか」等の問いが立てられるだろう。

 

 しかしながら、実際に余暇を過ごす主体による行為の目的性ならびに手段性そのものが否定されるわけではない。それらは確かに明白な「意思」の介在しない結果と、過程ないし原因かも知れないが、行為が、人間により主体的に、しかも自由にすることを選択できるという時間において行われるという意味で、その行為に内在する目的性と手段性は否定できないのである。

 

 本レポートでは、実際に余暇を過ごす主体の側に接近して、考察を進めていく。よって、ここでの余暇政策論の定義は「自由に使える余ったひまな時間においての行為には、如何なる手段性、目的性があるのか、またその行為は如何になされるのか、ということについての論」である。また、その成果は余暇領域を余暇外において扱う主体の側に接近して論ずる場合の余暇政策論をも豊かにするだろう。例えば、観客に悲壮感を感じさせる映画が莫大な利益を上げているとして、その悲壮感がどこから来るのかを把握することができれば、それはどのような映画がより大きな利益を上げるのかを考えるための一つの手がかりに成り得よう。

 

 

2.映画『秒速5センチメートル』考察への導入として

 

 上記までで、何度のも例として映画を取り上げたが、本レポートの本題に据えるのもやはり映画なのである。映画は今日の余暇領域において、言うまでもなく大きな定位置を確保しているだろう。ある程度の大きさの街ならばどこにでも映画館はあるし、またレンタルショップに行けばDVDやヴィデオテープというかたちで気軽に鑑賞することができる。

 

新海誠は気鋭のアニメーション映画監督であり、『ほしのこえ』(2002)、『雲のむこう、約束の場所』(2004)、『秒速5センチメートル』(2007)という3つのアニメーション映画を公開している。『アニメーションの映画学』という書物で加藤幹郎が述べたように、新海による映画の最大の特徴は風景の表出にある。加藤によれば、その映画は、「実写映画ですら不可能であった風景の実存を可能にしている」[2]

 

新海の作品の中でも、他の2作品はSF的物語要素を備えていたのに対し、『秒速5センチメートル』は風景の表出ということにもっぱら専念した映画であり[3]、その意味で新海の代表作と言えよう。本作はアジアパシフィック映画賞にて「最優秀アニメ賞」、フューチャーフィルム映画祭にて最優秀アニメ賞に当たる「ランチア・プラチナグランプリ」を受賞している。本レポートは『秒速5センチメートル』という映画を、観客によって鑑賞されるものという側面において考察する。

 

 

4.郷愁という目的性、映画『秒速5センチメートル』という手段性――問題提起

 

 『秒速5センチメートル』がそれを観た者に与える一般的な印象はと言えば、ノスタルジックとか、抒情的とか、あふれる情感とか、切なさとか、美しさとかになるだろう[4]

 

 それらは、あらかた郷愁という言葉に収束できよう。郷愁とは感情ないし印象である。それは故郷を懐かしむ気持ち、遠い昔や過去のものなどに惹き付けられる気持ち、ひいては現実には存在しない理想郷、今ここにないものに惹かれる気持ちである。また、ノスタルジックはそもそも郷愁の訳語である。人々は美しき理想にあこがれ、今ここにはないものを想い、切なさを感じる。

 

 映画を観た後に残る印象は、映画を観るという過程ないし原因から生起する結果である。また、その結果は潜在的な目的性であり得る。よって『秒速5センチメートル』が生起させる郷愁は、目的性であり得る。この場合、その目的性は如何なる手段性によって獲得され得るのか。言い換えれば、『秒速5センチメートル』は如何に、郷愁を観客に与える手段性として機能しているのだろうか。

 

 

5.風景とは何か

 

 郷愁を生起する手段性としての『秒速5センチメートル』を考察するに当たって、やはり『秒速5センチメートル』の最大の特徴である、風景の表出に着目しなければならない。しかし、そもそも風景とは何なのか。ここでは、それについての考察をいちいち書き連ねる余裕はないため、テーゼ風に風景を言い表してみよう。

 

・風景とは、ただただ見られるものである。風景はそれを見る主体に対しての客体であり、「被視性」ないし「客体性」をもつ。そこには「視線」がある。

 

・風景は「分離性」という性質を持つ。人間と実際的、連続的地平で繋がった空間が「視線」によって切り取られ、風景となる。

 

・風景は「虚構性」を持つ。風景は人間ありきの、人間によりつくられるものである。よって、しばしば主体の情が反映される。

 

 

6.風景と郷愁との関係性

 

 ここまで風景の性質をみてきて、それが郷愁と密接な関係性を持ち、それらは非常に相性がいいものであるということは必然的に推測される。風景は、人間という主体にたいしての客体であり(「被視性」、「客体性」)、実際的空間(現実)から切り離されたものであり(「分離性」)、主体によってつくられるある種の虚構である(「虚構性」)。それらの性質は、郷愁という感情・印象の対象、もしくは要因となるもの、つまり過去とか、遠い昔とか、故郷とか、理想郷などの持つ性質でもあるのだ。郷愁の対象ないし要因は、人間によって思い出されたり、想像されたりする、その人間にとっての今・ここにはないものなのである。風景は郷愁の対象ないし要因となる。風景は郷愁性を持つ。

 

 よって風景が、『秒速5センチメートル』の、観客をして郷愁という目的性を感じせしめる手段性の機能として果たしている役割は大きいだろう。では風景を、そして郷愁性を表出するその映画という装置は、どのような構造をしているのか。

 

 

7.広野で停車する電車のシーン――場所的・時間的に分離した身体

 

 ここでは文字数の関係上、多くを取り上げることはできない。よって、代表的と思しきワンシーンをみることにより、風景表象装置の考察としたい。

 

第一話では、栃木に住む明里に会いに、貴樹が一人東京から電車で彼女のもとに向かうシークェンス[5]があり、その途中、豪雪のため辺りに何もない広野の暗闇の中で電車が停止してしまうシーン[6]がある。

 

 停車する電車のシーンでは、音声において貴樹の心情が語られる。一体誰によって語られるのかといえば、それは映像においては不可視の言わばもう一人の貴樹なのである。映像には、座席に腰掛け、ただただ運転の再開を待つしかない貴樹を、その身体を含めて映すショット[7]類、貴樹の身体がその中にあるという電車の空間の断片(車両間の連結部や、外に雪の降る様子が見える窓、整然と配置されているいくらかの座席など)を、貴樹の身体は含めず移すショット類、そして電車がその中にあるという広野を、その電車を含めて映すロングショットの類がある。

 

 映像で見える貴樹は、ただ一か所、ほんの一瞬を除き喋っておらず、席に座っているだけでほとんど動かないが、それらのショットに合わせてもう一人の貴樹ともいうべき者が映像で見える方の貴樹の心情を代行して抒情するのである。

 

 他のシーンでもあてはめて言えることだが、ここでの語り[8]は叙情的であると同時に日記的でもある。例えば、電車が止まり続け、明里になかなか近づけないことと、その状況をどうすることもできない己の無力さに対する貴樹の悲嘆が次のように語られる。

 

「たった一分が物凄く長く感じられ、時間ははっきりとした悪意をもって僕の上をゆっくりと流れていった。僕はきつく歯を食いしばり、ただとにかく泣かないように耐えているしかなかった」

 

 このようにその語りは現在形ではなく過去形である。つまり、これを語っているのは、その時、映像に見える貴樹ではない。彼は実際には口を利いていないし、仮に映像に見える貴樹が現に心の中で語っている声がそのまま聞こえているとしても、自分の現在の状況や心情を過去形で語るというのは無理がある。もしそうであれば、例えば「僕は泣かないように耐えるしかないのだ」などと現在形で語るはずである。

 

 ここで語っているのは、映像に見えるその時点その場所での貴樹の状況や心情を、時間的、場所的に分離した異なるところから見るもう一人の貴樹である。そして、この語る主体の身体が映画において不可視の場所、映画外に位置しているのだ。ここで貴樹という一人の人物の「分離性」が明らかである。それはもはや一人の人物ではないと言ったほうが良いのかもしれない。ここでは、同じ貴樹でありながらにして、場所的・時間的に離れた場所にいる二人がいっしょに、端から存在している。

 

 それはまさしく、一人の人物が写真アルバムを眺めていて、その時々を振り返りがてら、ちょうどその時その場所で感じていた自身の心情を語っている構図と類似する。そして観客の視野は、その写真の数々に限られているのである。

 

 このシーンにおいては、明らかな「視線」がある。かの写真アルバムを眺める「視線」である。映像は、ちょうど観客によって見られるのと同じように、映画とは別次元にその身体を置く、明らかにもう一人である貴樹によって見られている。それは映像中の身体から自由であり、しかして映像をより強く客体化している。

 

 またこのシーンにおいては、語りとタイミングを合わせるようにして、ピアノとストリングスによる音楽が付加される。これは、映像として見える貴樹の身体が置かれている実際的な空間で鳴らされているものではない。よってこの音楽はシーンそのものの劇性を強めている。劇性、それは言い換えれば「虚構性」である。

 

 元々の新海による映像は、人物が主役ではなく、物語の展開する空間自体が切り取られて成立しているという性質[9]があるが、それはここでも顕在である。それと相まって、映像に見える自身と決別した、もう一人の貴樹の「視線」が作り出す映像の「客体性」ないし「被視性」と、音楽によるシーンの「虚構性」がある。ここに「風景性」が立ち上がる。

 

 

8.結論

 

 第7章で述べたように映画は風景を表象しているわけであるが、風景の性質は郷愁がその対象ないし原因とし得るものの持つ性質と非常に良く類似しているのである。つまり、風景は郷愁の対象や原因になる。多くの観客が『秒速5センチメートル』を観ることを通し郷愁を感じるのであれば、その潜在的な目的性と言うべきものは、風景を表象する装置であるその映画という手段性によって獲得されているのである。

 

 



[1]CASIOXD-SW9400「デジタル大辞泉小学館」。ちなみに広辞苑には、余暇に対し「自分の自由に使える、あまった時間。ひま。いとま。」とある。政策には、「@政治の方策。政略。A政府・政党などの方策ないし施政の方針」、政策学には、「産業・労働・金融・交通・政治・教育・外交・軍事などの政策を実践的見地から研究する学問。」とある。

[2]加藤幹郎編『アニメーションの映画学』、加藤幹郎「風景の実存」、臨川書店、2009p.148

[3]加藤によると、「新海誠がその第一作『ほしのこえ』から第二作『雲のむこう、約束の場所』をへて、第三作『秒速五センチメートル』へとフィルモグラフィを重ねるとき、明白な変化が生じてくる。それは物語にじょじょに英雄的要素(戦闘シーン)がなくなっていくということである」(加藤同著、p.147)

[4]以下の作品解説からも、『秒速5センチメートル』が一般観客に与える印象がそのようなものであることがわかるだろう。
ありふれた日常の中で繰り広げられる男女の心の機微を美しい映像でリリカルかつノスタルジックに綴る(allcinema「秒速5センチメートル―解説」、株式会社スティングレイ、
http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=326527)
 
誰もが通り過ぎゆく日常を切り取った、切なくも美しいラブストーリー」(シネマトゥディ「秒速5センチメートル」、株式会社ウエルバ、http://www.cinematoday.jp/movie/T0005203)
 
「新海作品の情感あふれる映像に、切なくも美しいメロディーが響き、心を揺さぶられずにはいられない」(CINEMA RISE MOVIE INFO.「連作短編アニメーション『秒速5センチメートル』、
http://www.cinemarise.com/cgi-bin/rise_search.cgi?tmpl=detail&year=2007&just1=2007001&exp1=0)
 

[5] 「単一キャメラによって連続撮影された、切れ目のないひと続きの画面をショットという。シーンはショットとシークェンスの中間単位で、ひとつのまとまったエピソードから成る。シーンでは、通常、アクションが一定の時間内に、一定の場所で展開する。そしてシーンがいくつか集まって構成されたもっとも大きな単位をシークェンスという。」『Cine Lesson 7〈逆引き〉世界映画史!』、フィルムアート社、1999p.196

[6] 註5参照。

[7] 註5参照。

[8] 実際に映像には自分の身体を現前しない主体によって語られること、またその行為を意味する。ナレーション(英:narration)

[9] 登場人物の身体はあくまでも空間の中にあるものとしてのそれである。加藤幹郎によれば、新海による映画は、多くの映画で採用されている登場人物(「前景主体」)と背景(「後景客体」)という二元論をとっておらず、登場人物はたびたび「脱中心的構図」をとる。であるからして、加藤は背景ではなく風景という言葉を使い、登場人物と風景は「切り離しえないものとして一体論的に創造される」というのである(加藤同著、p.120)