070627nakaik
中井久美子「落書きが訴えるもの」
1.始めに
落書きについての考察を進めるにあたって、まず「落書き」の定義を明記する。「落書き」とは、「門・壁など、書いてはいけない場所にいたずら書きをすること。たわむれに書くこと。また、その書いたもの」(『広辞苑第五版』より)である。
また本レポートでは、落書きを大きく3つに分類する。以下箇条書きで示す。
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第三者にとって無意味・無害なもの(ex. 本人のノートの隅などに描かれたもの)
A
第三者にとって無意味・有害なもの(ex. 公衆トイレや高架下の壁に描かれたもの)
B
民俗学的価値の認められるもの(ex. 法隆寺金堂の天井に描かれたもの)
今回私が注目したのは、「表現としての落書き」である。上の分類でいうとAに値する。私はある論文[1]に出会ったのをきっかけに、この「表現としての落書き」に対する自分の否定的イメージにかすかながら疑問をもった。順を追って考えをまとめてみようと思う。
2.ストリートアートとタギング
「ストリートアート」とは、そのまま直訳すると「街の芸術」であり、文字通りひとつの美術様式として認められている。公共の建物や施設をカンバスに、スプレーやペンキで描かれる。一方、「タギング」というものがある。こちらは落書きの一つの様式と言ってよい。「ストリートギャングなどの縄張りの誇示に用いられたマーク(デザイン化された英単語や共通した様式を持つイラスト等)を指す」が、近年ではファッション化が激しく、単なる落書きと見なされている。多くはスプレーで描かれる。そもそも縄張り誇示の目的で描かれていたこと自体、多くの動物が行うマーキング[2]と大差なく、芸術性も低いと私は考える。
もともと「タギング」は「ストリートアート」の一種とされていた。つまり、かつては「ストリートアート」全体が落書きと見なされ、取り締まりを受けていたのだ。ところが近年、その芸術性の高さから徐々に市民権を得てきているものも多くある[3]。「タギング」を置き去りにして、「ストリートアート」は徐々に落書きから芸術の領域へと移行してきているように感じる。その証拠に、ストリートアートがタギングによって「汚損される」といった感覚まで生まれてきている。また落書き防止策として道路脇の壁に合法的に描かれるものもストリートアートと呼ばれることから、「秀逸な」作品が落書きからストリートアートに昇進していると見ることもできる。いずれにしろ落書きかそうでないかの決定は描く側と見る側双方の価値観に左右される。ここで強調したいのは、描いている本人からすれば落書きをしているつもりはない、という場合もありえるということだ。
3.グラフィティという名の叫び
「エアロゾール」という言葉を聞いたことがあるだろうか。これはヒップホップ4大要素[4]のひとつで今では「グラフィティ」と言う呼び名の方が定着している。つまりはストリートアートのことである。グラフィティを描く人を「ライター(writer)」と呼ぶ。
落書き、と聞くと、他人からすればどうでもいいもの、あるいは器物損壊とも呼べる悪しきものというイメージが湧くし、実際そういう定義である。1970年代、地下鉄の車体に初めて描かれたグラフィティ(当時は自分の名前と住んでいるストリート番号を記すのが主流)は、格差や差別に苦しむ人々の叫びであり、自己表現であった。それは同じ社会に暮らす第三者も認識すべき主張であって、その意味でももはや落書きとは呼べない。初めのうちこそタギングと大差ない手法ではあったが、その後1980年代になるとよりサイズの大きい絵を描くようになり、ジャン・ミッシェル・バスキア[5]などライター出身者で個展を開く者も現れた。いま、一部のグラフィティはアメリカで芸術としての評価を得ている。と同時に、芸術性が低いと見なされたものは度重なる対策により徐々に消えていった。描いている場所が場所だけに、生き残りの水準もかなり高かったことだろう。
4.グラフィディアの登場
全盛期に比べかなり数が減ったとはいえ、いまだグラフィティは活発なムーブメントの一つといえる。「グラフィディア(grafedia)」という新しいシステムは、そんなグラフィティの進化版みたいなものだ。ユーザーはURLを人目に付くところに、青地・下線付きで書く。見た人がそのURLにアクセスすると、あらかじめサーバーに登録しておいた画像や音楽ファイル、ビデオファイルが見られる上、作者にメッセージを送ることも出来るという仕組みだ。ネット世界をオンラインの外に広げ、また「力のない人」も双方向メディアに参加できるようになる、というのが発案者の狙いであるが、結局は壁にスプレーで書くわけで、何も知らない第三者からすれば落書き以外の何者でもない。現在どの程度普及しているのか不明だが、見る側にとって「URLに自分からアクセスする」というのはかなり高いハードルである。なにしろ、相手の素性はなにもわからないのだから。従ってあまり流行らないのではないかと冷静な声が各方面で上がっている。
5.まとめ
誤解しないでいただきたいのは、私は決して壁やガード下に非合法に描かれた絵を支持してはいないということである。ここまでのことをふまえて私が言いたいのは、弱者の自己表現を実現するには、こんなにも社会的リスクが高く、また時間と工夫を要するのかということなのだ。お金持ちであれば本の出版も個展を開くのも自由だし、地位と権力があればテレビで全国民に訴えることもできる。弱者は自分の名前を知らせることすら難しい。彼らが競争に負けたからだと言ってしまえばそれまでだが、このまま格差が広がれば社会主義の復活もあり得るのではないだろうか。社会は大きな混乱に陥ってしまうだろう。今回の調査で、余暇の穏やかな風景を乱す憎き落書きの中にも、現代の社会が抱える問題を考えるヒントが隠れていたと発見することができた。
最後に、冒頭で挙げたある大学教員の論文『陰湿・低能・低文化──落書き事件』は、落書きを陰湿で低能で低文化な行いと言っているのではない。少々言い過ぎの感もあるが、要は「落書きはあってはならぬ」といってすべて頭ごなしにたたきつぶしていっては、自分の価値観を押しつけているだけになるということをいいたいのだろうと私は解釈する。この論文は落書きについて少し構えずに接してみる機会をくれたという点では価値があった。しかし本レポートの内容にはあまり関与していないということを明記しておく。
[1]「岩見沢校/北海道教育大学」研究:『陰湿・低能・低文化──落書き事件』(http://justice.iwa.hokkyodai.ac.jp/workshop/miyasita/2006/02/18/)
[2] 動物が尿などで自分のなわばりを示すこと(『広辞苑第五版』より)
[3] 横浜市桜木町ガード下のストリートアートは、落書き禁止区域でありながら芸術性の高さを理由に黙認されている。
[4] MC、DJ、ブレイクダンサー(B-BOY)、エアロゾールの4つ。
[5] Jean-Michel Basquiat, 1960年12月22日 − 1988年8月12日 。ニューヨーク市ブルックリンで生まれたアメリカの画家。スプレーを使ったグラフィティ・アートで有名になった。
《参照》
ウィキペディア(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8)
HOTWIREDJAPAN『街の落書きがウェブにリンクするアートプロジェクト』(http://hotwired.goo.ne.jp/news/culture/story/20050329205.html)
〈以上すべて2007年6月26日現在の情報〉