sakamotok020703   「余暇政策論」レポート

W杯のキャンプ地をめぐるできごと 〜カメルーンのキャンプ地の例を通して〜」 k000123 坂本香織

 

 ワールドカップの期間中各国の選手たちが日本に滞在している間、拠点とし、練習や静養の場としていたのがキャンプ地である。キャンプ地では誘致の段階やキャンプが始まってからでも、各国や各自治体の事情によりさまざまなできごとがあった。その誘致までの流れや失敗例、また、選手たちとの交流について、カメルーンのキャンプ地となった富士吉田市・河口湖町の活動を通して調べてみた。

1.カメルーン代表チーム誘致までについて

富士吉田市・河口湖町の2市町は大会期間中のカメルーン代表のキャンプ地であった。ちなみに、カメルーン代表のキャプ地として全国的に有名になった大分県の中津江村は事前キャンプ地である。まず、カメルーン代表の誘致にいたるまでの流れについて見てみたい。最初2市町はナイジェリアチームと交渉を行っていた。20018月の視察から始まり、20022月の時点ではナイジェリアとは条件面で事前承諾書を得る段階まで話が進んでいて、実行委員会も設立されていたのだが、突然ナイジェリア側は神奈川県平塚市を視察に訪れ、その翌々日には平塚市と調印してしまった。この結果に落胆していたのだがその二日後にカメルーンチームが視察に訪れたのだ。この時点ではまだカメルーンは新潟県新発田市と交渉を続けていて、ナイジェリアの例もあり2市町はあまり乗り気ではなかったが、新発田市の誘致断念発表を受けて、正式にカメルーンとの調印にいたった。この決定については、ナイジェリアの誘致に失敗したことで面目が立たないから2市長が強行したのでは、という声もあったほか、費用の件や契約の条件となった地元市民との交流についてもあいまいな点が多く、その不手際を隠すように当初は契約書の公開も拒否していた。後日、この契約書は報道陣の強い要請もあり公開されることとなった。ナイジェリア代表との交渉がなぜ最終段階に来てうまくいかなかったかについては、はっきりとしたことは書かれていないが、富士吉田市長は、「視察の段階では2市町について気に入ってくれていた監督が今月(2月)中旬になって突然解雇されたことが影響しているのでは」(毎日新聞2002227日山梨版より)と、その一因をあげている。次の章ではこのような誘致断念や、失敗のケースについて触れてみたい。

2.キャンプ誘致難航の原因や誘致断念のケースについて

富士吉田市・河口湖町がナイジェリア誘致断念からカメルーン誘致になんとかこぎつけた背景には、前述したように新潟県新発田市のカメルーン誘致断念という事態があった。このように契約にいたるまでには自治体の間で激しい誘致合戦が繰りひろげられていた。今回のワールドカップで当初キャンプ地に立候補してJAWOCから承認されていた自治体は84団体で、その後最終的に選ばれたのは全部で26の自治体であった。84の自治体の中には、名乗りをあげたものの、誘致合戦に参加することさえできずに終わってしまった自治体や、誘致成功かと思われたのにあと少しのところで断念せざるをえなかった自治体、また、契約にいたるまでにたいへん苦戦した自治体など、さまざまなケースがある。これについて見ていきたい。

まずは、本格的に誘致活動に参加するまえに断念を決定した例としては、まだ各国の視察活動もあまり始まっていない2001年4月というかなり早い時期に辞退することを発表した自治体がある。これは84団体のなかでも最も早い決定で、その理由としては、代表チームの滞在費や、警備の費用など受け入れ側の財政負担が大きいことと、練習が非公開になる可能性もあり市側のメリットがすくないことがあげられていた。次に、視察の段階で練習場や宿泊施設の不備を指摘されその時点で誘致成功の可能性がうすくなってしまった例がある。この場合、必ずしもすべてのチームから不満が寄せられたわけではなく気に入ってくれていたチームもあったが、この自治体は結局どこの国とも契約を結ぶことができず、誘致断念という形になった。次に、キャンプ地に立候補したものの市の財政難と、活動方針が不明確なことが原因で誘致できずに終わってしまった自治体もある。厳しい財政状況のため最初から他の自治体のように積極的にPR活動を行う資金がなく、また、明確な誘致方針が見えないとの声もあった。結局この自治体も誘致断念という結果になった。さらに、以上のようなケースとは違って交渉は進んでいたが断念せざるをえない状況になってしまった例もいくつかある。その一つとして、交渉を続けてきた候補国がワールドカップ出場をかけた予選で敗退してしまったケースがあげられる。さらに、すでに仮契約の段階まで進んでいてもその国のワールドカップ本番での1次リーグの会場が韓国に決定してしまったケース、さらに、日本であってもその自治体から遠く離れた場所に試合会場が決定してしまったケースもある。これらの場合、費用や施設は十分であっても、もう一度最初から別の国との交渉に取りかかるには他の自治体に先を越されているため不利になることもあった。また一カ国に絞って交渉を行ってきた自治体もあり、この場合断念するほかはなかった。この他に、交渉のパイプ役である代理人や監督が途中で解任されてしまいうまくいかなかったケースもある。監督が変わることによって代理人の発言権の強さも変わってくるのだ。また実際に交渉を進めてきた結果決裂となってしまう大きな要因の一つに費用の面で折り合いがつかないことがあげられる。富士吉田市と河口湖町の場合これら二つの事情が誘致失敗の主な原因だったのではないかと思われる。また、カメルーン代表チームが富士吉田市に視察に来る前に交渉を行っていた新潟県新発田市がカメルーンチームの誘致をあきらめたのもやはり費用面での事情が原因だった。新発田市では代表チームの滞在費を地元のJ2リーグのチームとの親善試合での入場料で補う予定だったのだが、この試合の日程調整がつかず、結局費用を工面する手段がなくなり断念という結果になった。

3.カメルーン代表チームの実際の滞在について

カメルーン代表チームは来日が4日遅れたため事前キャンプ地であった大分県中津江村への到着も遅れることとなってしまった。富士吉田市と河口湖町へは予定通り来てくれるものかと思っていたが、体調調整を理由に2市町への到着も4日遅れるという事態になった。これを受けて、「河口湖町では急きょ協議会が開かれ、議員たちからは『契約違反だ』『弁護士と相談して対応を』といった怒りの声が続出し、また町長も『約束破りは子供の教育に良くない』と不快感を隠さなかった。歓迎行事を計画する市民グループは『選手の体調を理由にされるとつらい。中津江村の事情も頭をよぎって強く出にくい』と冷静だった」(毎日新聞2002529日東京朝刊より)といった反応があったようだ。契約の条件となっていた地元市民との交流は無事行われるのかということも心配された。だが、実際にキャンプが始まってみると選手たちは初日の歓迎会に参加し、中学生とのミニゲームを行い、養護学校を訪問、と市民との交流をしっかりと実現させてくれたようだ。市長も選手たちを見送った後、「限られた時間の中で予想以上の配慮をしていただき、当初の心配もすぐにふっ飛んだ」(毎日新聞2002年6月11日山梨版より)と話していた。

4.まとめ

今回この富士吉田市と河口湖町について調べてみようと思ったきっかけは、わたしの実家がこの2市町の隣に位置していてとても身近に感じたからという単純なものであった。だが、いざ詳しく見ていったら調べがいのある事柄が多く、そこから拡がってさまざまな疑問点が出てきたりして、たいへん興味深いものであった。キャンプ誘致断念のケースについて調べてみようと思ったのは、ナイジェリア誘致を寸前のところで他の自治体に持っていかれ、もうダメかと思ったところに転がり込んできたカメルーン誘致の契約成立がこれまた別な自治体の誘致断念の上に成り立っていたという点、さらに同じ誘致断念でも各々に事情が異なっているという点におもしろみを感じたからだ。実際に目を向けてみて、それぞれの自治体がさまざまな事情をかかえながら市町村やそこに住む人々の利益、想いを一番に考えながらその狭間で苦労していることを知った。初めは、各自治体が自分の市町村を世界や全国にアピールし、さらには経済効果を狙う目的が主だと思っていたが、それだけではなく、迎え入れる選手たちに心からくつろいでいってほしいと願う市民や、また市民に最高の思い出を残してやりたいと願う市町村長さんたちの想いもあるのだということを感じた。現実的な目で見ると、ワールドカップの出場国のキャンプ地となったからといって必ずしもその地域の名前が全国的に有名になるということはないだろう。そう考えたときに莫大な費用を出してわずかな間だけ誘致することにはなんの意味があるのだろうと思った。一つは経済効果を狙ってという点があるだろうが、それと同じくらいにやはり市民のためにという想いも大きいはずだ。市民のうれしそうな笑顔を見ることができたことが何よりも幸せだとコメントしている市長さんをテレビでみかけた。この言葉は市民のことを大切に思う市長さん、選手たちを温かく迎え入れた市民、そしてそれにこころよく応えてくれた選手たちがそろって初めて出てくる言葉だと感じた。

ただ、経済効果という側面から見ると少し悲しいこともあった。事前キャンプ地であった中津江村ばかりが有名になってしまったからだ。カメルーンチームが遅刻したことによりマスコミなどで大きく取り上げられ大騒ぎになったことが2市町のPRにつながったのでは、と言われているが、実際はそうでもないような気がするのはわたしだけではないだろう。人々に、カメルーンチームのキャンプ地はどこだったかと尋ねたら誰もが中津江村と答えるのではないだろうか。中津江村は現在にいたってもテレビで取り上げられるほど注目されていたのだ。さらに、ここへきて村民の方たちが応援のときにかぶっていたあの国旗をモチーフにした帽子や、「思い出のカメルーン 中津江村」という名前のついた酒が全国から注文が殺到するほど人気をはくしているようである。ここまで知名度の差がひらくと、仕方がないこととはいえ寂しさと悔しいという気持ちがないとは言いきれない。だが、もしカメルーンチームが遅刻をせず予定通りに来日し、無事日程をこなしていたらどうなっていたのだろうかと考えた。その場合の方がさらにPR効果は少なかったのではないだろうか。だからと言って遅刻をよいことだというつもりはない。ただ、キャンプ地になったことによる効果やメリットは、有名な強豪国のチームが来たこと、費用の面で莫大な金額を提供したこと、キャンプを行っていたチームがすばらしい成績を残したことなどとは、必ずしもつながってはいないということを感じた。この中津江村のできごとは特殊な例かもしれないが、何が起こるか分からないと言われるワールドカップと同様、そのキャンプ地に関してもまた、何が起こるか分からないものだということを実感した。今回、カメルーン代表チームのキャンプ地として中津江村の名前ばかりが全国的に知られるという結果になったが、カメルーン代表選手たちにとって、富士吉田市と河口湖町でキャンプを行った10日間が忘れられない思い出になってくれたらこれ以上うれしいことはないと思う。