hatogait011203 「地方自治論」レポート
「事前協議制をめぐっての地方分権について」 000141 鳩貝公美
1レポートの概要 最近、小中学校の学級数や教職員の配置について、学級編制基準の上限として定められている40人にとらわれる事なく、各地方自治体の教育委員会の判断で、弾力的に運用できるように変更できるように小中学校の学級編成の事前協議制が2001年(平成13年)4月に改正された。それによって、いじめや非行の低年齢化が問題になっている学校への教職員の重点的配置、現場の実状に応じた少人数学級が可能になり、青少年犯罪やいじめの防止、個性重視の教育において大きな効果が期待されていたが、実際の現場ではどのような体制がとられ、どのような問題があるのかということを、事前協議制の改正にいたるまでの地方分権である教育行政の最近の動きなどもふまえて、これの現状と課題について調べていきたいと思う。また、なぜ教育行政の地方分権化が計られたのかという視点から、戦後の地方分権における教育行政の歴史も調べていきたいと思う。
2事前協議制の現状と課題。
今回の事前協議制は、従来、公立義務教育諸学校の学級編成及び教職員定数の標準に関する法律において、市町村教育委員会は、学級編成について都道府県教育委員会の認可を受けなければならなかったが「都道府県の教育委員会に協議し、その同意をえなければならない」と2001年(平成13年)4月に改正されたことをうけて実現した。
これに至るまでの学級編成や教職員配置をめぐっての基準は、1891年(明治24年)の「学級編成等ニ関スル規則ノ事」で、1学級は尋常小学校で70人以下、高等科50人以下とされたことからはじまったが、1941年の「国民学校令施行規則」で初等科60人以下、高等科50人以下とされた。そして、戦後には「学校教育法施行規則」で小中学校の一学級児童数まで50人以下とされた。しかし、10年以上経過しても50人以上の“すし詰め学級”は多くの学校で継続され、様々な問題をうんだ。この状況を打開するために1958年標準法が制定され、1959年の第一次改善計画で50人学級の実現が目指され、1980年第五次改善計画から40人学級が目指され、92年4月に完全実施となった。1993年からは、第六次改善計画で、困難校や新たな教育指導(ティームティーチング、個別指導等)を実施する学校等に教職員を加配するという目標が打ち出され、35人学級の実現も目指されたが、これは、国に多額の財政負担を与えるということで見送られてしまった。しかし、2001年3月、標準法改正により、各都道府県教委の判断で自由に学級人数を定めることが認可され、基本3教科については非常勤講師、短時間勤務教員を活用した20人程度の学習集団も可能になった。このような過程を経て実現されたのが今回取りあげた学級編成の事前協議制であるが、これに至るまでには戦前からの長い歴史があったことがわかる。(教育行政の基礎と展開、コレール社、2000年)
しかし、そもそも戦前の60人学級から今日の40人学級にいたるまでには、様々な時代変化がもたらした教員、保護者等の変化、子供たちへの影響などがあることは否定できないと思う。今日テレビ等のマスコミで、特に都市圏を中心として騒がれている学級崩壊の増加、少年犯罪の低齢年化の現状からもそれは明らかである。
例えば、栃木県でも、栃木県北部でおきたナイフ事件などの事例などから少年犯罪の低齢年化も明らかであり、他にもヤフー検索で「栃木県 学級崩壊」と検索しただけで、趣旨が少し異なったものがあるとしても502件のサイトがでてくるくらいに学級崩壊に関する事例や関心は高まってきているのである(ちなみに「他県 学級崩壊」で検索してみると大まかな各県の学級崩壊に関する関心度などが比較できる)。このような状況において、従来の60人学級を施行するのは非常に難しい話だ。時代変化のもたらした人間性の変化が、今回の事前協議制の少人数学級編成実現化とその緩和を是正したと言っても過言ではないだろう。しかし、学級編制基準の上限は30人学級にした場合、教員に対する国庫負担が教職員などの給与の半額を、国が負担する制度の算定基準から1兆2千億円にのぼってしまうことから、今の国の財政状況では、とても難しい状況にあり、ここで非常勤講師を用いた場合、国庫負担金を2千億円に抑えることが可能な為、これを推進する結果に至った。
事前協議制が導入されたことによって、少子化が進む中、少人数制ができるようになったのは魅力的だが、学級編成の変更はできやすくなったとしても、財政の余裕のある都道府県市町村は、教員の増員はしやすくなり、そうでない都道府県市町村は導入しにくいという問題が残った。これは、教育間の地域格差を生み、平等な教育を望む公教育の原理を一脱するばかりか、県が財政援助をできない為に、市町村が財政を負担することから、コスト削減しながら教員を増員し少人数学級を作る方法としての非常勤講師の増員という現象を呼び、教育の不安定さまで現れてしまった。非常勤講師は担任の教師のような役割を担うにも勤務時間的に厳しい。しかし、実際は、非常勤講師は教員に比べて給与が低いにもかかわらず、教員と同じ仕事をしているという実例も多く、非常勤講師の不満も溜まる一方である。公教育の不安定さは、ますます進行していく上で、このような地域間で格差のある教育になってしまったら、これは公教育といえるのだろうか。また、教員の増員という点でも多少、問題は残る。
この35人もしくは30人学級を目指すような法整備は、まだ十分とは言えないが、これから先も少人数制を目指し、教員を増員することが本当に必要なのだろうか。ただでさえ少子高齢化の進む現状、例えば、栃木県教育総合センター平成12年調べ、平成13年4月の見込み数調査によると、児童・生徒数及び学級数見込みは、小学校児童数は、120,454人で平成12年5月1日(学校基本調査)と比較して 2,260人(1.8%)減少し、中学校生徒数は、68,005人で1,844人(2.6%)減少の見込み。また、学級数は、小学校が 4,514学級で 64学級減少し、中学校が 2,065学級で 54学級減少の見込みであると述べていた。実際、栃木県宇都宮市の日野町、池上町などでは、少子高齢化が進行し、今年小学校入学する子供が一人もいないという。宇都宮市全体としても高齢化が進行していて、同市役所の統計書の年齢3区分別人口と年齢構造指数の推移によると、人口は、年々増加の傾向をたどっているが、比率でみると年少人口(0歳〜14歳)は1950年に34.0%であったのが、2000年には15.2%と減少の傾向、老齢人口においては1950年には6.3%であったのが、2000年には14.6%と増加の傾向をたどっている。詳しく人口でみると、年少人口は1980年代に95,586人とピークをむかえたが、それ以降減少傾向をたどり、2000年には67,601人に減少している。このように少子高齢化が進行する中、教員を増やし、学級数を減らすことだけが解決策としてとられるべき方法なのだろうか。少子化の中に、教員だけを増やせば、教員は過剰になる。教員を増員することより、教員の選択が必要なのではないか。今の生徒から煙たがられる信頼性の薄い勉強だけを一方的に強制するような頭でっかちの社会性にかける先生を増やしても解決策になるのか。PTAの監視や生徒がきれることが怖いので叱らないような教員を増員して何の解決になるのか。教員採用の枠も狭くなり、生徒の反抗などに適応できないプライドだけは一人前の優等生の教員ばかりが、ますます増加していくのではないだろうか。わたしは時代変化に則した教員の増員なら大切だと思う。例えば、GTOやNAOMIなどの教師のTVドラマが高視聴率を示しているような時代、従来の師として尊敬される先生像はもう古いのかもしれない。低齢年からの塾通いの多様化、塾生の増加も、ただ単に学力の差別化の為の手段として塾を活用しているのではなく、塾に学校にはない何らかの性質、つまり、河合塾などのマンモス塾などの学校にない先生像の多様性が魅力的なのかもしれない。少子高齢化が全国的に進行し、家庭でのしつけが上手くできていない現状の中で、学校に教育だけでなく、しつけまで押し付ける世の中で、教員を増員するのなら、弾力性のある適応規制の整った人材を養成する必要があるだろう。時代に則した内容の充実した魅力ある教員の増員と、昔から師として信頼、尊敬されているような教員の連携プレーが必要不可欠であろう。非常勤講師の増員を促すより、より良い教員を各学校に配置するほうが適していないだろうか。つまり、枠組みも重要だが、その内容はもっと重要になると思うのだ。その内容を非常勤講師の増員が補えるのだろうか。一時的回復になっても長期的には状態が悪化していくような気がする。
つまり、今回の事前協議で、少人数制のできる法整備はある程度整ったので、これからは、この枠組みを、どれだけ上手く活用できるかが大きな鍵になると思う。非常勤でない教員に比べて、生徒の部分的側面しか見えない為に、彼らに注ぐ愛情的なことが偏ったり、希薄にもなりかねない性質を持つ、その給与などの面でも不安定な非常勤講師の増員が、どれだけ現在の教育の状態改善になるのかは、かなり疑問である。もう少し、内容の充実した教員の増員が望める現実性のある制度が必要な気がする。校長まで、教員免許を持たない企業の社長が校長になる時代、教員までも非常勤講師になってしまうのでは、今後、公教育の原理が問われることは間違いない。付け加えて、私たちが忘れてはいけない事として、私が最後に言っておきたいのは「子供の数は減少傾向をたどっているのに、このように少人数制を推進するような法律ができるという環境をつくりだしてしまった家庭の役割に大きな問題があることを決して忘れてはならない」ということだ。学校の批判をする前に問題なのは、学級崩壊をつくる子供、青少年の犯罪をする子供をうみだす生活環境や、家庭があったことであり、中国の一人っ子政策がうみだした子供に対する溺愛と甘やかしにより急増した四二一総合病の増加にみられるような性質が、日本の親にも子にも存在しているからであろう。
まず、反省すべきは家庭であり、そのような親や子を生み出してしまった日本の教育制度の問題、もしくは日本の問題でもある。このような教育における学級編成の事前協議制の導入を、一面的に、今、学校に問題が多いから少人数制で行う授業はできて当たり前で、子供により良い教育環境をあたえるのは、親として、とても魅力的であると考えるだけでなく、それを生みだした社会変化などを多角的に見ようとし、自分たちの問題として、家庭や公共の場で考えることをしなければ、法律等のハード面が出来上がっても、何の解決にも進展にもならないと思う。一番の問題はこのような状況を作ってしまったソフト面であるということを指摘しておきたい。
3日本の教育行政の歴史
日本の教育行政の出発点は、明治政府による皇道主義の五箇条の語誓文を根拠として、具体的執行は1871年(明治4)年に創設された文部省によって推進されるようになった。1872年には学制が出され、これによって明治政府は富国強兵を推進するために就学を強制した。そして、1980(明治23)年には、教育勅語がだされて戦前教育行政の特に精神的な分野の支配をした。これは、勅語という言葉のとおり、天皇が臣民に親しく示した言葉という意味で、大日本国憲法と同様に絶対的理念になり根本的教育目標になった。この頃、尊王忠君愛国の教育観も成立した。その後、昭和初期には軍事上の事件があいつぎ、教育内容も国体や日本精神が強調され、文部大臣に軍人が就任し、教員は背広の軍人とも呼ばれた。このころは、地方公共団体の学校設置者は物的管理の責任だけを負い、人事や運営管理は国が行っていた。1941年には教育行政も戦時一色になり、小学校は国民学校になり、皇国民錬成を目的にする軍事教練が授業にとりいれられ、学校行政では臣民の道が説かれていた。戦争末期になると学徒動員や勤労奉仕や繰上げ卒業の為に授業はほとんど行われなかった。このように、戦前の日本における教育行政は国家的な中央集権的、勅令主義の教育行政であったことが分かる。
しかし、戦後の教育行政はアメリカ的な法律主義に変化していった。これによって一部の権力者等に教育行政を握られてしまうような戦前の失敗を繰り返さないための仕組みが出来あがっていったのだ。そして、1946(昭和21)年第一次アメリカ教育使節団報告書によって教育の民主化のためにアメリカ式の公選制教育委員会制度が導入されて地方公共団体の長とともに教育行政の地方分権主義が成立することになった。そして文部省は国の単なるサービス機関として、指導的機能、事務的機能、調査的機能の三大機能をもつことになった。これによって地方自治の原則が実現したのだった。1948(昭和23)年に戦後の分岐点とよばれる教育委員会法が成立し、国の支配がさらに軽減され、地方公共団体の発言力が向上したが、地方公共団体の財政基盤の弱さや公選制による事務、財政負担、投票率の低さ等が露呈してしまい、1956(昭和31)年に現地行政法が成立した。これによって教育委員の選出が公選制から任命制になり、教育財産の取得や予算原案、条例原案送付権なども廃止され、地方分権主義が後退してしまった。つまり、教育委員会の発言力が低下したのも1956年以降だった。また、1948年から1956年までは、文部省と地方教育行政機関の上下関係はかなり是正され、それ以降も表面上はこの間の上下関係はないといっているが、実際教育の現場では日本の抜けない性質としてこれがあるのも否定できないらしい。
このように教育行政は、1872年から1945年までの戦前の明治以降に公教育の組織化が進行するとともに国家主義的、中央集権的な教育行政の体制であった時期を第一期、戦後の1945年から1956年を、教育行政の民主化が目指され、具体的な制度化として教育委員会が設立した第二期、1956年から1984年までが、地方教育行政の組織及び運営に関する法律の成立により教育委員会制度の改編が行われ、現在の仕組みができた第三期、1984年から現在にいたるまでの教育委員会の問題点が指摘され、その再生が模索されている時期が、第四期という時期区分になっているのだ。このように、歴史をたどって見ると、戦後に地方分権がもたらした教育への影響は、勅令的な戦前の教育から現在の教育制度に変えた大きなものだったことがよく分かる。(教育行政の基礎と展開、コレール社、2000年)
4まとめ
このように見ていくと、地方分権がもたらした教育行政への影響は、戦前の中央集権的で勅語的な教育行政から現在の地方分権的な教育行政に変えた点で、戦後の教育行政に大きな影響を与えたことは明らかである。それもやはり戦後のアメリカ的な政治制度の導入に伴って行われたものだが、戦後アメリカがおこなった日本の改革は地方分権の中の政治分野だけでなく、教育にもおおきな影響を与えたことが分かる。
この影響により日本は勅語的な教育から脱却したが、まだ今でも教育においては国の影響力は強いらしい。しかし、アメリカの教育制度のように、ほとんど地方自治体に教育をまかせるのは教育の不均衡を生みかねないので気をつけなければならない。今の日本の教育が迎えようとしているのは、非常勤講師や、校長の世襲化は公教育の原理を脅かしつつある現状があり、アメリカ的なまさにこの教育体制だからである。
つまり、日本の教育の特徴は、地方分権主義という形でアメリカの影響を程よくうけた教育行政であったのに、最近では、その形が、よりアメリカ的に変化しつつあるということが言える。それが今後の日本に悪影響を良い影響を及ぼすのか否かは分からないが、教育の地域間格差や非常勤講師の増加等が、日本の公教育を脅かしているのは事実である。
それと同時に、この事実を知り、事前協議を受け止めている保護者がどのくらい日本にいるのかも疑問だ。学級崩壊、少年犯罪等の諸問題解決には、少人数制が必要だという一時的衝動に任せて、一面的にしかこの協議を見ていない、かつての私のような人が大勢いるのではないだろうか。現在の教育の状況を見ていると、都合の良い行政任せの親の教育に対する姿勢が見える気がする。だから、このレポートを通して、日本の教育の経緯を少しでも知り、事前協議制についても少人数制に対して多角的に見られる視点を持つヒントになればよいと思う。つまり、何事にも、その制度の是非をみるだけでなく、その制度に至るまでの経緯を知り、自分の行動を見つめ直し、自分の行動を改める必要があるということに気がついて欲しいと思うのだ。それによって、より良い生活、より良い制度は生まれていくのだと思う。つまり、個人がいい加減な生活しかしていないなら、いい加減な制度しか生まれないと思うのである。
つまり、より良い社会をつくるのは、表面上では制度的に法律等の条文であっても、最終的には一人一人の心構えや社会性であることを忘れてはいけないと思う。どんなに良い法律を作ってもそれを守る人が居ないなら意味を持たないただのメモにしか過ぎないのである。私たちは、せめて、教育においては、地方分権化が進行し、極めてアメリカ的になりつつある状況があるという現在の動向だけは知っておく必要はあると思う。
21世紀の地方分権の諸制度も、このレポートでとりあげた事前協議等の諸制度も、それを受け入れる側がどれだけ有効かつ効率的に活用できるのかが大きな課題であると私は思う。
<参照サイト>
http://www.chugoku-np.co.jp/five2/teacher/index.html
中国新聞のページ。
http://member.nifty.ne.jp/KOMI/news.htm
おひさまクラブのページから栃木県の教育関連ニュースのページ。
http://dell4.tokyo-shoseki.co.jp/kyouikukai/new-edu-info.htm
東京書籍の教育界情報のページ。