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梅津方媛「日本におけるカラオケの発展、普及について」
カラオケは余暇を楽しむ手段の一つとして、日本において間違いなく確立されているといえる。私もカラオケ愛好家の一人であり、小学生の時に家族と初めてカラオケに行ったのをきっかけに、今もなおしきりに通っている。そのカラオケはどのようにして、現在の形に発展し普及していったのか、疑問に思い調べてみようと思った。
まずカラオケについて述べる前に、カラオケのもとにあるのは音楽である。その音楽業界は今となっては、超巨大産業として成長している。それは現代の人々の生活において、音楽というものがいかに重要であるかを表している。世界中に多種多様な文化があるように、世界各国の生活と音楽の関係も多種多様であると思う。例えば日本のように、音楽をビジネスの商品として流通させ、多額の金を動かすような産業として発展させている国もあれば、ビジネスとしてではなく、民族の祭りや宗教の経典として音楽に親しむ国もある。それでも音楽というものは世界中のそれぞれの人々にとって大切だということに変わりはない。日本では、ミリオンセラーに達するアーティストが続出するほど、音楽は産業として確実に成り立っている。なぜ日本の音楽産業はこれほどにまで成長したのかということを考えたら、その答えの一つとして日本独自の文化「カラオケ」が関係しているように思う。なぜなら、「カラオケで歌いたいから」という購買動機や、「カラオケで歌ったら盛り上がる」という販売戦略のように、CDが売れる要因にカラオケの存在は欠かせないものとなっているからだ。
音楽産業には欠かせない存在となったカラオケの歴史を辿ってみようと思う。カラオケの語源は「空(カラ)」と「オーケストラ」の略であり、元々バンドマンの俗語で「空オケで練習しよう」などと歌手抜きの意味で使われていた。1970年代の初頭には、それまで主に軽音楽のBGM再生機として使われていたコインボックス内蔵の8トラック式小型ジュークボックスにマイク端子が付く形になっていた。そして軽音楽テープなどを使って歌わせるカラオケの前身的な利用方法が登場した。スナックでプロの歌手の伴奏用テープを使ったのが始まりと言われている。軽音楽テープが「聞くこと」を目的としているならば、カラオケテープは「歌うこと」を目的に作られる。厳密に言えば、プロ歌手ではなく、素人に歌いやすくアレンジされていなければならない。これらに基づくと、国民皆唱運動を展開した山下年春氏(太洋レコード創業者)が1970年に発売した伴奏テープは、初のカラオケソフトと言える。その翌年、井上大佑氏(クレセント創業者)がスプリングエコー、コインタイマー内蔵のマイク端子付き8トラックプレーヤーを手作りで製作した。弾き語りで録音した伴奏テープ10巻(40曲)をセットして店舗へレンタル提供した。店舗での使用料金は1曲5分間100円だったが、神戸市の酔客の人気を博し評判となった。カラオケが業務用として誕生し普及していったことを考えれば、カラオケ事業の始まりは1971年だと言える[1]。
こうした誕生したカラオケは1973年には早くもビジネスとして各地で注目を集める。ハード、ソフトメーカーが相次いで登場してレンタルを開始した。酒場など、社交場を中心に急速に普及していった。カラオケ誕生後の10年間は家電・音楽業界の大手やカラオケ専業メーカーなどが技術及びアイデア競争を繰り広げた時代だった。そしてハード、ソフト共に質が向上して歌いやすくなり、カラオケ愛好者も大幅に増加した。さらに家庭にも浸透して新たな娯楽を創設した。1980年代初めに、その後のカラオケのスタイル・方向を大きく決定付ける二つの技術が登場した。「映像カラオケ」と「オートチェンジャー」(リモコン選曲)の登場である。それまでのカラオケといえば、テープの曲に合わせて歌詞カードを見ながら歌うのが普通だった。それが映像カラオケの登場で、画面に背景画像や歌詞のテロップが流れ、モニター画面を見て歌えるようになったのだ。今ではごく当たり前になっているカラオケボックスは、それまでの潜在需要層ともいえる若者のニーズを満たし、酒場市場などに加え、まったく新しい市場を開拓した。1990年代になって登場してきたのが集中管理システムである。レジャービルなどに、複数のオートチェンジャーと管理コンピューターを配置したセンター室から、同軸ケーブルで界隈の契約店舗の端末にカラオケを提供する仕組みになっている。そのあとの1992年に、現在のカラオケ店で最も使用されている通信カラオケが登場した。その曲数の多さ、新譜リリースの早さ、コンパクトさなどが評価され、普及に拍車がかかった。世間では「マルチメディア」という言葉が流行し、双方向性を持つ通信カラオケはマルチメディアが唯一具現化した商品と称されたほどである。通信カラオケは進化を重ね、1998年度には単年度出荷の94%を占めるに至っている。1999年以降も各社は次々と新商品を発表した。またこの頃、ギターやキーボード演奏とカラオケを融合した参加型の新たなカラオケスタイルも提案された。しかし、相次ぐ商品開発と競合の激化は長引く景気低迷と相まって、メーカー及び販社の体力を奪う結果となった[2]。
1990年から2004年にかけてのカラオケの参加人口とカラオケボックスのルーム数の推移を見る限り、1994年の参加人口5890万人を境に、少しずつでありながら減り続けている。カラオケボックスのルーム数の方も1996年の160,680室を最高潮に減少している[3]。しかし、カラオケ施設の数は減少傾向であるが、逆に1施設の当たりの平均ルーム数は徐々に増加している。これはカラオケボックス市場における店舗規模の大型化傾向があるのではないかと思われる。例を挙げてみると、宇都宮には何店舗もカラオケ店があるが、その中でも「まねきねこ」という全国チェーンのカラオケ店は、宇都宮市だけにでも5店舗ある。そのカラオケ施設のルーム数も多く、店舗規模が大きいと言えるが、反対に小規模のカラオケ店は経営不振に陥ることが多い。理由として考えられるのは、経営規模が大きい店舗は最新のカラオケ機器を取り入れることができ、その上、カラオケをする環境がしっかりと整えられるからではないかと考える。昔のカラオケボックスというのは、狭く内装も大してきれいにされていないところが多かった。しかし今では、平日は格安で歌うことができる上、部屋は広く確保でき、豪華なソファやきれいな内装が施されるところが多い。このように、カラオケは常に進化し、人々のリクエストに応えるように変化してきた。市場規模は1兆円まで拡大し、老若男女に今もなお根強い人気のあるカラオケであるが、ここ数年の厳しい経済情勢の中にあって苦戦を強いられていることは、上で述べたカラオケの参加人口の減少などに現れている。
ここで、世界のカラオケ事情に目を向けてみようと思う。私は中国のカラオケ店に行ったことがあるが、びっくりさせられたことは、店員さんがベルボーイのような格好をしており、丁寧に部屋まで案内してくれる。店内はカラオケだとは思えないほどの施設の豪華さ、そして必ず飲み物とフルーツの盛り合わせのようなものがついてくる。少し自分がVIPになったような気分にさせられる。もちろん値段もお高めになっているが、中国ではとても人気があることを実感した。タイやベトナムのような東南アジアの国々については資料で調べたが、中国と同じようにとても人気があることがわかった[4]。反対にアメリカでは、カラオケボックスは存在するが、それほどブームになっているわけではない。アメリカで販売されているCDには歌詞カードが付いていないものが普通である。日本と違ってアメリカでは音楽とは歌うものではなく、聞くものだという見解が強いそうだ。人種が違えば音楽に対する捉え方も変わってくるのだと深く考えさせられた。
このようにしてカラオケの歴史を振り返ってみると、様々な過程を経て現在の形のカラオケに達したことがわかる。改めて、カラオケとはいつの時代においても、全ての年代のニーズに応え、日本という社会になくてはならない、貴重な社交場であり、現代人に多いストレスを発散する場であることを感じさせられた。確かに「不健全」というマイナスイメージを否めないが、少なくともカラオケに出かけることで、一人で家に閉じこもるよりも他人との交流はできる。その上、カラオケは家族との団欒の場としても充分機能できると思う。カラオケの利用者数は減る傾向があるが、私は余暇の時間をカラオケで過ごすことを提案したい。