070115Watanabemi

 

渡辺南「田村市の現状と将来について」

 

 私の故郷である常葉町は、平成17年3月1日に近隣の7町村のうち、大越町・小野町・船引町・都路村の4町村と合併し田村市となった。現在、日本各地で市町村合併が行われているが、自分のふるさとが合併したことにより、地域の広域化がどれほどの効果をもたらすのか、本当に行政改革に役立つのかということを現実のものとして疑問に感じた。特に財政面の改善や観光にどのような影響があるのだろうか。田村市と合併をしなかった2町の三春町・小野町とを比較して考えていきたいと思う。

 

 常葉町は現在人口6,325人である。そのほとんどが中高年者であり、若者の人口は減少していっている。そのため福祉事業に携わる人材が不足状態であり、また福祉援助金の負担が大きくなる一方で負担すべき人間が減少している状況である。そのため公的な援助金に頼ることが多いが、近年の国家政策により援助金の削減が行われ、財政がさらに厳しい状況となった。赤字続きで町独自での財政策の限界を感じ、合併に踏み切った。他の4町村も存続のために合併に同意した。

 

 「新市建設計画」によると、合併の効果として見込まれるものとして以下のものが挙げられている。

 

@     住民の便利性の向上

A     サービスの高度化・多様化

B     重点的な投資による基盤設備の推進

C     地域づくり・町づくりと施策の展開

D     行財政の効率化

E     地域のイメージアップと統合的な活力の強化

 

これらはこの先10年間の計画にm基づくものであり、事実合併した町村の主な就職先が船引町であることから、住民の便利性や地域づくりの展開、住民の統合的な活力が市としてまとめられることで活発になる可能性がある。しかし、これらの中には矛盾や曖昧なものが多く含まれている。

 

例えば、サービスの多様化を目指す一方で、行財政の効率化で人員削減を掲げる。確かに今まで各町村で行われていた管理部門や組織が統合されることで人員削減になり、専門分野への配置も行いやすくなるのかもしれない。しかし長い期間で考えたときに、人員削減がサービスの限定につながるのではないだろうか。また、専門員だけで組織することで、広い範囲でのサービスの展開や新たな可能性を潰してしまっている。

 

また、至る箇所に‘広域的な’という単語が多く見受けられたが、広域的な部分に手をつける前に、地域づくり・町づくりいう点でも、各町村での体系をまとめることが必要であると思う。各町村で活力を養ってから、市として統合していくのだ。基盤設備の推進のための有効な援助金の投資にもつながるだろう。地域づくりで重点を置かれるのが観光である。

 

田村市の観光スポットには、ラベンダー園や鍾乳洞がみられるあぶくま洞や桜の名所、カブトムシ館、日本百景に選ばれた鎌倉岳など豊富な自然を活かした様々な場所がある。しかし、地元の人間でも知らないような場所が多く、宣伝力が欠けている。そこで、町村にわたって通っている国道を活かすべきだと思う。田村市には国道288号、349号、399号が通っており、その道路沿いにわかりやすい案内板をおく。また、駅からかなり離れている場所が多いので、送迎バスや季節ごとのツアーを組むなど、町全体で観光地として取り組んでいかなければならないのではないだろうか。シソジュース・シソアイスやあぶくまの天然水など変わった特産品をもっと一般的に売り出すなど、地域の特性をアピールしていく方法を町全体で行い、市の活性化に活かせないだろうか。

 

では、合併の同意しなかった2町(三春町・小野町)は今後そのまま単独で生き残り続けるのか。田村市の今後の拡大の可能性について考えてみた。

 

三春町も小野町も、他の合併した町と変わらず地方交付税や扶助金などの依存財源にたよっている。そのため、膨大な公債費を抱えているが、政策の見直しなどによりその額は年々減少されている。

 

三春町では、福祉法人施設の経費を扶助金によってまかなうのではなく、特別会計へまわすことで扶助金の削減に成功し、また町の整備も行われているので観光事業も活発である。

 

小野町では行政組織の見直しにより12課の部署を7課にし、また建設事業や地方交付税の利用見直し、福祉事業人員の削減によって人件費や無駄な出費を抑えたことで、黒字収支である。

 

しかし、どちらの町も高齢化が進んでいることは田村市の町村と変わらない。今後、福祉事業はますます需要があがるだろう。そのための支援金も必要となるであろうし、負担は増すと思われる。そのため、やはり合併ということになるだろう。

 

今後、市町村合併はあらゆる町で避けられないものとなる。こういった状況の中で、各市町村の特性をいかに活かしていくのかということが、求められていくのではないだろうか。また、共存していくためには必要なことだと思う。