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中村祐司「スポーツ立国戦略のあるべき姿とは」

 

 

1.アジア大会惨敗の余波

 

201011月の広州アジア大会で日本が獲得した金メダルは48個で、中国の199個、韓国の76個に遠く及ばなかった。その結果に対する新聞報道は概して、国を挙げてメダル量産を目指す中国、韓国、そして台頭著しいインド(金メダル獲得数は14)との比較から、日本に対して厳しい論調に終始したように思われる。

 

たとえば、味の素ナショナルトレーニングセンターについて、施設使用料の3分の1を選手側が自己負担しなければならないことや、陸上男子400bリレーなど文科省のマルチサポート事業の対象(「ターゲット競技」)になったにもかかわらず、その結果は期待外れであったとする指摘があった。

 

政府側の反省もあったのだろう。2011年度予算案において文科省のスポーツ関連予算は、過去最高の228億円に上り、とりわけ「トップアスリートの育成・強化のための予算」である「国際競技力の向上」に156億円が盛り込まれた(「地域スポーツの振興」には20億円)。

 

その主な内訳は「マルチサポートを通じたトップアスリートの育成・強化」(22億円)、国立スポーツ科学センターの機能強化(8億円)、日本オリンピック委員会への補助金(26億円)、国体開催事業(3.8億円)、となっている[1]。文科省が、2012年ロンドン五輪大会前年の強化年である2011年を「スポーツ立国戦略元年」と捉え、「国が責任を持ってトップアスリートを強化するという意志表示」[2]を行った形だ(なお、ここでは「トップアスリート」と「エリートスポーツ選手」を同義語として取り扱う)。

 

 

2.地域を拠点とする指導者が支えたエリートスポーツ選手

 

しかし、獲得メダルの数とは別の次元に目を向けると日本の場合、注目すべきエリートスポーツ選手育成方法も見えてくる。現にアジア大会でも陸上女子短距離、そしてサッカー男女やバレーボール男子など団体競技は大健闘した。その他にも柔道男女や男子体操など、「世界と戦える競技の幅は着実に広がり、頂点を目指せるアスリートの数は増えている」[3]ともいえる。その基盤は、学校体育経由ではなく、フィギュアスケートなどに典型的なように、「地域を拠点に世界を見据えてジュニア世代からの育成に地道に取り組む」[4]指導者なのであろう。

 

こうした下位上達式(底上げ)の育成と、JOC(日本オリンピック委員会)による素質あるジュニア選手を対象とした中高一貫のエリート教育である上位下達式の「エリート教育」とが交錯してくれば、地域レベルと中央レベルでの育成システムのベクトルが合致・連携し、世界で活躍する選手を輩出する一貫システムになり得るかもしれない。ただし、それが草の根レベルに面的な広がりをみせるためには、全国約3,000の総合型地域スポーツクラブの運営をめぐる金銭的課題がクリアされることが条件となる。

 

 

3.スポーツ立国戦略に長期的視点を

 

ところで英国では、UKスポーツ(1997年設立)がエリートスポーツを強化する機関の中心であり、国営宝くじの収益と国費を財源に「毎年1億ポンド(120億円)」を選手強化に投資するようになり、今日に至っている[5]。日本のこれからのスポーツ政策は、行政改革やエージェンシー改革においてモデルとした英国のメダル獲得戦略に追随するのであろうか。

 

しかし、西側諸国が1980年モスクワ五輪大会のボイコットをめぐり揺れ続けたなかで、政府の圧力によってボイコットに従わざるを得なかったJOCとは異なり、英国ではオリンピック委員会(BOA)が、選手自らの判断でモスクワに出場する決定をしたという歴史経験がある。当時、国民からの寄付は80万ポンド(当時約4億円)に達した。その背景にはまさに「自由主義の伝統と英国民のオリンピックやスポーツへの理解」[6]があったのである。

 

その意味ではここ30年間のみならずそれ以前の年月も含めた間、日本におけるスポーツガバナンス(統治)におけるJOCや日本体育協会が統括するスポーツ競技団体の自立・自律力や、寄付行為や金銭負担をめぐる国民の「スポーツ理解力」は、ここ30年間、いやそれ以上にわたって脆弱なままだといえるのではないだろうか。加えて、こうしたスポーツ団体や国民のスポーツ基盤が心許ないなかで、果たしてエリートスポーツ選手の養成を上位下達で被せるように実施していくことに、「国が責任」を持つべきなのであろうか。そこにスポーツ立国をめぐる長期的・普遍的な視覚や展望があるようには到底思われない。

 

 

4.活動の拠点となる既存スポーツ施設の有効活用を

 

小学校施設が住民にとっては「最も身近なスポーツ施設」であることは間違いない。とくに基礎自治体は、既存の学校・スポーツ施設の有効活用に重点を置くべきである。

 

もちろん、スポーツを好まず、関連の施設設置に拒絶反応を示す「緑地派」もいるだろう。そのような人々にとって、スポーツ施設は「迷惑施設」そのものとなる。したがって、スポーツ活動の範疇をレクリエーションや交流、子どもの遊び場、文化的イベントの場といった具合に徐々に広げていったらどうであろうか。基礎自治体は「スポーツ施設関連マップ」などのバージョンアップ版を作成し、そこを拠点とする参加型の事業を積み重ねていくことで、当該施設が住民に嫌われない工夫を打ち出してはどうであろうか。そして多くの自治体が「スポーツのまちづくり基本計画」の策定に踏み出してほしい。

 

また、各地方に存在するようになった地域密着型のプロスポーツチームは、当該地域のスポーツ環境イメージをがらりと変え、「見るスポーツ」も含めて多世代にわたるスポーツ愛着家を生み出す起爆剤となり得る。企業ではなく地域がプロスポーツを支える構図である。

 

要するにスポーツ立国戦略は勇ましい国策ではなく、草の根レベルでの日々の実践活動を積み重ねた、その延長上に明確になるべきだと考える。大切なのは、住民・スポーツ競技団体間や愛好者団体間での協力、プロスポーツチームの参入や存在感の浸透、大学を含めた学校の支援、地方自治体による支援や整備、企業によるスポンサー支援、そして行政やプロスポーツチームとの「ウィン・ウィン」の関係構築などであろう。地域力を生かした形でのガバナンスと広域・国家レベルでのそれとのバランスおよぶ相乗効果を生み出せるかどうか。この点にこそスポーツ立国戦略の要諦があるように思われる。

 

 



[1] 20101225日付読売新聞「トップ育成費 手厚く 11年度スポーツ関連予算」。

[2] 同。

[3] 201111日付日本経済新聞「跳べニッポン人 競技力 地域が支える」。

[4] 同。

[5] 20101225日付毎日新聞「政治と共存図る英国 五輪ボイコット30年」。

[6] 同。