040630arais 余暇政策論
033502Z 新井諭
余暇をどう過ごすか
2002年JR東日本車輌内で、JR東日本の旅行キャンペーンのキャッチフレーズで「なんにもしないをしよう」というものを見たことがあった。当時、このキャッチフレーズを見て不思議な言葉だが、なんか面白い言葉だなと思ったのを覚えている。
余暇とはすなわち休日のことで、休みの日には多くの人は何かをして過ごしている。しかし、休日に何もせずにただただ時間を過ごす人もいるだろう。このように休日を何もしないで過ごすのはもったいないという考えが日本人にはよくある。休日に何か楽しいことをしなければいけない、ただただ時間をすごすのではなく、何か行動をしなければいけないという、強迫観念に近いものに日本人はとらわれている。しかし、このように無理に休日に何かをすることはおかしくはないだろうか。無理な欲求により休日・余暇に何かをして過ごすのでは、休日・余暇を心から楽しんで過ごすことはできないはずである。
つまり、休日・余暇は本人の自発的な感情・好奇心・欲求から起こされる行動によって過ごされるべきであるといえる。例えば、他人から見るとただ取り留めのないことでも、当の本人にとってはとても大事であることがある。これは本人の欲求によって求められていることをしているだけなのである。ということは「なんにもしない」休日・余暇も当人が望んでそれをしているのであれば、それもまた休日・余暇を有効に過ごしているということになる。
休日・余暇を何もしないでだらだら過ごすというのは普通から考えれば、なんてもったいない事をしているんだという風に考えられるだろう。しかし、このだらだら過ごすということが実は大切なことなのである。過労死と余暇についての関係として次のようなことが言える。
現代日本では、50歳から60歳の働き盛りの過労死が続出している。藤本正氏は『時短革命 ゆとりある私的時間』で日本の働くものは休日・休暇にごろ寝をすべきだと述べている。休日・余暇には家でごろごろして疲れを取るべきなのである。さらに、ごろ寝で疲れをとった後などに時間が余り、自然に本を読みたくなる、それが人の知的精神を育む、と述べている。
近年のゆとりある余暇の喪失は、このような知的精神を育む機会を奪ってしまっている。
このことが人に備わっている「社会的正義感情」の欠如を生み出すと警告している。
ただ休日をだらだら過ごすなんて考えられない、そんなことをしていたら気が狂ってしまう、自分の好きなことをやりたい、というような活動的な人もいる。そのような自分のやりたいことが決まっている人はそれをやればいいのである。疲労には先の過労死のところの肉体的疲労と、また別に精神的疲労がある。自分の行動したいという気持ちを押さえつけていてはストレスが溜まってしまい、精神的に疲れてしまう。先に述べたように余暇・休日は自分のやりたいと思うことをやるべきなのである。休日・余暇に活動をしたい人は自分の思うとおり行動すればよい。
休日・余暇は縛られた日常の中に与えられた自由な時間である。世間の波に流されてどこかに遊びに行くのではなく、自分の本当にしたいことをすること、また、自分がしたいと思ってしていることが世間から見ればどんなにくだらないことや、価値の低そうなものでも、自分が自分のしていることを認めて、休日・余暇を自分のために過ごすことが必要なのではないだろうか。また、何もすることが見つからないからといって焦る必要はない。むしろ、「なにもしない」という休日・余暇も現代日本に求められているものであると思う。何もしたくなければ「なにもしない」休日・余暇があってもいいのである。
参考
http://homepage2.nifty.com/karousirenrakukai/15-060=shohyoJITANKAKUMEI.htm
書評 『時短革命 ゆとりある私的時間』 岩城 穣
水の中の小石