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田島慎也「長野オリンピック開催までの真実」

 

1.はじめに

 

1998年第18回冬季オリンピックが長野県にて開催された。日本で行われたオリンピックとしては、東京・札幌に次いで3回目であった。自分の住んでいる土地で行われるオリンピックということもあり、日本中が、とりわけ長野市近郊では盛大な盛り上がりを見せ、街中のいたるところにオリンピックの雰囲気が散りばめられていた。住民たちは「長野にたくさんの人が来てくれる」「長野が活性化する」「長野の魅力を伝える事ができる」と考え、オリンピックの開催に胸を躍らせていた。そして、日本人選手の活躍もあり、長野オリンピックは大歓声に包まれ幕を閉じた。しかし、その裏側では、オリンピック開催に至るまで、さまざまな騒動・問題を抱えていた。そこには、住民たちが知る由もない、さまざまな利権・思惑が入り混じった真実が存在していた。果たして、オリンピックは何のために、誰の手によって行われたのだろうか。

 

2.巨額をつぎ込んだ招致・接待活動

 

「長野でオリンピックをやろう。」初めてそれを提案したのは、1985年、地元新聞社の記者たちだった。彼らの提案に県議会・市議会が同意し、オリンピックへの道が動き出した。そこから、オリンピック開催地獲得への大招致キャンペーンが始まった。しかし、この段階では、住民に知らされることはほとんどなく、役人主導により、水面下で進められていった。に関わらず、公式な発表があった際には「県民の総意」というスローガンが掲げられ、住民の間には、疑問を口にできない雰囲気が広がっていった。

 

長野が国内選考を突破した裏には、さまざまな根回しが存在していた。西部グループの堤義明氏を通じて、JOC委員に働きかけていたのだ。堤氏は、長野のスキー場開発を狙ってオリンピックへの賛同に乗り出したのである。ここにも、オリンピック商業主義が垣間見える。何としてもオリンピックを長野に、という招致活動はさらにエスカレートしていく。

 

国内選考を勝ち取った後は、IOC委員への周到な根回しが行われた。視察に訪れたIOC委員の旅費・宿泊費を負担し、接待の宴会を一流ホテルや旅館で行い、さらには京都・大阪への観光ツアーも組み込んだ、というほど過剰なまでの待遇を施した。「勝ちたいなら金を使え」の言葉どおり、招致活動にどんどん経費をつぎ込んでいった。招致にかかった費用は約20億円と言われている。

 

きわめつけは、イギリスのバーミンガムで行われたIOC総会での「丸抱え提案」である。長野は、開催地を獲得すべく、ライバルのソルトレークシティを引き離すため、「全選手団の交通費・宿泊費・食費を全て負担する」と、直前に文章に付けたし、プレゼンテーションしたのである。結果、僅差でソルトレークシティを振り切り、オリンピック開催地は長野に決定した。

 

しかし、この提案は正しかったのだろうか。長野オリンピックに参加する70ヶ国以上の選手団の、全ての交通費・宿泊費・食費を負担するなんて、そんな資金があるのだろうか。開会式の入場風景を見ていたが、日本の選手団でも100~200人ほどいた覚えがある。それを、全選手団分負担するなんて、考えるだけでおかしい話である。

 

住民は、「開催地、長野に決定」の知らせを聞いて喜んだ。自分の街で世界一を決める競技大会が開かれるのだ。こんなに楽しみなことはないだろう。しかし、その裏で「費用を丸抱え」するなどという話がでているなど、思いもしなかっただろう。そこまでして、長野で開催する意味はあるのか?と疑問に思う人もいるだろう。長野オリンピックへの招致は、住民の知らないところで巨額の金が動いていたのである。

 

3.役人主導によるオリンピック

 

長野でのオリンピック開催が決まると、長野オリンピック冬季競技大会組織委員会(NAOC)が設立された。だが、この組織は、県庁からの出向者が多く、重要ポストのほとんどが県職員によって独占されていた。そのため、県知事の意向が反映されやすく、NAOCは、県庁の出先機関の一つみたいな立場になっていた。その結果、NAOCは仕事のやり方が県庁の流儀になっていった。県庁方式とは、上意下達で硬直しており、柔軟に対応できず、事なかれ主義の人間が多く活気に欠けていた。そのため、NAOCは「官僚的で融通が利かない」という評判も流れていた。

 

そんな県庁方式のNAOCには、いろんな方面から不満が寄せられていた。柔軟さにかけるNAOCは外部の意見をあまり受け入れられずに、アイスホッケー連盟など、その道の専門家である競技団体などと衝突することがあった。また、ボランティアの人たちに対する説明不足、見下したような発言・対応なども見られた。はじめはボランティア活動に興味を示さなかったのに、住民が自主的に始めたボランティア活動が話題になると、手のひらを返したように、各地域に担当を割り振り、ボランティア活動を強制させようとする動きも見られた。本来、ボランティア活動は自主的にやるものであって、強制されてやるものではない。

 

「意見を聞いてくれない」「手のひらを返し、次はそれを押し付ける」「上から見た物言いをする」など、NAOCへの不満は増していき、住民たちとの間に距離ができてしまった。

 

長野オリンピックは、招致の段階から、住民との接点が少なかった。充分な住民への説明もなく、施設の建設場所などについても議論が起きた。自然保護団体や地元住民たちが、競技施設やホテル建設による自然破壊を反対する活動が始まったのである。しかし、その頃には、長野での開催のめどが立っており、反対意見を聞き入れられる時間はなかった。もし、招致の初期段階で住民説明が行われていたら、その時点で変更を検討することもできただろう。彼らにとっては、やりきれない思いを抱えたままオリンピックを迎えることになってしまったのである。

 

オリンピックを成功させるためには、主催者である都市側と地域住民が一体となり、理解し合わなければならない。だが、長野オリンピックにおいては、住民は置いてきぼりにされたような状況であった。

 

4.増え続ける経費とオリンピック商業主義

 

オリンピックを運営するためには、大量の資金が必要である。先ほど、招致活動に多額の資金が運用されたと言ったが、まだまだ莫大な資金がオリンピック運営のために動いていく。

 

長野オリンピックは当初「簡素でクリーンなオリンピック」を目指していた。しかし、豪華な新施設建設、不慣れから来る見込み違い、能力不足による混乱などにより、初期の見積り額よりどんどん増加していった。

 

1988年、一番初めの見積もりでは、収入・支出共に約400億円だった。しかし、支出額が増加の一途をたどり、91年には約670億円に引き上げられ、96年にはさらに約945億円に、そして翌973月には1030億円に増額され、とうとう1000億の大台を突破してしまった。NAOCは次第に財政難になっていき、IOC総会での「丸抱え提案」も撤回することとなった。招致後に競技種目が増えたことや物価が上がったことなども要因としてあげられるだろうが、それ以上に、NAOC組織員や県職員らが「オリンピックだから」と、業務をナアナアで済ませてしまい、見積もりや計画をしっかり立てずにやってきた結果がこれだろう。もしこのまま赤字で終わってしまったら、多大な借金が残ってしまう。その借金を返すために市民に増税をしていたのでは、元も子もない。何のためのオリンピックなのだろうか。

 

「オリンピックをすれば儲かる」というイメージが世の中に浸透している。しかし、長野オリンピックにより長野県が財政的に潤ったとはとても思えない。では、オリンピックで儲かっているのは一体誰なのであろうか。それは、IOCである。

 

1980年、サマランチ氏がIO会長に就任して以来、彼はオリンピック商業主義を徹底させた。「TOPThe Olympic Partner)スポンサー制度」と呼ばれる、独自のシステムを作り上げた。これは、企業がオリンピックのマークやマスコットを使用できる権利を得る代わりに、IOCに多額の協賛金を送らなければならないという制度である。さらに、IOCは、テレビ放映権料の40%をもらうという契約をNAOCと結んでいる。そして、大会運営費は開催国(都市)のオリンピック委員会が負担するが、IOCは運営費を負担しないのである。そう、オリンピックを開催して一番儲かるのは、間違いなくJOCなのである。

 

「オリンピックの開催都市になれば儲かる」というのは、もはや幻想である。IOCの支配する商業主義に長野は飲み込まれてしまったのだろうか。

 

5.まとめ

 

長野オリンピックの目的は、「長野を活性化させよう」「長野の魅力を世界に伝えよう」というところから始まったはずである。それを一番願っていたのは、長野に住む住民たちである。オリンピックは、住民たちの意志に基づき、住民たちの意見も取り入れ、一体となって進めていくべきだと思う。しかし、過剰なまでの招致・接待行動、頭の固い役人主導のオリンピック運営、当初の2倍以上までに膨れ上がった経費、IOCの商業主義などは、住民の思い描いていたオリンピックとはかけ離れていたものだった。住民の手を離れたところで進んでいくオリンピックより、住民それぞれが自ら何らかの形で関われるオリンピックの方が、大きな意味があるはずである。そのための住民との接点が少なすぎたように思われる。早い段階での住民への説明会、質問や反対意見の討論会やシンポジウムの実施、ボランティアや各種団体の要望を受け入れやすい体制、しっかりした見積もりと予算案の公表などが課題としてあげられるだろう。

 

いつしか本来の目的を忘れ、「オリンピックを開くこと」が目的になってしまったようにも思えてくる。住民が望んでいないオリンピック、「やらなければよかった」と思われるオリンピックにならによう、住民との対話は不可欠である。

 

参考文献

   相川俊英『長野オリンピック騒動記』(草思社,1998