070627satomiyabi

佐藤優「余暇と親子関係―親子の遊びと子どもの発達を中心に」

 

最先端の技術が次々に我々の生活に浸透している現代社会、そして子どもの教育に対する考え方の変化において、子どもが外で遊ぶという光景を目にする人は確実に減っていると言える。現在子どもの遊びと言えば、テレビゲームやポータブルの携帯ゲームがほとんどで、親子が一緒に遊ぶという機会もないだろう。今回このレポートでは、子どもを持つ大人の余暇と、現代の子どもたちの遊び(特に乳児期から児童期までに焦点を当てる)、そしてこれらがどのように子どもの発達に影響していくのか、余暇における親子関係のあり方を、心理学的観点から述べていく。

 

まず初めに、子どもの遊びと発達の関連性について述べる。遊びという概念によれば、子どもの遊びは玩具を相手にひとりで遊ぶ「ひとり遊び」(乳児期)、絵を描くなどみんなで同じことをするが、お互いの関与はない「並行遊び」(3歳児頃)、内容について子ども同士で会話を持つが、イメージの共有ができていない場合もある「連合遊び」(34歳児頃)、遊びの中に分業が見られ、役割をとりながら一つの遊びを展開していく「共同遊び」(5歳以降)というように発展していく。[1]また、子ども同士が一緒に遊ぶようになることで、自己中心性[2]の特徴を持った時期の場合は、他の子どもの意見を取り入れることが困難であるためにしばしば喧嘩が起きる。これを繰り返すことと認知の発達により、遊びの中で子どもたちは自己を表現したり、相手を思いやるなどの道徳心を身に付けていくのである。私が子どもの頃は休みの日に友達同士で外を走り回ったり、公園へ遊びに行くというのが当たり前であった。今では、習い事などのせいで友達と遊ぶことがない、子どもだけで遊ばせるのが危険といわれる時代になったなどの理由からも、子ども同士の遊びを見ることも少なくなった。現在の技術の進歩や余暇に対する考え方の変化によって、親子関係や子どもの心の発達も変化してきていると考える。

 

余暇というのは本来「余った暇な時間。自由に使える時間」という意味であるから、何をするのも本人の自由である。大人にとってはたまの休みにはゆっくりして体の疲れを取りたいと考える。しかし子どもは明日のために休む。明日も学校に行かなければならないから、今日遊ぶ。これが子どもにとって成長のための大切な活動であると考える。そしてその中で親がどのように話しかけるか、働きかけるかで大きく発達は変わってくる。最初に述べたように、子ども同士の関わり合いや大人の行動を観察することなどから、自律心や道徳心を身に付けていく。親にとっては大人しくテレビを観たり、ゲームをしていれば都合が良いだろう。しかし人との関わりご希薄になるということが当たり前になってしまった場合、幼稚園、小学校などの集団に入ったときにどう接したらいいかわからないというような、対人関係に障害が出ることもある。さらには、テレビやゲームの暴力シーンを観たことによって、子どもの攻撃的行動や暴力が増えるという研究結果もでているのである。[3]大人にとって都合の良い存在であったテレビやゲームは、子どもの成長には正の影響を及ぼすとは言い難いのである。

 

近年では多くのレジャー施設が建設され、休みになれば多くの観光客が行楽地を訪れる。しかしこのような行楽において、私が注目をしたのが先に述べた携帯ゲームなのである。今までもテレビが子どもの教育に良くないと言われてきた。もちろんテレビであれば家の外に出てしまえば観ることはできないが、どこへでも気軽に持ち運びができるというのが謳い文句になっている携帯ゲームは、どこに居ようと簡単に使うことができる。次々に新しい種類のゲームが発表され、子ども達にとってとても魅力的な遊び道具である。持っているということがステイタスになっている部分もあるだろう。ただ携帯ゲームの場合は独りで遊ぶというのが普通であるため、もし家族一緒にいても誰かがゲームをしている場合は、そこでのコミュニケーションは途切れていることになってしまう。さらに言えば、遊びの概念からすれば「ひとり遊び」の続行である。そして驚くのは親は子どもがゲームに夢中になっているのを黙認していることである。つい先日、とあるレジャー施設に行ったときのことであるが、土曜日ということもあり家族連れも多く、施設内は人でごった返していた。もちろんアトラクションの待ち時間も1・2時間は当たり前であった。大人の私たちも待つのに疲れたり、飽きたりすることがあるのだから、子どもたちはさらに短い時間でもすぐに飽きてしまうだろう。駄々をこねている子どもや、父親に負ぶさって寝ている子どもも居た。しかしそんな中で目を引いたのは、携帯ゲームをひたすらする子ども達であった。当然親子の会話もなく、ひたすら順番が来るまでゲームをしている。親も携帯電話を取り出し子どもに構う様子はないのだ。余暇を家族で過ごすために出かけるのだろうが、コミュニケーションのないままでは団欒などできないのである。また、レストランなどでも食事を待っているときに子どもがゲームに熱中しているのを良く見かける。ここでも親子の会話は見られない。外でこの状況であるならば、おそらく家の中でもそうであろう。一体いつ親子のコミュニケーションを取るのか。余暇というものの捉え方が大人と子どもで違う中で、どのような働きかけが子どもの成長を促し、良い親子関係を築くことができるのだろうか。

 

子どもが「お父さん(お母さん)、遊ぼうよ」と言って来た時にどう対応したらいいのかわからないという親もいるだろう。簡単なことである。現代の人は昔の人よりも余暇時間がある。祝日は多く、休暇も長く、退職後の時間もたくさんある。子どもは、大人が仕事をしなくていい時間、何を楽しんでやっているのかを知りたいと思っている。しかし、大人は仕事を過剰にしていて、子どもは親の姿を「自由時間を犠牲にして、子どもに特別なものを与えられるように働いている」ととらえている。親は子どもと一緒に時間を過ごすことの方が、子どもに与える物よりも価値があるということを見落としている。確かに、幸せというのは、もっとも分かりにくい目標である。親が手本となって満足を得る方法を子どもに示せば、子どもは金銭的に裕福でなくても豊かになれる。しかし、親が子どもの前で楽しみを追求しなければ、親は満足感や幸せを得る方法を子どもに伝えることはできない。親が、子どもにとって、一生懸命働くことの良い例となりながらも、人生の楽しみ方の手本にはならないということは充分にあり得るのだ。テレビやゲームといったバーチャルの世界ではなく、現実の世界で、大人たちが人との関わりの楽しさ、自然に触れることの素晴らしさなどを示してあげればよい。そのためには大人が現実世界で楽しみを見つけていることが重要である。それが無かったとしても、例えばキャンプに家族で出かけるなどであれば、今までに経験したことのない空間で多くの発見をし、知識や興味を増幅させるだろう。また、「遊ぼうよ」という子どもの誘いに「今忙しいから」「疲れているから」といって断ることが増えていくと、子どもはフラストレーションを持つことになる。幼いうちはフラストレーションに上手く対応するための耐性を持っていない。もちろんこれが増えていけば、不適応行動が現れることも充分に考えられる。5分でも子どもの要求に応えて上げるだけで、フラストレーションは大幅に減少するのである。

 

ゆとりという言葉が活用されることによって、我々の生活はかなり自由になってきているといえる。だからこそ余暇の過ごし方、子どもとの時間というものを見直していくべきであろう。親子の遊びによって得られる特有の利点がある。子どもは、同年代の友達と遊んだり、ひとりで遊ぶよりも、広い視野を持つことができる。どんなテーマの遊びを子どもが選ぼうと、親は遊びを通して、新しい言葉を紹介したり、その意味を説明することで、子どもの語彙を増やすことができる。さらに地域によっては親子で参加できるイベントなどを企画しているところもある。[4]そのような活動を通すことで、子どもだけでなく大人にとっても、ストレッサーを取り除く機会であり、親子関係をより深めることができるだろう。子どもの世話をすることを特別な教育と考えるのではなく、「余暇の過ごし方のひとつ」と捉えることで親もとても気楽に考えることができる。まずは何より、現実の世界で大人が子どもの目線にたつことが最優先であろう。



[1] よくわかる発達心理学 ミネルヴァ書房 p5051

[2] ピアジェによる概念 3歳ごろの子どもは自分の視点や思考が他人のそれとは異なっていることを理解しにくいという幼児期の思考の特徴。

[3] 無藤隆、川浦康至、角谷詩織 2001 青少年へのテレビメディアの影響調査―2000年度 放送と青少年に関する委員会

[4] HIROKAクリエイト(余暇プランニング研究所)など。