070627kojimah
小島 久直「自分に対し掃除が磨くもの」
私は、余暇における意義のうちのひとつ、「自己啓発」という観点から普段何気なく私たちが行っている「掃除」の余暇活動化への可能性を探ってみようと思う。
@掃除における自分を磨く面
なぜ、自己啓発と掃除を結び付けたかというと、大掃除など日本人の掃除にはものだけでなく、すっきりとした気持ちで新年を迎えようという「自分」をもきれいにする目的が含まれている。また、企業で実践されるいわゆる「5S活動」には間接的には作業の効率を挙げるという効果もあるがその主な目的のひとつとしては掃除をすることにより機械などへの愛着を持たせることによる従業員のモラルの向上である。このように私たちは知らずのうちに掃除とは自分をも磨くものであると考えているところは多いのではないだろうか。
さらには掃除というものは教育の場においてよく見られる光景でもある。たとえば小学校である。きっと私たちの誰もが経験したことのある学校での掃除だが考えてみればきちんとした掃除を小学生のような児童が行えるものではない。これはやる気の問題ではなく小学生の体格という身体的な部分からだ。そうしたらなぜ不完全であっても子供たちに掃除をさせるのかといったらきっとそれは教育のためなのだろう。つまり小学校においての掃除には教育としての面が強いのではないだろうか。
ほかにも教育の場といっていいものではないだろうがお寺でもまず朝は掃除に始まる。人間という生き物がまず朝起きて望ましいことが掃除という労働であるとは到底思えないのでこれもやはり本来の掃除としてよりも精神的な修行としての性格が強いのだろう。これらのことから私が言いたいのは掃除とは自らをも磨き、成長させていく可能性があるのではないかということである。
A「掃除」の効果
それを調べるために文献などを探していたところ、ある人物が見つかった。カー用品販売店であるイエローハット創業者の鍵山秀三郎氏である。氏はさまざまな場所で掃除についての講演会を行い掃除の重要性を訴えたり、企業や学校での一斉掃除会などを行っている。
その目的は氏が作った団体である「日本掃除に学ぶ会」の理念に見て取ることができる。その第一の目的は掃除を通して自分自身を謙虚で物事に気づける人になろうというものだ。 また、地域社会内での人間関係の円滑化といった広い部分も目指している。この第一の目標を簡単に説明すると、掃除をするということはまず身を低くして汚れと向き合わなくてはならないので、物事や人に対し視線を合わせていけるようになるということだ。また、掃除というものにおいて掃除すべきなのだろうが気づかず放置してしまうことはどうしても多々ある。ここに気づけるようになることで問題点に気づける人になろうということだ。それを突き詰めると問題に気づきそれを解決する発想力を得ようというもののようだそしてそれを実践するのが「日本掃除に学ぶ会」であり、後に述べるが実際に企業だけでなく学校においても前述のような効果を挙げているようだ。
一見ただの経験談のように聞こえるが、鍵山氏がリヤカーひとつで営業していた会社を全国的に営業する企業に育てたことや、その要因には掃除をきちんとすることで信用してもらうことや社員全体の結束力を得たことがあること、さらにはその姿勢に共感した多くの企業が掃除の研修に来ているというのだからこの経験談は科学的ではなくとも確実の根拠となりうるものであると私は思う。
これらのこと、また自分自身の体験から掃除で得られるものとは大きく考えてこれらになると思う。
何かに気づく力
気づく力とはつまりは問題点に気づけるということとなり、問題点に気づけるということは、それを解決する手段を考えることとなる。それは人が気づいていないものとなるのでいわば発想力ともいえるものであると思う。
そのものへの愛着
鍵山氏の謙虚さという言葉は非常に正しいとも思うが、私自身は掃除したものには汚さを感じず、こう思うことが多いのでこう解釈した。愛着を持つことによりそのものへの対応というものも自然とおおらかとなり、それが人間関係の潤滑剤となる謙虚さとなるのだと思う。
そして、団体の場合であるが、団結力
集団で何かひとつのものに取り組むということもあるし、さらに前述の理由から共通のものに愛着を持てるということは何よりも互いを結びつけることとなるのではないか。
そして、強い意志である。
掃除を毎日繰り返し行うということはなかなか根気のいることである。だがそれを行うことでくじけない強い意思を持つこととなる。現に鍵山氏もニューヨークの地下鉄で後述の割れた窓理論を実践し清掃を徹底した地下鉄公団の社長も最初はともに批判されたが、くじけずに行った結果鍵山氏の下には結束の強まった社員が残り、ニューヨークの地下鉄では犯罪が減少した。
また、ある町で犯罪が増えるきっかけは割れた窓である(環境によるもの)とする割れた窓理論と通ずるところもあり、現にいくつかの荒れた学校でも一斉掃除がすべてというわけではないが非行や授業妨害の現象、なくなっていた行事の復活といった効果が現れている。
「掃除」といえば人にもよるが面倒なことととらえる人も多いだろう。しかし視点を変えることにより実にこのような効果を挙げることができる。つまり掃除とは見ようによっては作業であり、また教育ともなりえる。これらのことから少なくとも2つ以上の性格を持つものであると私は考える。
B余暇としての掃除
そうして、今回は余暇としての掃除についてとらえるので、教育にも通ずる「自分を高めるための掃除」とは何かを考えてみようと思う。まず、普通の掃除とは物の汚れを取ることが第一となる。ここに何を付け加えることで「余暇」となるのだろうか。
その答えとは私は「取り組む姿勢」であると私は思う。生活に必要な作業と思いながら行うのであればそれはどうしても面倒である。だが、そこに少しでも「汚れを探そう」という一種の向上心を持つことで汚れと向き合う姿勢となり、それが前述の鍵山氏の掃除のような気づく力や謙虚さを養える掃除になるのだと思う。このように余暇的な掃除となる根本はささやかなものであるが自分を高めるという大きな目標においてはむしろこういった小さなきっかけのほうが自然であり重要であるとも思う。
ただし、これまで書いてきた事柄はすべて継続して行っていくことが前提である。繰り返し行うことにより積み重ねていくことでようやくこれらの力は身につくこととなる。鍵山氏がこの活動を行ったきっかけは小さなころからの掃除に対するしつけからであり、長い時間をかけてようやく掃除の効果に気づくこととなった。
このレポートのために掃除を調べてきたが、正直ここまで見方しだいで変わるものかと驚くところも大きかった。だが、考えてみれば気づいていないだけでその重要性は伝えられていると思う。だからこそしつけとして掃除が含まれたり、お寺での朝一番の行動は掃除であったり、年末は掃除をしないと年が越せないとするのだと思う。
また、今回は掃除に焦点を当てたが、われわれは気づいていないだけで身の回りでふと行っているものにもこういった側面はあるものと感じた。そこに「気づく」ためにも掃除は自分を磨く上での重要な第一歩となると思う。
参考文献:『掃除道』 鍵山秀三郎著 php文庫 2007