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中村祐司「北京五輪からロンドン五輪へ―その課題を探る―」

 

 

1.閉幕時の評論に注目

 

 20088月に五輪史上最大規模の大会が北京で開催された。開催前には国内外において中国が抱える諸課題が噴出する場面が多々見られたものの、開幕後の大会運営を妨げる大きな事件はなく、閉幕を迎えるに至った。北京五輪の成否については、これをどのような側面から照射するかによって、また、個々の論者によって判断は様々であろう。

 

 本レポートでは、主に北京五輪終了直後の時点での、インターネット上における電子媒体の記述内容(とりわけ評論家による指摘内容)を検討の対象とし、どのような課題の指摘がなされ、ロンドン五輪に向けてどのような展望が提示されたのかを把握する。

 

大会の熱気が冷めやらない閉幕時点での、いわば「ホットな」解説情報を、膨大なインターネット情報(いずれも20088月現在)から抽出し、その特徴を探ることは、北京五輪研究における不可欠な検討作業であると思われるからである。

 

そこで、以下、複数の論者による北京五輪をめぐる評価内容や、ロンドン五輪に向け指摘された課題内容を順次まとめていく。そして、そこから窺える特徴について若干の考察を提示したい。

 

 

2.スポーツ産業の商品化―デイビット・バルボザ(David Barboza)

 

北京五輪は中国の政治的・経済的な地位向上を刻印した一方、中国におけるスポーツ市場の規模を1994年の10億jから150億jにまで膨らませた。中国ではソフトドリンクやスニーカー、自動車、さらには携帯電話に至るまで、欧米スタイルの市場戦略が採用されつつある。今後、北京や上海の巨大スタジアムが世界的な大規模スポーツイベントの舞台となるであろう。

 

インターネット上で中国語に翻訳されたアメリカのスポーツ雑誌は60万部に達している。北京五輪ではテレビを通じて3億人以上の中国人が卓球の試合を視聴し、17,500万人の人々が中国対アメリカのバスケットボールの試合を見た。スポーツ観戦やスポーツ市場をめぐる熱狂ぶりの中で、スポーツ代理店が投資の矛先を向ける(=スポーツ産業の商品化)ようになった[1]

 

北京はすべてを五輪に注ぎ込み、国民を鼓舞し、莫大なお金をかけて首都を再構築し、豪華なスタジアムを建設し、中国にしかできない開幕・閉幕セレモニーを挙行した。それは世界中の人々の目を釘付けにした。

 

しかし、五輪大会の成功と引き換えに、車両規制、北京郊外の工場閉鎖などの制限が課され、さらに国民の多くに五輪大会成功が至上命題であると認識させた。北京はあまりにも大会成功を重要視し過ぎたのではないか。もちろんIOC会長の「世界は中国について学び、中国は世界について学んだ。このことが長期的にみて両者にプラスの効果を与えると信じている」という発言もその通りではあるが[2]

 

 

3.コマーシャル・ブランドとしてのスター選手―エドワード・ウオン(Edward Wong)

 

中国は13億人の人々がヒーローを願って止まない国である。人々は写真写り以上に、理路整然とした、そして何よりも謙虚なチャンピオンを求める。そしてそのようなスター選手たちは、中国においてますます活発化しつつあるマーケティング活動に依存しつつある。今日の商業社会では、ヒーローを生み出すのは獲得メダルそのものよりも、マスメディアである。したがって、中国のスター選手にとって、自分たちのイメージをどうマネイジしていくか、メディアに対してどう付き合っていくのか学ぶことがますます重要になってきている。要するにスター選手たちはコマーシャル・ブランドになりつつある[3]

 

 

4.都市の魅力やユーモアの要素とは―アンディ・バル(Andy Bull)とマリナ・ハイド(Marina Hyde)

 

北京五輪をめぐる管理運営は非常にきめ細かいものであった。植林された森、新設された道路、整備された車が使用され、7カ国語に対応してくれた愛想の良いタクシー運転手、雨雲を追い払うためのロケット発射などがそれである。しかし、本来、都市の魅力とはそのようなものとは違うのではないだろうか。大会期間中の2週間におけるホテル、スタジアム、メディアセンターの不自然さは、かえってフラストレーションを感じさせるものであった。国家は政府当局による行動と同様に、そこに住む人々の素顔に接して初めて分かるものである[4]

 

実際、「一つの世界、一つの夢」というスローガンは北京五輪の実態からみれば非常に遠かったが、それはまさに2012年ロンドン五輪に突きつけられたスローガンである[5]。北京五輪の運営は厳格すぎるほど厳格になされた。しかし、円滑な運営と盛大なスポーツパフォーマンスが誇示された反面、ユーモアの要素が決定的に欠けていた[6]

 

 

5.完璧な運営と無機質な空間―トーマス・ボスウェル(Thomas Boswell)

 

北京五輪は、軍事的警戒の中で完全にコントロールされた形で運営された。すべての競技会場の運営は完璧であった。ボランティアは誰もが笑顔で接し、誰もが英語での対応に一生懸命であった。しかし、一方でこれほど効率的・無機質で魂の抜けたような雰囲気の五輪大会がかつてあっただろうか。異議の表明は完全に抑えられた。中国の人々については、とても好ましく思った。しかし彼ら彼女らの多くは過去において社会変動(たとえば社会主義から「富は善」といった考え方まで)に翻弄されてきたことも事実である。資本主義循環と強固な権威体制が蜜月関係にある際にはうまく好転するが、相互の歯車が狂い始める時期が来ることは避けられない[7]

 

 

6.人間の憩いの場所に―リチャード・ウイリアムズ(Richard Williams)

 

北京五輪で示された人工降雨などの組織的水準に、ロンドン五輪は遠く及ばないであろう。ロンドンは天候をそのまま受け入れざるを得ないであろう。私たちは天候と一緒に生きている。自然との戦いはぜいぜいのところ、センターコートに屋根を設置する程度であろう。ロンドン大会では北京五輪を超越するプレッシャーにさらされる。そして、そのプレッシャーはイギリスが北京五輪で47個のメダルを獲得したことによって、さらに増大する。

 

たとえば北京五輪公園は巨額を投じて建設されたものの、そこには人間の憩いの場所としての機能には主眼が置かれなかった。それは非常に広大で、はっと息をのむような施設である。しかし、そこに人々がくつろぎ座って飲食するような、リラックスできる場所はなかった。ロンドンの五輪公園はおおいに親近感を持てる空間にすべきであるし、戸外カフェ社会の雰囲気あふれる首都を反映させる空間とすべきである。

 

献身的なボランティアの協力についてはどうであろうか。ボランティアは五輪成功の鍵を握っている。北京の7万人のボラティアのように、ロンドン五輪では2週間にもわたって、外国からの観戦客に対して、各々の国の言葉と笑顔でもって接することが果たして可能なのであろうか。現在の12-13歳を対象に早急に研修プログラムを作成し、ボランティア募集をすぐに始めなければならない[8]

 

 

7.「残り20%」の課題に対応―ケビン・ミッチェル(Kevin Mitchell)

 

今後は北京五輪のような豪華な大会が開催されることはないであろう。おそらく混乱し、無秩序で、不格好な局面が生じるロンドン五輪では、北京五輪とは全く異なるやり方で人々の記憶に残す僅かなチャンスをものにしなければならない。

 

今やあらゆるオリンピック運営のサンプルフォームが80%は固まっているといわれている。私たちがすることはバトンの手渡しであり、残りの20%にどう対応していくかである。北京五輪セレモニーの際のロンドン市長は溌剌としており、柔軟で、精悍で、記念碑的な存在で、かつ熱狂的であった。こうした態度は、彼の声の大きさとともに中国当局を当惑させた。中国当局はおそらく、イギリス国民はすべてがそのようなものだと考えているだろう。

 

ロンドン五輪の成功は言葉ではなく、実践にかかっている。スポーツ統轄団体間、世界レベルのコーチング、資金提供の増大、選手の志気といった個々の良質の管理運営をいかに結合させるかにかかっている。

 

30年前の改革・開放路線以降、中国は世界へと進出していった。仮に北京五輪を「国家主導型」とすれば、ロンドン五輪は「民主型」であるべきで、北京五輪をめぐる政府や企業のスタンスとは全く異なったものになるはずだ[9]

 

 

8.パフォーマンス認識の違い―エオガン・ウィリアムス(Eoghan Williams)、モヤ・サーナー(Moya Sarner)

 

ロンドン市長のボリス・ジョンソンが北京五輪閉会式で五輪旗を引き継いだ際、尊大、無礼、失礼だったのではないだろうか。ロンドンバス、ベッカム、レオナ・ルイス、ジミー・ペイジ、その他のダンサーやシンガーによってなされた8分間のパフォーマンスについても評価は分かれている。

 

閉幕式での中国側のパフォーマンスを絶賛し、英国側のパフォーマンスを侮辱的な仕掛けだったとする評者もいる。ロンドンバスに乗客役が我先にと殺到した光景は、イギリスのイメージを損なった。中国は列に並んで待つことの西欧文化大切さを、国民にずっと訴えてきたからである。

 

ルイスとペイジは中国の人々の間での知名度はそれほどでもないことも、礼儀に欠けた面があった。ベッカムはといえば、サッカーボールを「鳥の巣」の中心の「レッド・エリア」にけり込むこととなっていた。結果として彼はこれに失敗し、左側に逸れる形でボールを蹴り上げ、ボールは観衆の中に落ちた。そもそもロンドンバスの登場など、英国のパフォーマンス自体が、スポーツないしは五輪との関係性に欠けていた。ジョンソン市長が五輪旗を片手で受け取ったことも、礼に欠けていたように思われる[10]

 

 

9.浮かび上がった現代五輪の特質

 

 北京五輪を通じて、中国市場ではスター選手が商品ブランドと結びついた形でダイナミックに展開された。国内外のスポンサーはまさにボーダレスな五輪市場において莫大な利益を共有したことになる。

 

この勢いは北京五輪終了後を契機として、基本的には右肩上がりで続いていくのではないだろうか。ゆくゆくは中国におけるスポーツファンの動向がスポンサーの行動を左右するようになるかもしれない。

 

その意味でスポーツ市場の領域ではとくにIOC会長発言の後者である「中国は世界について学んだ」ことになる。

 

典型的な事例として、天候をも制御した国家を挙げた卓越技術の誇示が、皮肉にも都市としてのユーモアの魅力を損なってしまった、という指摘は興味深い。国家が前面に出た技術面への英国の負け惜しみと取れなくもない。要するに中国の諸都市は、ヨーロッパの伝統とは対極にあるということを言いたかったのであろう。

 

「資本主義循環と強固な権威体制が蜜月関係ある際にはうまく好転」という表現に、まさに中国の抱える政治・経済課題のコアの部分や危うさが指摘されているように思われる。北京五輪は中国の枢要課題を顕在化させるのに一役買ったことになる。

 

ロンドン五輪が直面する五輪開催の課題には、当然のごとくロンドンや英国政府がベストと考える対応の仕方で向き合うことになろう。その意味で五輪の開催においては、当該主催都市や国家の政治力・経済力・文化力、さらにはボランティア活動など国民の協力や見識が問われるのである。五輪開催はまさに都市や国家の総力の結集の場であると同時に、開催に関係するあらゆる面での力量が世界にさらけ出される場なのである。

 

閉会式でのロンドンのパフォーマンスを、中国政府や人々がどのように捉えたかについては伝わってこない。しかし、このような解釈がイギリスの評者から発信されたこと自体に、国際標準と国家相互における礼儀・マナーを尊重することの大切さとその達成の可能性を見て取ることができるのではないだろうか。

 

 



[1] デイビット・バルボザ「スター選手に向かう中国人の熱狂」(Chinas Promise Excites in the Sports Stars)

http://www.nytimes.com/2008/08/27/sports/olympics/27star.html?_r=1&ref=olympics

[2] 同「五輪は大音響と二階建てバスでもって閉幕した」(Olympics Close With a Bang and a Double-Decker Bus)

http://www.nytimes.com/2008/08/25/sports/olympics/25beijing.html?ref=olympics

[3] エドワード・ウオン「オリンピックヒーローという中国にとっての新たなキャスト」(A New Cast of Olympic Heroes for China)

http://www.nytimes.com/2008/08/25/sports/olympics/25chinese.html?ref=olympics

[4] アンディ・バル「きめ細かく管理された五輪幻想の先にある、激しく混沌とした現実」。

http://blogs.guardian.co.uk/sport/2008/08/25/a_wonderfully_warm_reality_lay.html

[5] マリナ・ハイド「トーチは手渡された―勇壮の北京からロンドンバスの列へと―」(The torch is passed, from Beijing epic to London bus queue)

http://blogs.guardian.co.uk/sport/2008/08/25/the_torch_is_passed_from_beiji.html

[6] 同「壮大だがユーモアのない大会から教訓を学べる」(London can take heart from these spectacularly humourless Games)

http://blogs.guardian.co.uk/sport/2008/08/23/london_can_take_heart_from_the.html

[7] トーマス・ボスウェル「中国についてどう考えるか」(So, what did you think of China?)

http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/08/24/AR2008082400603.html

[8] リチャード・ウイリアムズ「ロンドン五輪に向けての教訓(1)(The lesson for London: bring an umbrella and a sense of humour)

http://blogs.guardian.co.uk/sport/2008/08/26/the_lesson_for_london_bring_an.html

[9] ケビン・ミッチェル「すべての参加選手のための大会」(Games for all as Britain shines)

http://blogs.guardian.co.uk/sport/2008/08/24/games_for_all_as_britain_shine.html

[10] エオガン・ウィリアムス、モヤ・サーナー「中国 閉幕式でのロンドンのパフォーマンスを嘲笑」(Chinese ridicule London's part in closing ceremony)

http://www.independent.co.uk/sport/olympics/news-and-features/chinese-ridicule-londons-part-in-closing-ceremony-909766.html