地方自治論レポート 外国人に国籍取得自由権を、二重国籍の容認を

            国際学部  国際社会学科  二年  010106A   井上 美子

 

日本人は中国との付き合いが長く、地理も近いので、世界の人々の中では中国をよく理解している部類であろう。明治以後に欧米が大きく映えるようになるまでは、日本人が考える世界は、遠くから近くへ天竺(仏教の国)、唐土(儒教の国)、大和(日本、国学ないし神道の国)という三文法で描いていたということをある本で読んだことがある。こうした身近さにもかかわらず、こと中国の特色とか本質となると、多くの日本人がなかなかうまくまとめられないもどかしさを感ずるのが正直なところでしょう。中国人も日本人と同じく隣国であるにもかかわらず、日本のことを知らない気がしてならない。

 私は中国で生まれ、七歳のときに一家で日本に移住してきた。日本で教育を受け、日本の文化や多くのことに生活を通して触れたり、学んだりしてきた。そうしているうちに、私の中でひとつの外国に過ぎなかった「日本」という国は、いつの間にか私のもうひとつの「母国」へと姿を変えた。また学年があがっていくたび、「日本」と「中国」という二つの母国について考えることが多くなり、両国の相違点を自分の中で比較することも多くなった。

 日本に来た当初、言葉の壁はもちろん、それ以上に私は周りの人と何か伝わりあえないものを感じた。それは時間の流れと共に次第に風化していったが、それが一体何だったのかは分からなかった。高校二年生のとき、私は栃木県主催の高校生友好交流団に参加し、中国の高校生と交流した。言葉が通じ、思いも伝えることができた。共に泣き、笑うこともできた。しかし、この時も何か伝わりあえないものを感じた。中国から帰国後、私はこの伝わりあえないものが一体何なのかを考え、答えが少しみえた気がした。日本で伝わりあえないものを感じたとき、私は日本の国のかたちを全く知らず、人と人との触れ合いではなく「日本人」との触れ合いであるという思いを持って周りの人と接していた気がする。そして、交流団の一員として中国の学生に接したときは、今度は逆に日本人の立場で彼らと話した。また私は七歳以来の中国の国のかたちを全く知らなかった。その国のかたちとは、その国の歴史、文化、宗教、政治、経済、社会・・・から成り立つものである。つまり、その国と人々と真の交流をするには言葉以上にその国のかたちを知る必要があるのだと思う。

 日本と中国の間では、過去に多くの悲劇的な出来事が起きたため、現在の両国の関係にも過去の悲劇が影響を及ぼしている。日清戦争、日中戦争といった大きな二つの戦争は、多くの犠牲者や被害者を生み出した。例えば、残留孤児や残留婦人はそれにあたるだろう。このような人たちは戦争の被害者にもかかわらず、その子孫たちに現在の政府は合理な対応をしていない。

 私の祖母は、日中戦争時に中国に取り残された残留孤児である。残留孤児という言葉を聞いたことはあるけれど、その意味を知らないという人が多くいるので、ここで残留孤児について少し説明したいと思う。残留孤児とは、日中戦争時に中国に渡り、戦争中で家族を亡くし終戦前、中国東北地方に取り残された十三歳までの子供をさす。戦争で両親と兄を亡くした祖母は、一人取り残され泣いていた。これを見た中国人は、祖母が日本人であるとわかっていながら、また日本と中国が戦争中であったにもかかわらず、幼い祖母を助け養女として受け入れ育てた。その後、祖母は中国人である私の祖父と結婚し、戦後の引き揚げのときに日本に帰国した。

彼女の配偶者、子孫として日本に渡った私たちは、残留孤児の子孫として日本という社会に受け入れられるのではなく、「外国人」として受け入れられた。なぜ残留孤児の子孫に国籍選択権がないのか?国の戦争で強制的に中国に行かされた私の祖母。その子孫を「外国人」として扱うのはあまりにも酷い話ではないか。残留孤児の子孫は外国人でもなければ、定住者でもなければ、永住外国人でもない。私たちはむしろ「内国人」である。

現在、私は就職のために帰化の申請をしている。戦争によって生み出された私たちがなぜ頭を下げて「日本国籍」の取得に努めなければならないのか。申請の手続きを行うたび不思議に思って仕方がない。日本は、「選挙権が欲しければ帰化すればよい」、「仕事が欲しければ帰化すればよい」、「我々の国籍を拒否する者に普通の住民権はやれない」、「スパイでない証拠を示すために母国籍を放棄しろ」といった感じで「外国籍」の私たちに対応している。私たちは観光客ではなく、普通の住民である。例え外国籍のままであろうとも、日本人と同じく普通の市民権が保障されるのが当然ではないでしょうか?国籍とは関係なく一般市民と同じく普通に暮らせて始めて、安心して抵抗なく「国籍を選ぶ」気持ちになれるのだと思う。「外国籍」というだけで、仕事を断られたり試験が受けられなかったりする企業が多く存在している。これは一種の人種的差別と呼ぶものではないか。

 最近のスポーツを見ていても、国の代表になってもらうために、スポーツ選手に国籍を譲渡する傾向が見られるが、国にとって大切なのはむしろ底辺を支えている大衆ではないでしょうか。また、国際化や国際国流や国際社会など、国際という言葉が付いた言葉が今の社会の潮流となっているが、真の国際社会を築くことを考えるならば、一般外国人が自由に国籍取得でき、必要に応じて二重国籍の容認も大切だと思う。二重国籍が認められれば、「日本の権利を持った外国人が増える」というよりもむしろ「将来の日本人の外国の権利が維持され、外国の権利をもった日本人増える」のだから、歓迎すべきことではないでしょうか。また、国際社会の真の意味が実現されるのではないでしょうか。

 国民と住民がより自然で平和に暮らすために、日本と中国の悲劇的な歴史の被害者への償いのために、そして真の国際社会を創設するために、日本政府は外国人に国籍取得自由権または二重国籍の制度を認めるべきだと思う。このような制度の実現に私は将来、少しでも貢献したいと考えている。