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倉井宏章「医療崩壊の現状―日本の医療に未来はあるのか―」

 

 私がこの問題をテーマに設定したのは、私の住む下野市にある自治医科大学が地域医療への貢献を方針として掲げていることから、現在問題とされている日本の医療崩壊を、地方が抱える医療問題という観点から探ろうと考えたからである。そして、この問題を調べるまでむしろ、医療問題といわれているものは地方の限られた地域のみが抱えている問題ではないのかという認識さえ持っていた。しかし、調べ始めてすぐにその認識が誤りであったことに気づかされた。医療崩壊の現状は相当深刻で、医療はもはや地方、都市を問わず全国規模でまさに「崩壊」しているのである。

 

2006年に奈良で妊婦が病院をたらい回しにされた挙句に死亡するという痛ましい事故が起きた。そのことを発端として、救急医療における患者のたらい回しが度々報道されるようになり、大きな社会問題となっている。この問題は、医療体制を整えない病院、患者の受け入れを拒否した医師に責任があるように捉われるかもしれないが、そもそもの原因は「医師不足」という現代の日本が抱える最も大きな医療問題にあるのである。受け入れる体制を整えるだけの医師が確保できない状態で受け入れることは重大な医療ミスを起こしかねない上に他の患者を危険に晒すことにもなりかねない。患者を受け入れないことが無責任なのではなく、十分な医療が提供できない状態で受け入れることが無責任なのである。医師不足が日常化した状態では、このような事態の発生は必然だったと言えるのかもしれない。

 

では、なぜ医師不足という事態に陥ってしまったのだろうか。そもそも、厚生労働省は

一貫して医師は足りている、むしろ将来医師供給は過剰になる時代が来るという姿勢をとってきた。そのため、1984年から段階的に医学部の入学定員の削減を行ってきた。しかし、それは昭和23年における病院の適正な人員配置基準に照らし合わせて計算されてきたからである。当時と今では医療機器や技術、主要な病気など、医療というもの自体が全く異なるものになっているため、必要な医師数も当然異なるはずなのである。そのため、理論上必要とされる医師数が現実に必要としている医師数よりも少なく見積もられてきたのである。また、一連の医師数削減政策の背景には、膨れ上がる医療費を削減するためには医師を減らす必要があるという短絡的とも言える方針が政府にあったようである。結局、厚生労働省は2006年になって突然、医師が9000人程不足していると言い出した。しかし、実態としては、医師は数万人単位で不足している。対策として、政府は20068月に、全国11の大学に医学部定員を10名ずつ増やすことを認めたが、20年近くかけて削減してきた人員をすぐに確保することは不可能である。まして、人命を扱う医師の養成となれば、質を落とさないようにするためにも、徒に定員を増やすことはできない。そして、2004年から始まった新研修制度はそのようにして生じた医師不足、特に地方における医師不足を加速させることになった。かつては、教授を頂点とする医局が医学部の卒業生の人事権を握ってきたため、僻地の病院にも若手医師が派遣されてきた。しかし、新研修制度の導入によって、卒業生は医局に縛られずに自由に研修先を選べるようになった。その結果、都市の総合病院へ研修医が集中することになり、地方の医師不足が深刻化したのである。

 

 医師不足は政策、制度だけでなく様々な要素によって助長されている。医師の中で特に不足しているのは産婦人科医、小児科医、麻酔科医である。そして、それらに共通しているのは、訴訟リスクが高いということである。2006年、福島県の病院で、帝王切開の手術中に妊婦が出血多量で死亡し、産婦人科医が業務上過失致死で逮捕されるという事件が起きた。この事件に対しては不当逮捕ではないかという意見も多いが、休む暇もない程の激務の中で、懸命に治療したにも拘らず逮捕されたり起訴されたりすることは医師にとっては耐え難いことである。そのような環境では、医師がやめ、志望者が減るもの当然のことなのである。また、病院に勤める医師の場合、夜間病院に泊まって救急外来に対応する「当直勤務」や、自宅に待機して呼び出しがあればすぐに病院に向かえる状態でなければならない「オンコール」がある。これらは、正規の労働とは見なされない上に、通常勤務に続いて課せられることも多く、連続30時間以上の勤務を強いられることもある。この過酷な労働条件が過労によるうつ病や自殺の温床になっているのである。

 

 さらに、「インフォームド・コンセント」や「セカンド・オピニオン」という言葉が普及してきたことからもわかるように、患者がより充実した医療を求めるようになってきている。もちろん、患者としてよりよい医療を求めることは当然のことだが、治療に当たってのより詳しい説明や別の医師に診察を求めることは医師への負担を増加させることは確かである。

 

 このような多くの要素によって引き起こされる医師の労働環境の悪化は新たな問題を生んでいる。それが、「開業医」と「アルバイト医師」の増加である。過酷な労働環境によって自殺に追い込まれたり過労死したりする前に病院を辞め、開業医として独立するというケースが増えている。開業医の増加によって医師の絶対数は不足しているものの、開業医自体は飽和状態にある。また、体を壊す前に病院を辞めても、独立して開業せずに、アルバイト医師という形で働くケースも増えている。アルバイト医師というのは、病院の常勤医として働くのではなく、外科手術の麻酔や健康診断などの医療行為を一日単位で行い、それを週に何度か行うことで収入を得るという形の労働形態である。もちろん、病院の常勤医を辞めること自体が医師不足を加速させ、他の常勤医への負担を増加させていることも確かだが、医師不足である以上、非常勤という形であれ、病院からの需要が多いことも確かなのである。そして、驚くべきはその相場である。健康診断でも数万円、外科手術の麻酔となると1回で1020万円もの報酬が出る。これを週に数回やるだけで、年収2000万円以上稼ぐこともできるのである。一方で、病院で休みなく死に物狂いで働いてもそれ以下の収入しか得られない医師もいる。病院で常勤医として働くことが自分の身を削ることにもなりかねず、その苦労が報われないような今の状況では、医師の病院離れが進むことは当然である。

 

 アルバイト医師の増加はまた、深刻な問題を引き起こしかねない。外科手術の麻酔のアルバイトなどでは、麻酔医は麻酔を終えるとそのまま帰るということがある。アルバイト医師による他の医療行為も1日限り、その場限りで、その後の経過は常勤医任せということがあるだろう。病人を扱う以上、何が起きてもおかしくはない。その中で、その場、その日限りとも言える医療行為を行うことは責任の所在を不明確にする恐れがある。また、医療が高度化していく中で、医師間での患者の情報の共有がより重要になってくる。アルバイト医師が増加すると、その都度情報をその医師に伝達する必要性が出てくる。患者にとって担当医師が頻繁に変わることは決して好ましいことではないし、情報の伝達の問題も含めて医師が変わることは少なからず医療ミスのリスクを高めることにもつながりかねない。

 

 こうした医師不足は医療現場だけではなく、病院経営にも影響を与えている。特に公立病院の経営は危機的状況にある。地元の栃木県から小山市民病院と佐野市民病院を例に挙げて見てみたい。小山市が運営している小山市民病院では、市の決算概要を見る限り、平成13年度には約60億円あった病院の収益的収入(入院、外来収入)が平成16年度の約50億円まで毎年数億円単位で減少してきた。そして、平成15年度から18年度まで連続して赤字経営を強いられてきている。財政状況を見るだけでも苦しい状況にあることは見て取れるが、同病院では麻酔医師不足も深刻な問題である。現在、小山市民病院に常勤の麻酔医が一人もいないため、手術を行う際には自治医科大学などから麻酔医を派遣してもらっている状態なのである。さらに深刻なのは佐野市民病院である。佐野市が運営する同病院は、平成9年度に29人いた常勤医が平成19年度には2人にまで減ってしまった。また、経営赤字の補填のための補助金は平成16年からの3年間で約34億円にもなる。しかしながら、同病院は地域に必要であり、再生すべきとの見方から、佐野市は「指定管理者制度」の導入を決め、佐野市民病院は民営化されることとなった。今後、どのように再生されるかが注目される。

 

 医師不足が引き起こしたこうした医療崩壊の現状は多くの人にとってはまだ対岸の火事にすぎないかもしれない。しかし、日本の医療が崩壊しつつあることは紛れもない事実である。そして、現在政府が採ろうとしている診療報酬0.38%引き上げのような表面的な政策では医師不足は解決されないことは明白である。医師不足はその性質上、すぐに解決できるものではないが、政府はそのような気休め程度の政策ではなく、開業医の総合病院等で診療することを斡旋するなど、現実に即した出来る限りの政策を行っていく必要がある。多くの人は日本にいれば最先端の充実した医療を受けられるものだという認識を持っている。今でこそそうであっても、今後そのような医療を受けられる保障はどこにもない。むしろ、このままいけばいつか必ずどこかで襤褸が出てくる。すでにそれは、患者のたらい回しや医師の過労死という形で表面化してきているが、それらはまだ氷山の一角にすぎない。今後どのような形で問題になるかはわからないが、アルバイト医師の問題を含めて、医療崩壊の現状とこれから起こりうる医療問題に対して認識を深めることは必要なことである。国民の生命に関わる最も重要な問題であるからこそ、一人ひとりがより厳しい認識を持ってこの問題を見ていかなければならないのである。

 

参考文献

永田宏 2007年「貧乏人は医者にかかるな! 医師不足が招く医療崩壊」集英社新書

 

中央公論一月号「特集 医療崩壊の行方」

      櫻井よしこ「医療の惨状は国のあり方そのものだ」

      川渕孝一「医療費抑制が病院を殺す」

      若手医師匿名座談会「患者のみなさん、まずはあきらめてください」

      菊池正憲「搾取される常勤医を救え」

 

読売新聞 2007/12/13「「当直」違法状態 回数超過、手当不払い」

     2007/12/19「診療報酬上げ決定」

     2008/1/12「公立病院財政難で民営化選択」

 

「予算の執行状況・決算概要」小山市ホームページ

(http://www.city.oyama.tochigi.jp/cgi-bin/odb-get.exe?WIT_template=AC020000&WIT_oid=icityv2::Contents::7622)

「小山市議会会議録検索」小山市ホームページ

(http://www.kaigiroku.net/kensaku/oyama/oyama.html)