Kobayashi.S 011112 小林 慎太郎 

 テーマ「鹿島アントラーズと鹿嶋市」(仮) 

  鹿嶋市の将来指針を考える上で、特に考慮すべき主要な課題としては、以下の3つの視点が挙げられます。

 (1)鹿島開発計画以降の状況の変化

「鹿島」の大きな転換期は、昭和30年代の鹿島臨海工業地帯の建設です。現在の鹿嶋市の骨格はこの時の鹿島開発事業のマスタープランに基づいています。しかし、オイルショック、円高不況など度重なる要因 により、産業構造は変化し、当初の計画に沿った、都市基盤の整備や替地造成地の活用、人口や後背地への産業の張り付き等が見込めず、約40年経った現在、計画と実態とが乖離した状況にあるため、マスタープラン自体を見直す必要が生じています。また、全国的な少子高齢化や人口増の鈍化の傾向は、鹿嶋市でも同様に見られ、加えてバブル経済崩壊による土地価格の下落や景気の低迷は、市内の土地区画整理事業等の都市計画事業にも大きな影響を与えているだけでなく、まちづくりに対する考え方にも重要な転換を強いる状況にあります。一方、当市における状況の変化は、このようなマイナス要因ばかりではありません。平成2年から進められた「サッカーによるまちづくり」の芽が順調に伸び、平成3年に鹿島をホームタウンとする「鹿島アントラーズ」が誕生し、平成5年に開幕したJリーグでは、いきなり優勝を果たしたり、2002年に日韓共同で開催されるサッカーワールドカップの開催地として選ばれるなど、今までの「鹿島神宮」「鹿島臨海工業地帯」に加えて、サッカー等「スポーツ」を活かしたまちづくり・文化づくりへの一歩を踏み出したと言え、今後これを如何に根付かせて行くかの展開が期待されています。

  

   鹿島地域には企業、工場以外に何もないかというと、そうでもない。長い歴史を持つ、緑多き美しい町である。2千数百年も前に創建されたといわれる鹿島神宮があるし、鹿島新当流を起こした戦国時代の剣豪、塚原卜伝が生まれ住んだ町である。この剣道の始祖ともいえる卜伝にちなみ、スポーツの源流を求めた「卜伝の郷運動公園」がある。以前からこの公園にサッカー場を造ろうという計画があった。雨が少なく、気候も温暖なこの地域は、サッカー合宿のメッカでもある。鹿島町や、隣町の神栖町に毎年日本代表チームや、さまざまな大学、高校のサッカーチームが合宿に来ていた。学生たちの練習相手として、住友金属の蹴球団が胸を貸したこともあった。以前から、地域としてもサッカーには縁があったのだ。「鹿島地域・楽しい街づくり懇談会」の参加委員であった各町村の代表は、茨城県としての要請と住友金属の願いをそこで受け取った。行政・住民・企業が支援して鹿島からプロサッカーチームを送り出し、地域を活性化させる。それは、地域全体の願いでもあった。鹿島町の町長五十里武氏をはじめ、神栖町の町長沼田省二氏や、波崎町の町長村田康博氏、潮来町、大野村といった近隣町村の賛同が次々に得られ、固いきずなで結ばれてゆく。こうして鹿島地域に強固な支援体制がつくられていったのである。後にチーム法人化の際、この町村から出資団体としての支援も受けることになる。「一歩も引けない・・、いうなれば背水の陣だった。町としても全力で取り組まなければならない状況だった(五十里氏)」 事態は切迫していた。 町村の職員たちも総動員して、この活動を盛り上げていった。卜伝の郷運動公園に建設を予定していたサッカー場(3000人収容)の建設も、プロ化へ向けた県立カシマサッカースタジアム(15000人収容)の建設に切り換えた。

 

「鹿島地域にプロサッカーチームができるということは、スポーツの振興はもとより茨城県全体のイメージアップにもつながるということで、他の地域の人にも快く賛同してもらうことができた。そして、県会議員をはじめ、茨城県サッカー協会、茨城県体育協会、地元の町、村、企業が一丸となって日本サッカー協会や国に対してアピールしてゆこうということになった(当時、茨城県企画部県央鹿行振興課課長、石川哲夫氏、現茨城県東京事務局長)」住友金属のビジョン、そして県、町、村、企業とそこに暮らす人々の願いがここに一致した。鹿島地域に潤いをもたらすために、ひいては県全体の振興に結びつけるために、地域ぐるみで達成すべき目標鹿島にプロサッカーチームをつくろうができたのだ。 地域全体の一丸となった支援活動が開始された。ひとつの目標という旗の下に集まった男たちの、熱い日々が始まる。 地元から県まで広がる自治体、同じ地域に操業する多くの企業、地域住民、これほどの団体、人々の熱い期待夢と願いを背負い、住友金属の蹴球団は、鹿島地域のサッカークラブに生まれ変わろうとしていた