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「子供たちよ、休んでいますか?

〜完全学校五日制でゆとりは得られたのか〜」

 

(宇都宮大学国際学部国際社会学科三年 紺野美奈子)

 

1.学校五日制とは

 

学校五日制はその名の通り学校生活を五日間に減らし土日を休みにしようという制度である。ちなみに企業などでは週休二日制といわれるが学校に限っては学校五日制という言い方をしている。潜在的に学校生活を重要視していることの表れなのだろう。この制度は平成4年9月から月1回、平成7年4月からは月2回という形で段階的に実施され、平成14年からついに完全五日制になった。文部科学省(http://www.mext.go.jp/)によると、この制度は『ゆとりのある生活の中で生きる力を育み、子どもたちが個性を生かしながら豊かな自己実現を図ることができるよう』に発案されたらしい。生活体験や自然体験が多い子供のほうがより社会に適合できる人格形成がはかれるとのデータがあり、役人は休みを多くすることによってさまざまな体験をしてくれることを望んだのであろう。そして週に六日も学校に教育を押し付けるのではなく、家庭・地域・学校が連携して子供たちを教育していってほしいという願いもあった。また裏事情として、公務員で週に六日も働かなくてはいけない教職員の負担減になればとの狙いもあったらしい。

 この学校五日制は昭和60年ごろから提案がされており、当時の提言書をみると現在のねらいと若干異なる点がでてくる。それは「生きる力」という言葉がまだ使われていないということだ。昭和60年代でも『青少年は,ともすれば忍耐心,自立心,社会性,規範意識が不足していると』http://wwwwp.mext.go.jp/wp/jsp/search/IndexBodyFrame.jsp?sd=hpaf198601&id=hpaf198601_2_208.html&no=nonode指摘されておりそしてその原因は生活体験・社会体験の不足からきているともいわれている。そして学歴社会からの脱却をはかるためにも学校五日制が必要だと説き、アメリカやヨーロッパ諸国での成功例をあげている。まだこの時点では子供たちのことを考えてというよりもアメリカに追いつこう、真似をしようという動きのほうが強いように感じられる。それから提言書に生きる力というのが登場したのは平成9年になってからであった。このころ(筆者が小学校高学年〜中学生の時期)は、いじめや小中学生の自殺などが相次ぎ社会問題となった時であった。この現象を食い止めるために「生きる力」という言葉が盛んに使われ、提言書のほうにも登場した。こどもたちを学校だけで教育することはさすがにもう限界だということになり、家庭や地域にも助けてもらわねばならない状態になった。そしてそのためには完全学校五日制にしていかなくてはならない、という発想である。こどもたちが壊れかけているということに気づき、これはどうにかしなくてはと焦ったのだろう。だがどうすればいいのかわからなくて、とりあえず学校五日制にすれば何とかなるのではないかという淡い期待を抱いていたようだ。

 

2.学校五日制が実施されて

 

こどもたちは学校五日制になってゆとりある生活をおくり生きる力を育めたのか。ここからが本題である。休みが増えて単純にうれしいといえばうれしい。筆者が小中学生の時、休みだった土曜日に何をしていましたか?というアンケートがよく取られた。回答の第一位は寝ていた、もしくはテレビをみてダラダラ過ごした、であった。この答えをみてゆっくり休めてよかったね、などと大人は思うのであろうか?また文部省の狙いである地域の人と過ごしたという答えは皆無に等しかった。(なぜなら小学生と地域を結ぶイベントがなくあったとしても参加したいと思えないものばかりだったからだ)せっかく休みにしても生きる力が身につくような体験をしている生徒はいたとしてもごく少数である。そして中学生になると部活動や塾などに通う生徒が増えてくる。筆者が通っていた中学は部活動への入部が強制であり休日である土曜日にも練習をしなければならなかった。結局休みであっても学校で過ごすということには変わりなく、これでは本来のねらいとはだいぶ違ってくる。部活の監督のために教員は学校にこなければならないので教職員の負担は減ることはない。部活動が生活体験や社会体験につながることもあまりないし、家族や地域とのふれあいにつながることもめったにない。

休みを与えられても、部活くらいしかやることがない子供たち。もしくはやらされている子供たち。この状況で、土曜日を休みにする意味があるといえたのだろうか。このような疑問を抱えたまま平成十四年に完全五日制が施行された。それからこどもたちを取り巻く環境が変化していった。土曜日がなくなるので今まで六日かけてやってきたものを五日でやらなくてはならなくなった。筆者が通っていた母校は放課後に一時間授業が増えることになった。さらに朝から授業をする0時間目が加わり生徒たちはハードな生活を送っている。また学校行事が削減された。生徒たちの楽しみがまた一つ減っていくのである。こうして学校はただ勉強をするためだけの場所へと変わっていくのであろうか。ゆとりある生活のために学校五日制にしたのに、そのせいで負担は増え、以前より忙しい生活を送ることになっている。

休みの日をどう過ごしてもらうか。その受け皿がきちんと用意されていないうちにとりあえず休みだけを増やしたこの政策は失敗だったのではないか。現在の子供たちにとって休日がふえることは必ずしもゆとりある生活を送れるということではないように思う。筆者は塾講師の経験がある。小学生は土曜日でも塾にくる。親は近年のゆとり教育での子供たちの学力低下を心配し、子供たちも家にいてもやることがないからといって塾にくる。中学生も部活が終わった後に疲れた体を引きずりながら塾にやってくる。こんなことなら土曜に学校があったほうがまだ良いのではないか。塾で勉強をするとお金もかかるし家庭にとっても経済的負担になる。学校五日制によって弊害が生じている。

 

3.土曜日の意義

 

小中学生当時は半日しか授業がないのに学校にくる意味なんてあるのだろうかと疑問だったのだが、思い返してみると、土曜日にはそれなりの意義があったように思える。土曜日に午前中だけ授業をし、午後からはゆっくりする。この午後からの時間こそが我々にとってゆとりを感じさせてくれるものだった。ゆとりとは比較の中でしか感じられない。最初から何もなく寝ているだけでは、あの土曜日独特のゆとりを感じることはできないだろう。学校にきているのに普段とは少し違った時間の使い方ができる。休みの土曜日より学校があった土曜日のほうが充実した時間を送れていた。また決まった時間に毎朝おきて学校に行くという生活のほうが子供にとっても良いと思う。二日間も休みがあると生活のリズムが狂ってしまうのではないだろうか。

筆者が昔のクラスメイトと集まるとき、決まって今の子は大変そうだねという話になる。平日の授業が増えたり学校行事が削られるくらいなら土曜日があったほうがよっぽどマシなのではないかと。学校は社会に出る前の人格形成をはかる重要な場所だ。勉強をするだけでなく他人とのコミュニケーションを学んだり、学校が主体となって生活体験や自然体験をさせていくべきなのではないか。単なる詰め込み授業を行う場所ならば、塾のほうがはるかに良いということになってしまう。

学校が本来の機能を取り戻すためにも土曜日の復活を願わずにはいられない。もしくは休みのひも有意義に過ごせるような受け皿を作ることが求められるだろう。子供たちがゆとりある生活を送れるよう目先のことだけでなく長いスタンスで考えていかなければならない