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相馬敦「那須野ヶ原の開拓史とその背景」

 

私の地元は栃木県北部の那須塩原市といい、那須塩原市は“那須野ヶ原”と呼ばれる地域の大部分を占めている。那須塩原市自体は大した特徴もない平凡な市であるが、那須野ヶ原という地域は大規模な開拓の歴史と、日本3大疎水に数えられる那須疎水を有しているという稀な地域である。それを起源としているのか、地元では小学校の社会科の授業で当時の資料を見たり、遠足などで開拓の跡を見たりする。だが現状を見ると私を含め若い世代、また親の世代でさえその歴史の一片しか知らないのではないだろうか?今回のレポートでは開拓の歴史・そしてその背景を通じて“地元を見直す”事の必要性を考えてみたい。

 

そもそも那須野ヶ原と言うのはどういった土地なのか。調べた所、那須野が原という地名は塩原町の白倉山を源流とする箒川と、那須町の那須岳を源流とする那珂川に囲まれた面積4万平方メートルに及ぶ扇状地帯の事をいい、市町村で言うと200511日に合併して出来た那須塩原市(塩原町・西那須野町・黒磯市)と大田原町の範囲がそれに当たるのだそうだ。

 

那須塩原市HPで歴史を抜き出すと、「806年、如葛仙により塩原町の元湯で温泉が発見された」にはじまり、現在の“那須巻き狩り祭”の元となった「1193年、源頼朝が那須野ケ原大規模な巻狩を行う」や、13941427の応永年間に記された茶臼岳の大規模な噴火、1783年の那須地方大飢饉。といったもの以外あまり目を惹くものがない様に開拓以前の歴史が非常に乏しい。それは元々扇状地であるこの土地の特性として、冷たく強い風が吹く事。礫層が非常に厚く、地表面の土の層が極端に薄い事。それにより雨水や川などの浸透性が著しく、伏流水となってしまう上に土壌が貧しい。という過酷な土地のために、あまり人が住まなかった事が原因なのだろう。実際に昔は那須野が原は藩の狩猟場や、近くの住民の草刈場として使われる程度の土地だったらしい。

その面影は今でも所々で見られ、土を掘れば1m程度で石や砂利でスコップが通らなくなるのもザラであるし、古くからある大半の家には山から吹く風を防ぐ防風林のヒノキか杉が植えてある。また私の家の近くを通る蛇尾川などはある程度の雨が降らない限り水が流れる事はなく、住宅の少ない所まで行くと、見渡す限り岩と砂利と雑木しか見えないような荒涼とした場所もあれば、冬の風が吹けば砂嵐が起きる乾ききった広大なトウモロコシ畑も見られ、開拓以前はこれ以上に荒れた風景がひたすら続いていたのかと想像すると大規模な開拓をしなければまともに人が住めないと容易に推測できる。

 

だが考えてみて欲しい。先ほどから「開拓、開拓」と連呼しているが、水も土壌もないこのような土地では大規模な農地開墾を始めるのは並大抵の事でないのだ。最大の問題は農地を作るだけの水がない事である。川には水がなく、井戸を掘ろうにも、礫層のおかげで掘れる場所は限られる。それに水がすぐ浸透してしまうこの土地では井戸の水程度では十分でないのだ。農地を作るためにはまず大量の水を引く必要があり、それが那須疎水の建造につながる事となった。

 

那須野ヶ原開拓の先駆けとなった那須疎水は“福島県の安積疏水、京都府の琵琶湖疏水、栃木県の那須疎水”と日本3大疎水に数えられる規模の大きい疎水だ。建設時の疏水本幹は16.3kmで現在は幹線用水路27.7km+支線用水路305.2qの計332.9kmの長さと4300haの受益面積を誇る。

 

那須疎水は、当時計画されていた那珂川〜鬼怒川間の総延長45kmを運河で結び会津・那須・東京の間の水運を確保するという大運河構想の頓挫の折に、三島通庸の尽力と地元有志である印南丈作・矢板武らが伊藤博文・松方正義に疎水の建設を嘆願した事を発端としている。工事は当時の土木局予算の10分の1に当たる10万円の事業費を投入した国の土木局直轄工事として行われ、那須疏水本幹16km1日に110m、工事期間約5ヶ月という短期間で疎水は建設された。

 

那須疎水が建設される以前から三島通庸「肇耕社」・印南丈作・矢板武の「那須開墾社」など農場は存在したが、那須疎水の着工と同時に那須野ヶ原開拓を押し進めた大農場が多く現れ始める。松方正義が那須開墾社を譲り受けて作った「松方農場=現千本松牧場」・大山巌と西郷従道の「加治屋開墾場」・青木周蔵の「青木農場」、戸田氏共の「戸田農場」・毛利元敏の「毛利農場」などだ。この顔ぶれを調べてみると、

・松方正義は2度の首相経験と日本銀行の創始者。

・大山巌は西郷隆盛の従弟で、松方内閣の陸相を務めた。

・西郷従道は西郷隆盛の弟で、松方内閣の海相を務めた。

青木周蔵は松方内閣の外相を務めた。

・戸田氏共は美濃国大垣藩の元藩主で廃藩置県後、伯爵になる。

・毛利元敏は長戸長府藩の元藩主で廃藩置県後、生い立ちの問題があったものの子爵となった。

など松方内閣の大臣や、廃藩置県後により藩主の座を降りた人間が多い。また、薩摩藩出身者が多いとも言える。

 

なにやら胡散臭い匂いがしないだろうか・・・。まとめると、那須疎水が完成以前、印南丈作・矢板武・三島通庸は農場を持っていた。その後の尽力で伊藤博文・松方正義を説得し、疎水建設を国策として莫大な工事資金と驚異的なスピードで完成させる。その後現れ開拓を進める大農場のその主は、薩摩出身の松方内閣の大臣や幕藩体制の崩壊で地位を失った人間であり、松方自身も印南・矢板から農場を譲り受ける事となった。どうだろう、なんとも天下り臭のプンプンする話ではないだろうか。

 

 確かな証拠はないが、那須野ヶ原開拓が当時の権力者の天下り先に使われたのは明らかだと思う。とはいえ私はそれが間違った事だとか、恥ずかしい事だとは思わない。目的は何だったにせよ、当時の大きな力によって大規模開拓が行われなければ今の那須野ヶ原はないし、開拓当時の苛酷な環境に耐えながら地中の岩や石ころを取り除いてこの土地を実際に耕した人々の苦労や功績が失われる事はないからだ。

 

最近では時流なのか私の家の付近も開発が進み、大規模な道路建設・大きなマンションや分譲地などの宅地造成・大型スーパーの誘致などつい10年ほど前とは風景が全く様変わりしてしまっている。そんな現状を見る当時の人が見たらどう思うだろうか、私には自分達が苦労して開いた土地を当時の苦労を知らない人間が食い散らかす様を見て悲しんでいるような気がしてしまうのだ。忘れがちな事だが、私達は先人に対する感謝の気持ちを持たなければいけないと思うし、そのためにも自分の土地の歴史にもっと触れなければならないのではないだろうか?その上で私達は第二の開拓といえる都市開発を進めるべきだと思う。

 

参考HP

 

那須塩原市HP〜那須塩原市:歴史

http://www.city.kuroiso.tochigi.jp/rekishi.htm

栃木県HP〜那須野が原の歴史

http://www.pref.tochigi.jp/nasu-nsj/tiiki/nn/denkuu/denku_rekisi.html

関東農政局整備部HP〜珂川水系

http://www.kanto.maff.go.jp/nou_seibi/3/3/menu.htm

千本松牧場HP〜千本松牧場のひ・み・つ

http://www.senbonmatsu.com/motto/himitu.html

那須疎水とは

http://www.pref.tochigi.jp/shuto/contents_04/nasu_b.htm

農林水産省HP〜那須野ヶ原の開拓者 印南 丈作と矢板

http://www.maff.go.jp/nouson/sekkei/midori-ijin/09ttg/09ttg.htm

近代日本の肖像

http://www.ndl.go.jp/portrait/index.html

wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8