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中村祐司「東日本震災後の避難所運営の先進事例」

 

 

1.東日本大震災と避難所対応

 

 東日本大震災前の「平時」においては所与の前提として問われることのなかった様々な政策領域での危機的な「災時・災後」の諸課題、すなわち、被災地における行政機能やコミュニティ機能の喪失、避難所・仮設住宅の設置、雇用や企業活動の再開、復興計画の策定と実施、原発事故・放射線拡散・風評被害対策、多文化共生のあり方[1]などが問われている。

 

こうした山積する諸課題のうち、地域社会・コミュニティレベルにおける避難所対応[2]に焦点を当て、とくに震災後の未曾有の混乱のなかで、住民・行政・企業・NPO・団体間の連携・協力を実践し、A県内における避難所運営(マネジメント)の先進事例といえる二つの事例に注目したい。関係者とのインタビュを通じて、それぞれの活動内容を紹介し、そこから読み取れる大規模災害非常時の際の組織マネジメントの課題や要諦はとは果たして何なのか、浮き彫りにしていきたい。

 

 

2.住民発案による避難所運営―A団体による被災者支援―

 

 A団体はA市の内外で活動するボランティア、NPO関係者による「ネットワーカー集団」[3]として、2006年に立ち上げられた。A団体は2011年3月18日から43日間にわたって、総合体育館とコミュニティセンターにおいて、福島県からの避難者支援を行った(同年4月30日に退所式)。A市総合体育館では、福島県飯舘村から、3月19日に314人、20日に198人の計512人の集団避難者を受け入れ、コミュニティセンターには、104人の自主避難者を受け入れ、自然体験交流センターにも一時、避難所が開設された。 県内最大の避難所となった総合体育館では、市防災クラブ、地区、市社会福祉協議会を窓口に集まったボランティアが支援活動を行った。市総務課防災対策室は、市内への避難者に県災害対策本部への登録を呼びかけた[4]。A団体メンバーとのインタビュ[5]にもとづき、一市民あるいは一ボランティアの目線から、当初の避難所運営が一市民にはどのように映り、メンバーがそれをどのように変えていったのかをまとめた。

 

今回の震災に直面し、社会福祉協議会からの情報を得て、すぐに総合体育館に行った。ところが、情報の混乱のなかで現場の動きはないに等しかった。そこで行政、社協、そして自分がボランティア協議会の事務局に急遽入ることになった。市では災害対策本部に初めて「民」が入ったことになる。まずは避難者のニーズ把握を行った。避難者は飯舘村の人々がほとんどで、20班編成でやってきた(他の自治体からの避難者は2班)。そこで、班長に集まってもらい、今、困っていること、今、必要なことを聞いた。このような対応は行政にまかせていてはできなかった。家具・インテリアショップ店が敷き布団と掛け布団を避難者全員分、無償で届けてくれ大変助かった。避難所閉鎖の際には100ほど布団が余ったが、行政は消却処分にするという。行政や社協は他の組織とのネットワークがなく、ボランティア団体間で被災地に布団を届けようとしたが、これに対して行政は、公的組織間のやり取りではないので認められないという対応だった。結局、社協の「善意銀行」が資金を出し、トラックを出すことになり、相馬市に布団を届けることができた。

 

避難所では班長を通じた伝達や指示が有効に機能していた。ほとんどが飯舘村からの避難者であったので、非常にまとまりを感じた。避難者にとってプライバシーを守るのは難しく、支援者が避難所にどんどん入ってくることに困っていた。そこで、「居住区」と名付け、「居住区に勝手に入ってこられると困る」状況をつくった。行政と社協の対応は何でもマニュアル依存といった感じで、非常にもどかしかった。もっと臨機応変に対応してほしかった。「規則」だとか「決まり」だとかに固執せず、その場に応じた判断をしてほしかったと思う。ただ、行政の力で炊事場を作ってもらったのは大きかった。避難所という「箱物」事態を事前に用意できるのも行政の力である。その意味では行政に対して批判ばかりするのではなく、「うまくつきあっていく」ことが非常に大切なのであろう。

 

 

3.B市B地区の協働実践

 

2011年3月15日以降、同年4月30日の避難所閉鎖に至るまでの、B地区における避難所運営について、B地区市民センター所長とのインタビュ[6]をもとに、以下のようにまとめた。

 

3月15日に避難所を開設するために、体育館利用者、まちづくり協議会役員、自治会役員、地元選出の市議会議員に急遽説明する機会を持った。その際、県内NPO法人のメンバーから、とにかく「温かい食事、温かい布団、温かい風呂」を提供するようアドバイスを受けた。ところが、食料はアルファ米とクラッカーのみ、毛布も温熱シートぐらいしかなく、ましてや寝床と風呂は対応しようがなかった。3月16日午前にまちづくり協議会役員と協議し、義援金、米・食材の寄付、炊き出し等の支援を地区として行っていくことを決めた。同時にNPOのメンバーが地元ラジオを通じて布団の寄付と市内外の畳業者に畳の寄付を要請し、午後には布団の寄付が始まった。また、まちづくり協議会役員が、地元スポーツクラブに掛け合って、避難者への浴室無料開放の承諾を得た。

 

3月18日には企業から食料、雑貨、ガソリンなどの寄付が始まった。そして、3月下旬になると、ボランティアによる炊き出しを受けつつ、避難者による炊き出しも始まった。また、NPOのメンバーが東京都内の建築事務所と折衝し、紙パイプ組み立て式のパーティションが寄付された。3月下旬に組み立てを試し、4月初旬に組み立てた。この効果は大きく、避難者には最低限のプライバシーが確保され、大変喜ばれた。3月末には避難者数は約100人にまで減少した。米が非常に余ったため、地元に戻る人には持って帰ってもらった。地区内にある民間のフィットネスクラブの協力により風呂を利用できたことも大きかった。避難者の数は減少し続け、4月上旬には約70人、同中旬から下旬には40人となり、同30日の避難所閉鎖に至った次第である。3月中は避難所にやってくる個々の関係者の話を聞く時間もなかなか持てないほどで、順番待ちしてもらうような状況であった。とにかく、散髪や差し入れなどいろんな話が次々に舞い込んできた。

 

避難所運営では仕事を分けることを考えた。すなわち、「行政にできることと、できないこと」、「すぐやらなければならないことと、延ばせること」の仕分けである。また、「行政としてやってはいけないこと」以外はやろうというスタンスで臨んだ[7]。風呂がないなど避難所としての機能が備わっていない点と、今回のような事態にシステムとしての運営や対応ができていないという点が重要な課題であると感じた。運営の裁量権を現場に与える。そのためには課長や地区市民センター長などの管理職が現場に張り付かなければいけない。そして、地区としての地域の支援が大きかった。民間事業者によるその他の協力は、地区内にあるリサイクルショップによる電子レンジ、冷蔵庫、電気ポット、洋服などの寄付であった。地区内のスーパーマーケットは不足しがちな肉とビタミン含有の食料を提供してくれた。地区外のボランタリー組織と接して感じたのは、避難者は病人ではないので、日常生活での作業的なものは避難者自身で行うようもっていった方がいいということである。また、居心地をよくするためには、良い意味での遠慮のない関係を築くことが大切である。

 

 

4.東日本大震災後の協働・ガバナンスの視点

 

 第1に、二つの事例とも、震災後約1カ月半という期間において、これまで考えられなかったような、その意味でまさに想定外・未曾有の対応が迫られた災害対策であった。第2に、避難所では、平時におけるのと同様の協働をめぐる諸課題に直面した。二つの事例は平時の協働実践の積み重ねこそが、間違いなく災時の事態にもその応用が効いたことを示している。第3に、摩擦すなわち、既存の管轄組織への異議申し立てなどを経た、組織対応の変更がなければ、事態を動かすことはできないという政策上の教訓が明らかになった。第4に、避難者も含め避難所運営に関わるあらゆる関係者[8]が、何らかの形で避難所運営の貢献者にならなければいけないということである。第5に、ヒト・モノ・カネ、さらにはネットワーク構築能力といった組織資源の発揮と直結する形で、各セクターの状況把握、判断、立案、決定、調整、実行・実施、評価・フィードバッグといった個々の資源力(リソースパワー)には、あたかもジクソーパズルの個々のパーツのような違いや濃淡のあることが浮き彫りになった。

 

 



[1] 東日本大震災と多文化共生とは決して無関係ではない。多文化共生に関するある講演(筆者参加)で、A氏は、とくに大震災以降は、被災地域の未来をつくっていく上で国籍を気にしてはいられない状況になっている。震災対応において復興が進んでいる被災地の多くは多文化共生を進めている。被災地で外から人を入れないで自分たちでやろうとしているところの多くは、行き詰まりみせている。多文化共生は地域の継続のためにやらなければいけないし、被災地において復興活動が継続しているところは、例外なく「ヒト」と「資源(とくにカネ)」がしっかりしている、と述べている。

[2] A県災害対策本部のまとめによると、2012年1月10日現在で、福島県などから県への避難者は増加傾向にあり、2,557人に上っている(各市町への登録者のみ)。県内のホテル、旅館など(1次・2次避難所)からは11年末までに全員が退去し、公営住宅や民間借り上げ住宅などへの転居がほぼ完了している。特別養護老人ホームや病院・診療所には240人が避難している(下野新聞「県内避難者2500人超 震災10カ月」)。

[3] A市HP「かぬま市民活動サポーターズ」(2012年1月現在)。

http://www.chiiki-dukuri-hyakka.or.jp/cgi-bin/profile/data.cgi?number=5421

[4] A市秘書課広報広聴係『広報』(2011年5月号、3-4頁)より。

[5] 2012年1月15日におけるA団体のメンバーとのインタビュによる。避難所の閉鎖後、市内で避難生活を続ける人々が2011年9月に会を結成したが、サポーターズは会の人々を対象に、月1回の定例会を開催している。

[6] 2012年1月18日におけるB氏(B市B地区市民センター所長)とのインタビュおよびB氏作成資料による。B氏は、地域住民、NPO、企業、生涯学習団体、学校による各々の支援内容を以下のように類型化している。<地域住民>⇒食料・雑貨・衣料品・義援金・図書館等の寄付、炊き出し、アパート無償貸与(罹病者隔離)、入浴支援(送迎付き)、洗濯支援、送迎支援、離乳食提供、労力提供(片付け)、娯楽提供(茶道、生け花等)。<NPO>⇒運営ノウハウの提供、布団・畳み・パーティションの確保、学習支援、入浴車等。<企業>⇒テレビ・インターネット機・電話・新聞・食料・雑貨・パーティション・ガソリン・入浴の提供、娯楽提供(サッカー教室、紅茶サービス、楽器演奏、漫才等)、マッサージ、散髪、ネイルアート等。<生涯学習団体>⇒娯楽提供(紙芝居、健康体操、ヨガ等)、炊き出し等。<学校>⇒吹奏楽演奏、労力提供、ストーブ・食器等の貸し出し、就学支援等(B氏作成の資料による)。 

[7] 2011年11月12日の日本地方自治学会(福島県会津若松で開催。筆者参加)における共通論題「震災復興と地方自治」において、立谷秀清氏(福島県相馬市長)は、避難所として800人を収容した体育館・教室の運営において、人々の健康管理を最重要視するなかで、「今すぐやる対応と長期的な対応とに分けた」と発言している。この点、B氏の指摘と共通するものがある。

[8] 関係組織には中間支援組織も含まれる。中間支援組織は地域コミュニティ間の情報や活動をつなぐ結節点であり、県域や県外の広域的活動展開の結節点となる重要なコーディネーター組織である。大震災後の中間支援組織が果たす役割や、緩やかな県内広域連携組織の機能・課題・可能性などをめぐる検討・検証は今後の重要な研究課題の一つである。