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中村祐司「北京五輪と新市場の開発」
はじめに
北京五輪は中国、とくに北京の既存市場にどのような影響を及ばしたのであろうか。五輪が都市の主催で開催されるということは、ハード面・ソフト面において開催に伴う様々な波及効果が目に見える形で顕在化することであろう。それらはインフラや環境整備であったり、雇用の創出であったり、ひいては新しい市場の開発であったりといった類のものなのだろう。
そこで、この小論では網羅・包括的なデータの羅列ではなく、五輪開催が北京の変容にどのような効果を及ぼしたのか、その事例をインタビュ取材も含めて提示した上で、こうした検討作業から見えてきたところの北京五輪をめぐる市場開発の特徴を指摘したい。
1.労働集約型産業から技術集約型へ?
中国はこれまで国外から運び込まれた部材を豊富な労働力によって加工・組立する世界の「組立工場」であったといわれる。とくに製造業において「労働集約型産業」から「技術集約型産業」への移行期にあるとみられるものの、熟練工や技術者は不足している、という指摘がある[1]。とくに沿岸部の発展地域では技術集約型産業の展開が顕著であるという見方もある。昨夏、北京市に滞在した経験から、北京のような大都市の場合には労働集約と技術集約が混在しているという印象を受けた。
2.北京五輪の予算
北京市報道官は、北京五輪に関する支出について、ハード面以外の五輪予算は20億ドル強(約2,160億円)、五輪会場建設・拡張の予算が130億元(約2050億円)程度、7年間(01年から07年まで)の北京都市インフラ建設費が2800億元(約4兆4100億円)との見積もりを示した。
ハード面以外の五輪予算について、当初試算と比べ10倍ぐらいには膨れ上がっていることが認められた。会場建設費用(130億元)については、国家体育場(愛称”鳥の巣”)がそのうちの約4分の1を占めるとされた。当初38億元の予算だった”鳥の巣”は建設費用の節約機運が高まり、結局31億元程度の建設費用になった[2]。
3.北京における産業構造の健全化
手放しで北京五輪の効用を強調する姿勢もある。北京市発展改革委員会の見立てによれば、五輪開催がインフラ整備、消費増加、対外開放や国際協力の推進、一般市民に利益をもたらしたとする。北京市の経済規模は7年間(01―07年)で倍増し、年平均伸び率は12.4%に達し、一人当たりGDPは3,262ドルから7,654ドルまで増え、08年には8,000ドル超となる見込みで、さらに7年間で都市部住民の一人当たりの可処分所得は年平均10%以上の伸びを見せている、といった具合である。
また、北京の産業構造はさらに健全化したとし、サービス業の増加がGDPの7割以上を占めた一方で、北京は積極的にグリーンオリンピックの理念を貫き、省エネや廃棄物削減に力を入れ、著しい成果を収めたと自画自賛している。07年現在で、1万元当たりのGDPに対するエネルギー消費量は06年に比べ6ポイント減少し、総合エネルギーの消費量は全国の最低レベルまで下がった。また、電力や天然ガスなどがエネルギー消費に占める割合は6割を超えたと指摘された[3]。
4.北京五輪開催のポジティブ波及効果
北京五輪開催の好影響を真正面から捉えようとする考察もある。中国市場戦略研究所代表は、「開催国にこれほど影響を与え、ここまで世界中の注目を集めるオリンピックはかつてなかった」と位置づける。この7年間で、煙を出す工場は北京市内からほとんど姿を消し、計7本の地下鉄新線が開通し、バスやタクシーも天然ガス燃料を使うようになったと述べた。
08年3月に開業した北京空港新ターミナルは世界一の大きさ(総面積806平方キロメートル、地下2階地上3階建て)で、8月に開業したアジア最大規模といわれる北京南駅もアジア最大規模である。この新北京駅から時速300キロで走る中国初の高速鉄道に乗れば、30分で隣の天津港に到着するとした上で、「北京から太平洋までの距離が一気に縮まった」と記述する。また、北京市周辺には11の衛星都市ができつつあり、2020年には1,800万人の北京市民のうち、500万人がこうした衛星都市に分散していくと見なした。
五輪のためのインフラ建設の相当部分は、環境改善に注ぎ込まれたとし、7年間に北京の緑地面積は51%増えた。北京では全長290キロに及ぶ河川改修が行われ、9カ所の汚水処理工場が建設された。これによって市内の汚水処理比率は92%になり、ごみの埋め立てや燃焼工場も整備され、都心部のゴミ無害化処理率は99.9%まで向上した、と指摘する。
さらに、北京市民の所得向上についても言及し、02年から07年の間、北京市民の1人当たり所得水準は年平均11.5%伸び、07年に北京市民の可処分所得は21,989元になったこと、所得増と並行してマイカー所有率も伸び、自動車保有台数が330万台を超え車の排気による空気汚染が大きな問題となっていること、の2点を挙げた[4]。
5.電化商品会社と北京五輪―インタビュ取材から―
中国における電化商品はまさに「ピンキリ」であり、A会社の製品は価格競争では勝負できない。ちなみに中国では消費税が17%、関税がAV関連は30%もかかる。そこでターゲットをお金持ち(富裕層)に絞った。普通、百貨店はあくまでも売るスペースを提供するものだが、ここは敢えて「何も売らないスペース」を提供している。北京には「有象無象」の百貨店がある中で、「基本的生活+α」の快適さを求める客を対象に絞っている。
A会社はいわゆる「白物」といわれる洗濯機、冷蔵庫、エアコン、電子レンジなどを主力製品としており、「安心・安全・快適」を柱としているので、派手な販売戦略を打ち出せない困難さがある。これを基盤にある程度の生活水準以上を求める客層をターゲットにしている。本来、生活するだけであれば安いものでよいはずだが、それ以上を求める客層をターゲットにしている。
北京五輪においてA会社は放送機器を導入している。これはレンタルもあれば売り付けもある。正直、レンタルの場合、使用後に引き取ってもまた売りにくく、価格を下げて販売する状況にある。アストロビジョンという大型のプロジェクターや監視カメラなどを提供している。アストロビジョンは某広告会社が購入し、この広告会社が無償で設置する形態を取った。広告会社はその代わりに球場が使用されていない際にアストロビジョンを一回転させ、球場外に向けた巨大な広告等として利用し、そのおかげでこの広告会社の製品売り上げが飛躍的に伸びた。
A会社は2016年までオリンピックのスポンサー権利を持っている。自らが「降りない」限り他社は参入できないしくみとなっている。A会社の社員30万人のうち9万人が中国人である。天安門事件当時、北京市内にある日系会社が皆引き上げた際でも、北京市郊外にブラウン管テレビ加工のための炉の工場を持っていたA会社のみが操業を続けた。この行為が中国政府から高く評価された。時の指導者は「19世紀はヨーロッパの時代、20世紀はアメリカの時代、21世紀は日本と中国の時代」と述べ、A会社を重視してくれた。
今、世界の有望市場の大きな見取り図を描くとすれば、欧州、米国、中国、BRICS+ベトナム(8,000万人の人口だが労働力の点で有望)ではないか。北京五輪終了後は「いつまでもオリンピックを引きずってもしょうがない」ので、展示の中身は変更する。北京五輪会場は欧州地域ぐらいには達する規模を考えると、「北京オリンピック」というよりは「中国オリンピック」と呼ぶのがふさわしいのではないか[5]。
おわりに
限定された情報源から五輪開催をめぐり、北京における産業構造の変化や波及効果についての断定的な結論を導くことはできない。しかし、取り上げた情報資料が、五輪がもたらした北京市場開発の一面の変容を照射しているのは間違いない。北京開催が決定した01年からの7,8年間で、もし五輪が開催されなかったならあり得なかったような急速な変化が生じたのである。
インフラに限らず、開発が進めばその後には集住人口や校外・サテライト人口の増加現象を招き、それがさらに北京都市圏の産業・人口の集密度を押し上げて行く。北京五輪はこうした現代世界都市の趨勢に拍車をかける役割を果たしたことになる。また、電化製品会社の新たな市場戦略に見られたように、生活の「量」の豊かさよりも「質」の豊かさを求める「富裕住民層」とも呼ぶべき人々をターゲットとした新市場の開拓が進められている。
さらに北京五輪は既に終了したものの、その「遺産」や「痕跡」は北京市内の至るところに残された。それらをどう生かし維持・発展させていくかという課題もまた残されたままなのである。北京五輪大会の終焉が北京市の終焉ではない。その意味では今後取り組むべき北京五輪研究は極めて多岐にわたるといえよう。
[1] 「談談 中国潮流 第8回・産業構造と人材のマッチング」2008年7月15日付BIZ第49号。
[2] http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2008&d=0804&f=business_0804_017.shtml
中国情報局「4200億円?5兆円?北京五輪にいくらかかったか」(2008年8月現在)。
[3] http://2008.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2008&d=0803&f=national_0803_022.shtml
中国情報局「北京五輪:北京市政府、五輪は北京の発展を加速」(2008年8月現在)。
[4] http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/xu.cfm?i=20080805c7000c7&p=1
日本経済新聞「北京五輪にかける中国人の思い・それをつかむ企業」中国市場戦略研究所代表徐向東(2008年8月現在)。
[5] 中国・北京において事業展開し、北京五輪の展示場を百貨店内に設置していた日本の家電会社(A会社)へのインタビュ取材(2008年7月下旬)から。