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中村祐司「サッカーW杯2022年大会招致をめぐる国際政治―なぜカタールが勝利したのか?―」
1.2022年大会はカタールで開催
サッカーのワールドカップ(W杯)の開催地が2018年はロシアに、2022年はカタールに決定した。22年大会に立候補した日本は、米国、韓国、オーストラリアとも招致を争ったが、投票権を持つ22人のFIFA(国際サッカー連盟)のうち、1回目の投票では3票を獲得し最下位はかろうじて逃れたものの、2回目の投票では2票しか獲得できず、あえなく落選した(過半数を得る候補が出るまで最下位を除外して繰り返す方式)。
02年大会を共催した韓国は1回目投票で4票、2回目投票で5票を獲得したので、招致選における日韓対決では韓国に軍配が上がったことになる。日本は08年夏季五輪の大阪立候補、16年夏季五輪の東京立候補に続き、3回連続で大規模国際大会の招致に失敗したことになる。FIFAのルールにより日本が次に立候補できるのは2034年大会となる。今回の敗因はどこにあったのか。
2.脆弱な政治力が日本の招致失敗の原因?
敗因については新聞報道などでいろいろ書かれている。FIFAの会長以外は大陸別に、欧州8人、アジア4人、北中米・カリブ海、南米、アフリカが各3人である[1]が、アフリカや南米など開催立候補地域以外の理事の票をうまく獲得できなかった。また、02年大会の開催から、まだ8年しか経過しておらず、いくら02年から数えて20年ぶりの開催を訴えても、間隔が短か過ぎるという感触を持つ理事を説得できなかったというものである。
さらに、国際スポーツ界での日本の脆弱な「政治力」、02年大会で用いた競技場が既に現在のFIFAの基準には達していないこと、招致計画に盛り込まれた12スタジアムのうちサッカー専用は四つのみであること、「『W杯を開きたい』という思いを国民的なうねりにできなかった」という意味で結局は「ハートもハードも」足りなかった、などといった指摘もあった[2]。
3.開催国選出をめぐるFIFAの変容
一方で、FIFAによる実質的選択基準の変容があった。2010年南アフリカ大会は、開催前は治安、インフラ整備、アクセスなどの面で運営が不安視されたにもかかわらず、成功に終わった。しかも2014年は南米大陸で初めてとなるブラジル大会である。IOC(国際オリンピック委員会)が2016年大会の開催地をブラジルのリオデジャネイロに決定したのと平仄が合う。FIFAは「未経験国での続けてのW杯にも二の足を踏まなくなった。開催能力よりメッセージ性、『安全策』より『挑戦』に傾く姿勢」[3]へ転化したのである。
4.FIFA調査報告書における評価の特徴
FIFA調査報告は、理事5人で構成する視察団が2010年7月の日本視察を皮切りに、同年9月までに18年と22年大会の全9候補地を訪問して作成したものであるが、その評価結果と開催地決定との乖離には疑問が出された。18年大会と22年大会ともに調査報告では評価が最も低かったロシアとカタールに決定したからだ。それぞれ東欧初、中東初という点では共通しているものの、それだけでは説明がつかない。
評価においてカタールは、「選手、関係者、観客の健康面に不安がある」と指摘され、環境、運営全般に「ハイリスク」が付けられたからである。ロシアについても広域開催のなかでの空港と海外との接続が「ハイリスク」とされた[4]。
調査報告書には競技(競技場の建設・運営、練習施設、競技関連イベント。FIFAは12開催都市を要求)、交通(空港と国際利便性、地上交通、開催都市間交通)、宿泊(宿泊施設。FIFAは6万室のホテルを要求)、テレビ(国際放送センター)といった「運営上のリスク」をめぐる精査がなされている。
また、政府文書(政府保証。日本はこの点で難があると評価された)と契約文書(開催・開催都市・競技場・練習施設・確認をめぐる契約)をめぐる「法的リスク」についても検証された[5]。調査報告における評価が相対的にせよ軽んじられたとすれば、資金力や政治力が最も重視されたのではないかと囁かれている。
5.カタールはなぜ勝利したのか?
カタールは、「埋蔵量世界第3位を誇る天然ガスの輸出に裏打ちされた豊富な資金力」を有し、2009年の経済成長率は9%と08年秋以降の世界同時不況による景気減速の影響を受けなかった。さらに、2010年の成長率は15%、11年には21%に達すると予測されている。政治的にも近年はイエメンやレバノン、スーダンにおける武力衝突の調停に乗り出すなど、仲介役としての存在価値を発揮し始めている。W杯の開催は「湾岸地域の勢力関係を変えるきっかけとなる可能性」[6]をも秘めているのである。
カタールの招致活動におけるPRのポイントは、太陽光発電による冷却装置のついたスタジアム建設であった。これなども「強大な権限を持つ政府が、巨額の財政支出を要する計画を全面支援する」[7]構図の一コマなのであろう。そして、FIFAにとって「どういう場所で開催するか」よりも開拓的な「マーケティング市場」があり、その周辺地域も含めた「堀り起こしができる環境」[8]があるかどうかが最も重要な判断基準であったと思うし、そのことはロシアにも共通していた。
6.米豪韓日の切り札は何だったのか
米国は1994年米国大会での観客動員実績(W杯記録)とさらなる入場者増や放映権料の伸びに連動するFIFAの収入増をPRした。オーストラリアはオセアニア地域初の開催を訴え、五輪に先立つ全大陸での開催の意義を、高い医療水準と安全性とともに主張した。韓国は北朝鮮が試合を部分開催することを通じて、朝鮮半島の関係改善や南北統一に向けた象徴となる点に力説した。
対して日本の三つの「切り札」は、@世界400カ所で実物大の立体映像中継によるパブリックビューイング(3億6,000万人による完全なスタジアム体験)、A情報端末(50カ国語対応の音声自動翻訳機能)、B世界から6,000人の子供たちを招待、であった[9]。
7.これからのサッカーW杯招致活動
「開催能力」「安全策」「安心感」そしてサッカーを「深める」ではなく、「メッセージ性」「挑戦」「冒険」そしてサッカーを「広げる」を選んだFIFAの姿勢は、地球規模でのサッカー市場のさらなる開拓の一里塚とみることができる。そのことは、巨大な国際スポーツ統括組織が一国をも飲み込んでしまうかのような、また、世界最大のスポーツイベントが市場の力に依存する不可避的な趨勢なのであろう。
こうした世界的趨勢を市場原理主義だとばっさり切り捨てることはもはやできない時代が到来している。市場のメカニズムを政府がコントロールできるか否かに今後は関心の焦点を移すべきであろう。
今後、日本政府がロシアやカタールに倣って、「強大な政府権力」を通じた招致活動に乗り出すべきだとは思わない。02年大会と比べて10分の1(9億5,000万円)の招致活動費[10]のなかで、日本は次世代に新たな「メッセージ」を一定程度は提供できたのではないだろうか。
結果論ではあるが、今回、立候補しないで次の34年大会を目指すよりもよかったのではないだろうか。今後は、この経験を生かして、スポーツに対する国民理解とスポーツ文化の熟度を深めるプロセスが、「上げ底」の政府やスポーツ団体を通じたPRではなく、草の根レベルでの「底上げ」の実践活動によって展開されるべきであろう。
註
[1] 2010年10月2日付産経新聞「混戦に勝機 南米票が左右」。
[2] 2010年12月6日付産経新聞「国の支援 不可欠」および2010年12月17日付毎日新聞「新しいスポーツ文化創出を」。
[3] 前掲産経「国の支援 不可欠」。
[4] 2010年12月20日付日本経済新聞「財力・政府支援 決め手」。
[5] 2010年12月3日付毎日新聞「サプライズ 演出も」。
[6] 2010年12月24日付読売新聞「小国 加速する存在感」。
[7] 2010年12月4日付毎日新聞「『政治力』欠けた日本」。
[8] 同。
[9] 2010年12月13日付産経新聞「混戦に勝機 南米票が左右」および2010年12月C日付朝日新聞「W杯招致 日本惨敗」。
[10] 2010年12月17日付毎日新聞「新しいスポーツ文化創出を」。