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中村祐司「新時代における自治体職員の役割」

 

 20099月の民主党政権発足を境に、「地方分権」に代わって「地域主権」という用語が新聞紙上等で登場する機会が増えている。自治体職員から見て政権交代後の自らの役割をどのように再確認し再設定すればよいのかについて考察したい。

 

 まず、決して厭世論や悲観論に陥るわけではないものの、政権交代により一気に地域主権が進む訳ではないことを認識しておかなければならない。地方交付税改革の場合、減額を望む地方自治体は皆無といってよいだろうし、補助金の削減は所管する中央省庁の激しい抵抗に直面する。全国知事会の見解にしても財政状況をめぐる都道府県格差は著しい。市町村間についても同様である。さらには権限移譲をめぐる都道府県と市町村の関係も一筋縄ではいかない。政府(各大臣間)にしても自治体間にしても地域主権が各論に入れば入るほど、その行程は山あり谷ありなのである。

 

 それ以外にも中央政府内と地方政府内の同一政策領域の担当部局が歩調を合わせて、企画財政や総合政策といった首長部局に対抗するケースもある(教育政策の改変をめぐる首長部局と教育委員会・文科省との対立など)。

 

 加えて1993年以降における分権型社会の趨勢において、今日に至るまで団体自治の面での進捗はともかく、住民自治の面では自治基本条例の制定や市町村合併をめぐる住民投票の実施などの実践的積み重ねはあるものの、まだまだ道半ばの段階に過ぎない。

 

 要するに地域主権はまだ緒についたばかりなのである。それではこのまま絵に描いた餅で終わってしまうのであろうか。いや、そうであるからこそ、そしてだからこそ自治体職員の役割が今こそクローズアップされなければならないと考える。

 

 いくら新政権が地域主権を政策の「一丁目一番地」に掲げているからといっても、マニフェストの達成をめぐり直面したところの財源の壁、既存の制度システムの壁、さらには価値観の壁が顕在化する中で、国内外の状況は雇用問題にせよ外交問題にせよ山積しており、予想がつかない流動性やスピーディな状況変化に対応していかなければならないというのが冷徹な現実である。

 

 こうした中、政府は弱々しく頼りにならず、「だからダメなんだ」式の論調に賛同する空気(=政府の失敗)もかなり出てきている。しかし、歴史的な時系列で眺めるならば、明治国家以来100年以上も続き、ある意味では国内地域の隅々にまで浸透するに至った集権的システムが、ある時(たとえば20099月の政権交代)を境に一気に分権システムに取って代わるといったことはあり得ない。Jリーグの「100年構想」とまではいわないにしても、十数年ないしは数十年のスパンで見据えなければならない。

 

 集権か分権(地域主権)かではなく、地域主権国家に至る道程では、過渡期としての集権と分権の混沌・混合状況を避けることはできない。こう考えるならば、あくまでも建設的・積極的な評価として地域主権の萌芽を捉えるべきであり、その不徹底や貫徹性のなさ、さらには実行段階での後退や試行錯誤に対して、安易に「地域主権の失敗」とラベル付けして良いのであろうか。

 

 そうではなく、民主党政権が国家の役割の半分は対外政策に注ぐべきだとして、都道府県領域であれ市町村領域であれ、国内地域の固有課題は当該地域自らが解決していくべきだとする「旗印」を最上位に掲げたこと自体に大きな意義がある。

 

 このような見方が正鵠を得るならば、地域主権をめぐる難題や道筋の不透明さ、さらには機能不全や抵抗の噴出は当然なのであり、「純粋培養環境」の不徹底さや不十分さを、自治体職員こそが想定内の現象として受け止めるべきである。その意味で政府は「当てにならない」存在である(ただし批判的な評価という意味では決してない。以下も同様な意味合いでこの言葉を用いる)。

 

 最も大切なのは、さらに一歩踏み込んだ行動を自治体職員が果たして取れるかどうかである。政府が地域主権をめぐる環境醸成はともかく、担い手として「当てにならない」存在であるとすれば、その真の担い手は地方自治体を置いて他にはない。

 

常にアマチュアがプロと比べて劣位にあると決めつけることはできないものの、住民のほとんどはアマチュアである。そして、住民の関心や行動のほとんどが一点突破的であるがゆえに「当てにならない」存在である。企業は利害追求を第一義的に捉える(地元企業の撤退例を見れば夕張市との違いは明瞭)がゆえに、やはり「当てにならない」存在である。NPOや住民団体についてもそのほとんどが個別政策領域での貢献に限られるがゆえに、「当てにならない」存在である。いかに協働が叫ばれようとも、実質的には自治体職員こそが公共サービスをめぐるプロフェッショナルな担い手のコアに位置するのである。

 

 自治体職員がどのような行政実務領域に従事していようとも、各々の労働価値に貴賤がある訳がない。すべての行政実務は、住民生活の安寧と社会の秩序、さらには生きがいの獲得や幸福の追求に直結している。大切なのは行政実務に対する個々の自治体職員の向き合い方そのものではないだろうか。倦怠や惰性の対象として向き合うのか、目の前にある個々の課題の解決を通じて、当該地域社会固有の価値の再発見や誇りを見出そうとするのか。この実務に対する向き合い方こそが、当該行政実務の浮沈の鍵を握る。仕事の中身をやりがいのあるものとして引き継いで生成させ、次に引き渡していくのか、退屈に消化させるに過ぎない事業として停滞させ、次に押しつけていくのか。

 

地域主権をめぐる真の転換点を迎えた今こそ、一般職であろうと専門職であろうと首長の下で総合行政を支えている自治体職員こそが、その気概を示し胆力を発揮していくと決意しなければならない。高尚な理念を外に向かって振りかざす必要はない。内に秘めた熱い思いを持ちながら、実直に日々の実務に取り組んでいくならば、自治体の先導役としての行政組織は目に見えて変わってくるはずである。自治体行政の仕事ほど愚痴が際限なく続くものはないし、幸福の追求という理念が住民生活に浸透するものはない。地域主権を実際に一つ一つ積み上げていく主役は自治体職員なのである。

 

たとえ、行政組織の階層構造における意思決定の壁に失望しても、それを日常的な実務に取り組むエネルギーの減退に結びつけるのはもう止めよう。諫言がはね返されても、公共サービスを支える誇りを持ち続けよう。議会の構成者に対しては、選挙という洗礼(住民意思の具現化)4年に1度を受けている点に敬意を払いつつも、政策をめぐる是々非々の立場で堂々と対応しよう。万人受けする行政の事業はあり得ない。対住民サービスに戦々恐々とせず、事業の透明性を維持しつつ最善と信じる裁量行為を発揮すればよい。