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中村祐司「北京五輪大会をめぐる課題を中国は克服できるのか―新聞報道から読み取れること―」

 

 

1.1年1カ月後に迫った北京五輪大会

 

 1年1カ月後あまりに迫った北京五輪大会は経済面で急成長著しい中国にとって、国際社会における政治的な認知や国家威信の確立を達成するために、成功が至上命題ともいえる極めて重要なイベントと位置づけられている。東京五輪やソウル五輪がそうだったようにオリンピックの大会準備プロセスや大会終了後の上昇気流は、とくに成熟の途上にある国家にとって顕著なものがある。

 

一方で、モスクワ五輪やロサンゼルス五輪のような「片肺五輪」やミュンヘン五輪が直面したテロ事件など、五輪大会には主催都市が存在する国家のイデオロギーや内政問題、さらには開催国が抱える固有の対外関係や外交問題が影を落とす宿命にある。

 

本レポートでは、北京五輪大会をめぐるこうした影の側面に焦点を当てて、中国が現段階で直面している難題を日本の最近の新聞報道から把握・整理し、そこから読み取れる特質を指摘していくこととしたい。

 

 

2.環境問題(都市問題)の中心は大気汚染か

 

英国の水泳チームは、中国の大気汚染が選手に悪影響を与えることを懸念し、大会直前まで現地入りせず、大阪でぎりぎりまで最終調整を行うという。また、オーストラリア・オリンピック委員会も北京の大気汚染問題を懸念し、同国の選手に対し、競技直前まで北京入りしないようアドバイスしているという[1]

 

北京輪組織委員会も最優先課題について「環境問題」、とくに大気汚染に直結する排ガス規制を挙げている[2]。また、公害・環境汚染は「良い方向に向かうどころか悪化に拍車がかかって」いて、「五輪を控えた北京ですら、小雨が降ると自動車の車体が(工場などから排出された)ちりやほこりで泥まみれになっている」という指摘もある[3]

 

開発を底辺で支える存在が「農民工」(あるいは略して「民工」)である。農村からの都市への出稼ぎ労働者を指し、「安全対策が劣悪で、溶剤などによる毒物中毒、炭坑での塵肺、珪肺といった労働災害は後を絶たず、労働疾病による死者は毎年10万人を超える」といわれている。1958年に制定された中華人民共和国戸籍登録条例が人民を都市戸籍(現在約4億)と農村戸籍(約9億)に分けて統治し、これが今日に至っている根の深い問題である[4]

 

 

3.開発に伴い北京において顕在化する立ち退き問題

 

居住権問題に取り組むスイスの非営利組織(NPO)が、北京五輪に伴う立ち退きが約125万人に達するという報告を行った。これ対して中国外務省は「事実無根。02年以降、五輪会場の立ち退きは6073戸で、いずれも補償金が支払われ適切に転居している」と反論している[5]

 

中国では農地や家屋の強制収用が日常的に行われているとされ、北京市でも「五輪名目で土地や家屋を収用するケースが後を絶たず」、さらに「地方官僚が、中央政府の法律や政策を骨抜きにしてしまうことが多く、『中央の政策は中南海(共産党・政府所在地)を出ない』」と皮肉られるほどだという[6]

 

 

4.チベット五輪、台湾聖火ルート、香港への入場券割当てなどの問題

 

北京五輪に参加できないチベット亡命政府の支持者らが来年5月、8月に行われる北京五輪に先駆けて『チベット五輪』を開催する。大会は来年51525日、亡命政府がある北インドのダラムサラで行われる予定で、マラソンなどの陸上競技や競泳、射撃、アーチェリーを含む十種競技が実施され、チベット人部門(男女各15人)のほか、外国人部門も検討されている[7]

 

聖火ルートをめぐる火種もある。台湾オリンピック委員会は「一つの中国を印象づける宣伝になる」と台北から香港に抜けるルートの受け入れを拒否した[8]。あたかも中国の国内路線のような印象を与えるというのが台湾側の主張である。ルートについては、IOCが主導的に決めるのではなく、多分にスポンサーの世界市場戦略に沿って決定されるという背景もある[9]

 

馬術会場(開催地)となる香港ですら問題を抱えている。もともと北京五輪組織委員会が「競技用の馬が中国にはない伝染病を運ぶのが心配だ」として、検疫体制が整っている香港での開催をIOCに要求し実現した経緯がある。にもかかわらず、独立したオリンピック委員会を持つ香港は五輪の世界では中国と別扱いになるため、入場券販売で75%を占める「国内向け」に入れてもらえないという問題が生じている[10]

 

 

5.ダルフール問題とボイコット論

 

中国国家主席が北京五輪の開幕式にブッシュ米大統領を招待し、日本については中国首相が今年4月に訪日した際に、天皇陛下と皇族を五輪開幕式に招待したい旨を既に伝えてはいる[11]ものの、外交問題とも絡み難問となっているのがアフリカ・スーダンのダルフール問題である。

 

フランス大統領選の決戦投票に進出した社会党の女性候補であったロワイヤル氏は、スーダン西部ダルフールの人道危機問題に触れる中で、中国の外交姿勢を問題視し、北京五輪のボイコットもあり得るとの立場を表明した[12]。これに対して中国外務省は「いかなる口実、政治的理由であれ、五輪ボイコットは国際社会の願望に背く」と批判した[13]

 

米下院議会(定数435)やハリウッドの女優など、アメリカ発の対中非難が生じている。「ダルフールではスーダン政府と同政府に支援された民兵組織により民間人数十万(40万人)が虐殺されているが、中国はスーダン政府に巨額の援助を与え、武器を売却し、虐殺を阻止するための措置をとっていない」というものである。

 

ユニセフ親善大使でもあるミア・ファローは現地に足を運んだ経験をもとに、中国政府がスーダンの石油生産企業集団2つの最大株主となっていること、スーダン政府は中国との石油取引からの収入の80%以上をアラブ人の民兵組織「ジャンジャウィード」用の兵器購入にあてていること、同民兵組織やスーダン政府軍が使う兵器のほとんどが中国製であること、中国は米英両国が推進する国連平和維持軍のダルフール派遣に反対してきたこと、の4点を挙げ中国を強く非難している[14]

 

また、五輪開会、閉会式の芸術顧問を務めるスティーブン・スピルバーグ監督は、中国国家主席に書簡を送り、対スーダン政策を改めるよう求め、その影響かその後間もなく、スーダンのバシル大統領は国連平和維持活動部隊3000人の受け入れを認めたといわれている[15]

 

なお、日本の首相は既に「『政治とスポーツは別だと思う』と述べて、中国政府がいかに非人道的な行為に関与し、許容しても、2008年の北京オリンピックはボイコットすべきではない」と表明したという[16]

 

中国政府は「平和的で外交的なルートを通じて、ダルフール問題の解決を図るという一貫した立場を表明してきた。組織委(北京五輪組織委員会)としては、五輪と関係のない問題を五輪に結びつけようとする見方には断固、反対する」という立場を維持している[17]

 

 

6.ドーピング問題をめぐる中国固有の課題

 

 中国では1996年に北京が04年の五輪招致を断念した際に、ドーピング問題も理由の一つとされた。2000年のシドニー五輪直前にはドーピングが疑われた陸上の「馬軍団」ら27選手の出場が取り止めとなっている。01年に北京五輪開催が決定した際には、ドーピング対策に万全期すと明言し、04年には反ドーピング法が施行されたものの、06年には遼寧省靴山市の陸上競技学校で集団ドーピング事件が発覚している。

 

国家体育総局が主導するドーピング対策において、処罰の内容が強化され、違反があれば選手、コーチだけでなく選手が所属する競技団体や省、市の体育局トップの責任(最も重い処分は解職と共産党籍の剥奪)も問うこととなった[18]

 

北京五輪でドーピング検査にあたる係官は850人が必要とされ、北京市内の病院の医師や大学生ボランティアも動員される。中国ドーピングセンターには既に中国公安省や食品の成分などを管理する国家食品薬品監督管理局から相次いで検査品が持ち込まれているという。しかし、「漢方の伝統があるせいか、中国では薬への抵抗が昔から薄い」ともいわれている。「中国は禁止薬物の生産地だ。インターネットを通じて簡単に買える供給源と見なされている」「北京五輪の成功は、中国が効果的な反ドーピングの取り組みを講じるかどうかにかかる」という世界反ドーピング機関(WADA)による指摘すらなされている[19]

 

 

7.度を超したマナー問題?

 

日本の新幹線車両をベースにしたCRH2など高速列車の愛称は「和諧(調和)」号と銘打たれるものの、乗客による車内の備品持ち去りが後を絶たないといわれている。「手洗い場のセンサー式蛇口、手洗いや排水の備品が消え」、「トイレットペーパーに緊急脱出用のハンマー、便座の温度調節用つまみ、トイレットペーパーホルダーの軸など」の持ち去りが相次いでいて、「センサー式蛇口のように持ち去っても何に使うのか想像もつかないもの」も含まれ、さらには「座席の物入れ網が破かれたり、トイレで喫煙したり、通風孔へのごみ投入、緊急用ボタンへのいたずら、トイレの水を流さない、など悪質なマナー違反」も目立つという[20]

 

もちろん、マナー違反は中国に限ったことではないだろうし、あくまでも中国の一部の人々による行為なのだろう。しかし、その度合いのすさまじさには国家的急成長のひずみがそのまま現れているような思いすら抱いてしまう。

 

 以上のような検討から現時点で読み取れる視点を課題領域ごとに以下の6つを挙げたい。

 

第1に、競技場への交通アクセスの整備や観戦客の観光行動がスムーズになされるための利便性の向上、さらには快適な宿泊施設などと環境問題とはまさにコインの表と裏の関係にある。人間生活の常として便利さや快適さを求める中国内外の人々が、たとえ期間限定ではあっても大量・急激に発生すること自体、必然的に「緑の五輪」とは乖離してしまう形で、環境への多大な負荷がかからざるを得ない。

 

要するに北京五輪をめぐる環境対策と都市再開発は二律背反・相殺の関係にあるのであり、「足し算」の論理ではなく、両者の調和・調整のプロセスの着地点を個々の施策毎にどこに見出すのかという「引き算」の論理で捉える必要があるのではないだろうか。この点、組織委や中国・北京政府がとくに環境対策面でのリップサービスに従事し続けるようだと、今後、アメリカや環境NPOなどの外部アクターから思わぬ反撃が展開されるかもしれない。

 

また、「北京の地図は日ごとに変わる。前にそこに何があったか思い出せないほどだ」[21]といわれるすさまじい前代未聞の急激な首都開発を支えている主要層としての民工が置かれている劣悪な労働「環境」が開催前の火種となる危うさも抱えている。

 

2に、開発をめぐる土地の強制収容や立ち退き問題については、中国の土地問題を私有財産保護一辺倒で論じるだけでは、解決の糸口は見えないようにも思われる。市場経済を取り入れた社会主義国家における土地所管をめぐる住民と政府との権利関係については今後の研究の課題として、ここでは中国に限らず、五輪の開催や国際的な大規模スポーツ大会の開催そのものが招致段階の時点から多かれ少なかれこうした性格を有していることに留意しておきたい。

 

例えば、先述したスイスのNPO「居住権・立ち退き問題センター」が国連人間居住センターや各国の大学と協力して行った調査(1988年のソウル大会から2012年開催予定のロンドン大会)によれば、「会場建設に伴う住宅の取り壊しや『都市美化』のためのホームレス排除などで住んでいた場所を追い出された」立ち退き人口はソウル大会(88)72万人、アトランタ大会(96)では黒人や貧困層約3万人、アテネ大会(04)ではロマ人約2,700人となっている[22]

 

立ち退き問題の放置は主催者側の開催をめぐる制御能力への疑問・非難に直結するだけに、できるだけ水面下で難題を一掃してしまおうという誘因が働きやすい類のものである。これについても環境対応と利便性の向上とのバランス問題と類似の性格を有しており、都市問題そのものでもある。

 

3に、台湾をめぐる聖火ルート問題、チベット五輪問題、香港への入場券割当て問題など中国北京五輪の運営そのものが、同国が抱える政治問題と直結せざるを得ないことが分かる。聖火リレーの台北通過をめぐって、中国が台湾を省の一つとして見なす考えを補強することになるとの台湾側の懸念は、中台問題の凝縮形ないしは余波そのものではないだろうか。

 

また、仮にチベット五輪に賛同しないまでもこれを非難するには値しないとする諸国が多数派となれば、IOCや中国政府の立場はオリンピックそのものが多数国協力で成り立っているだけに、中国の対チベット政策のスタンス変更を迫ることになるようにも思われる。さらに、中国―香港の微妙な関係が入場券割当て問題に投影されているのである。このように北京五輪は中国が歴史的に抱える難題にどう向き合っていくのかを迫る性格を持っている。

 

4に、そのような意味でダルフール問題をめぐる政治とスポーツとの分離論には説得力がない。ただし、エネルギー資源をめぐる国家間の争奪戦において、後発の中国が自らの権益を拡大することのできる外国地域が限られていることも事実である。ダルフール問題は倫理的・道義的に許されない世界の悲劇であるのは間違いない。しかし、米下院のようにこれを定点的に取り上げて中国政府を批判する一方では解決の方向性はますます遠ざかるのではないだろうか。各々の国家権益との絡みでイラクをはじめとする中東諸国やアフリカ諸国へ米国、欧州諸国、そして日本といった先進諸国が従来のどのように関わってきて、今後どのような関係性を築くべきかを論じることの方が先決問題なのではないだろうか。

 

5に、ドーピング問題についてはこれを中国政府の直面する固有の課題として捉える見方と五輪参加国すべてに突きつけられた課題として捉える見方とを峻別しなければいけない。前者については中国のドーピング問題のこれまでの推移から明らかなように、中央政府レベル(北京五輪組織委員会)と現場レベル(選手・コーチなど)との指示・命令系統が寸断されていることである。これは巨大国家ゆえの宿命とでもいえようが、トップダウン式の対策がどの程度まで浸透可能なのか、第一線における検査システムの担い手が持つ裁量の大きさも考えると、ある意味で国際的な外交問題よりも不透明で先の読めない難しい政策課題であるかもしれない。

 

6に、倫理やマナーの上からの押しつけが開催前や開催期間中における「カムフラージュ」として効果を発揮するのは間違いないであろう。果たして大会終了後にその反動が吹き出てしまうのか、あるいは最初は他律的な圧力であろうとも、内面的にも大きな倫理的転換が終了後も一本筋の通った形で存続するようになるのであろうか。前者の場合でも社会的基盤の動揺には至らないであろうものの、後者がかなりの程度コミュニティ社会レベルに浸透するのであれば、その後の発展がさらに加速する上での基底的要因になるのではないかと思われる。

 



[1]  2007518日付産経新聞「北京五輪 敵は大気汚染」。

[2]  2007620日付産経新聞「『環境対策』最大の“敵” 排ガス規制、天然ガス車積極導入」。

[3]  200765日付毎日新聞「国益離れ 地球的視点を ハイリゲンダムサミット 識者に聞くD」。

[4]  2007618日付産経新聞「一筆多論 北京五輪と『民工』の犠牲」。

[5]  200767日付朝日新聞「北京五輪 125万人が立ち退き』 NPO調べ 中国側『事実無根』」。

[6]  2007430日付下野新聞(共同通信)「腐敗官僚に民衆の怒り」。

[7]  2007530日付産経新聞「来年5月『チベット五輪』!? 『北京』締め出しで対抗 五輪マーク無断使用」。

[8]  2007428日付朝日新聞「五輪聖火ルート 中国『合意済み』 台湾受け入れ拒否」。

[9]  200751日付下野新聞「論説 五輪聖火リレー問題」。

[10]  200755日付朝日新聞「入場券割当て香港『海外』扱い 北京五輪 馬術会場なのに・・・・」。

[11]  2007512日付毎日新聞「中国、北京五輪に米大統領を招待 香港紙報道」

[12] 2007427日付下野新聞(共同通信)「五輪ボイコット可能性排除せず ロワイヤル氏」。

[13] 07428日付朝日新聞「中国けん制狙い五輪不参加言及 ダルフール問題 ロワイヤル氏」。

[14] 2007511日付産経新聞「五輪ボイコット警告 『中国はダルフール虐殺を支援』 米下院108人」。同日付下野新聞「紛争解決怠れば『北京五輪失敗』 米下院議員が警告」。

[15] 200767日付読売新聞「世界の論調 米ロサンゼルス・タイムズ紙 虐殺黙認の中国 五輪に汚点も」。

[16] 200769日付産経新聞「経度 経度 平和五輪に虐殺の影」。

[17] 前掲産経新聞「『環境対策』最大の“敵” 排ガス規制、天然ガス車積極導入」。

[18] 200761日付朝日新聞「五輪と中国 ドーピング 厳罰化でイメージアップ」。

[19] 200762日付朝日新聞「五輪と中国 ドーピング 『対策不足』海外なお懸念」。

[20] 2007521日付下野新聞(共同通信)「中国新幹線 マナーぼろぼろ」。

[21] 2007625日付下野新聞「熱烈歓迎へ首都大改造 北京五輪 準備急ピッチ」。

[22] 前掲朝日新聞「北京五輪 125万人が立ち退き』 NPO調べ 中国側『事実無根』」。