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山崎祐司「大和郡山市における金魚すくいとは」

 

誰しもが幼い頃の夏祭りの縁日などで金魚すくいを経験したことがあるのではないだろか。金魚といえば金魚すくいを真っ先に思い浮かべる人も少なくないだろう。しかし縁日という言わば表層の華やかな世界の裏には様々な問題やそれらを解決するための策が隠れていることを忘れてはならない。

 

そもそも子どもが金魚をすくって遊ぶことは、金魚が中国から入ってきたばかりの江戸時代から行われており錦絵などにもその様子が描かれているようだが、今のように紙を使う金魚すくいが盛んになったのは大正時代からだとされている。[i]

 

そんな中、現在の奈良県大和郡山市では、水質、水利に恵まれた農業用ため池が数多くあり、ため池に発生する浮遊生物が金魚の稚魚の餌などに適しているという恵まれた自然条件により、江戸時代より藩士や農家の副業として金魚の養殖が盛んに行われてきた。昭和40年代には経済の発展や養殖技術の進歩により生産量が増加し、国内はもとより海外への輸出も行われていたが、オイルショック後の不景気、都市化に伴う水質汚濁等の環境の悪化、そして後継者不足などから廃業して養殖池を宅地などに転用する者も多く見受けられ、生産量は減少傾向にあった。[ii]

 

以前から市内に金魚資料館や金魚卸売センターを設けるなど、大和郡山市は金魚を産業の一つとして捉えていたが、1995年には地元産業の振興につなげようと市が中心となって「全国金魚すくい競技連盟」という団体を設立し、毎年全国大会を開催したり競技セットのデリバリーサービスまで行っている。私は以前テレビニュースで何気なくこの競技の存在を耳にした際に斬新な発想だと感じたが、よくよく考えてみると、かつては貴族など富裕層の間で、そして現在でも遊びとして認知されているものを競技にまで昇華させた例は珍しくない。その起源については諸説存在するが、中国における蹴鞠が平安貴族に伝わり現在の競技に至ったサッカー[iii]や、江戸時代から現在まで遊びとして親しまれ、全日本カルタ協会の下で競技として全国大会を開催している百人一首などのカルタ競技も顕著な例である。今回の例も、遊びとして金魚すくいを始めたにもかかわらず、誰もがいつしか真剣な眼差しで金魚を追っているところにヒントを得たのかもしれない。

 

金魚の町として大和郡山市が全国的に再認識されたことで、街は一気に活気づいた。大会会場ではタオルやTシャツやパンに至るまで実にさまざまな金魚のマスコットグッズが販売され屋台などの出店もあるという。その中でも特に感心したのは使用済みのポイ(金魚のすくい網)が捨てられることなくリユースされている点である。昔は針金だったポイも今はプラスチック製となり、使ったポイに紙を貼ってミニうちわとして記念に持ち帰ることができるようになっているのだ。大会を単なる楽しいイベントや財源確保の場として終わらせるのではなく、その中で何かを生み出す際に必ず発生する副産物(ここではゴミ問題)をできるだけ排除しようという姿勢を学ばなければいけないと思う。

 

そのほか、落ち込んでいた金魚の販売量も徐々にではあるが回復の傾向にあり、市のホームページのアクセス数は年々増え続けている。今年度からは市のホームページ上で主に市内の企業や商店街を対象にバナー広告を募集して、新たな財源確保や地域の活性化につなげようという試みもある。広告事業の拡大はホームページ上だけにとどまらず、市内の主要公共施設に停車するコミュニティーバスの側面や後部のステッカー、車内の壁面ポスターの広告も募集するなど、金魚すくいのまちとして市政の運営も活気づいているようだ。このように「金魚すくいを競技に」という、政策と呼ぶには堅すぎる一つの案がこれほどまでまちを活性化させるのである。

 

 しかし、何かを生み出す際に必ず発生する副産物とはもっと大きな問題のことも指しているように思える。金魚すくいの流行により金魚の需要が大きく伸びた反面、そのこと自体が金魚の生産に悪影響を及ぼしているのではないだろうか。自然界においては、金魚の稚魚は鳥や大型魚といった天敵に食べられてしまうが、養殖場には天敵がいないため人間がよい個体だけを選別して残すことができる。しかし、選別の基準は自然とは異なり、人間の目線における美しさが加味されるのだ。ところが近年の金魚すくいの流行とともに金魚の需要が高まると生産が追いつかなくなり、選別を甘くせざるを得なくなる。虚弱で観賞やペットに向かないものもかなりの量が出回っているそうだ。[iv]このような状況を考えると、せっかくすくった金魚が家に持ち帰って数日で死んでしまったという私の経験は、飼い方が悪いだけでなくこうした需要と供給のバランスによる影響も大きいのではないかと思えてくる。しかし、縁日から持ち帰って飼ってもすぐ死んでしまうようでは、子どもはすくえた喜びよりもむしろ死んだときの悲しく悪い印象を持ってしまうのではないだろうか。

 

こどもが持ち帰っても事後処理に困り、結局近くの池や川に放流するという現状もある。確かに金魚を飼うには水槽やポンプの準備などの飼育セットをそろえるのには手間がかかり億劫になりがちだが、放流してしまっては生態系の破壊などにもつながりかねない。理想を言えば生き物を育てる楽しみや生命の尊さを体感するために育てるのが良いが、持ち帰っても飼う見込みが無いのならすくったプールに戻すという思い切った決断も必要だろう。

 

 金魚すくいは多くの人々にとって単なる遊びでしかないが、その活用法は実にさまざまで特に大和郡山市にとっては市の盛衰を左右する一大産業となっている。しかし、解決すべき問題はまだ残っているような気がしてならない。大会を続ければ金魚自体の需要は伸び続けるだろう。しかしそれによって供給とのバランスが崩れるようでは、地域は潤っても生態系や金魚の品質に支障をきたす一方ではないだろうか。大会公式規定に「動物愛護の精神で」と謳うのであれば、より良い策を講じて地域のみならずそのような諸問題からもすくってもらいたいものである。

 



参考資料(すべて2007/06/26現在)

[i] 『金魚がウチにやってきた』木村義志著 岩波アクティブ新書

[ii] http://www.city.yamatokoriyama.nara.jp/kingyo/rekishi.htm (大和郡山市・金魚のページtop)

[iii] http://www.people.ne.jp/2004/07/16/print20040716_41374.html (「サッカーの発祥地は中国」FIFA会長(人民網日本語版より))

[iv] 『金魚がウチにやってきた』木村義志著 岩波アクティブ新書