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中村祐司「新時代の国家、団体、個人の関係変容と『地域主権』」
2009年9月の鳩山政権発足後、少なくとも志向レベルでは、従来の自民党政権の国家統治のスタンスを根こそぎ突き崩すような改変が打ち立てられようとしている。高速道路無料化、子ども手当、公立高校の授業料無償化、農家の戸別所得補償、ダム建設見直しなどの従来型公共事業の大幅削減、事業仕分け、予算編成過程、年金、地域主権、環境・エネルギー政策、永住外国人への地方選挙権付与、さらには沖縄の普天間基地移設や東アジア共同体構想などがそれである。これらの改革政策は、いずれも整合性の観点からマニフェストとの乖離の度合いを指摘されてはいるものの、一定の共通軸を見て取ることもできる。
それは「生活が第一」「コンクリートから人へ」といった標語からも窺われるように、従来、中央政府(国家)と個人(有権者)の間に当然のごとく介在・経由していた団体を飛び越え、直接に両者(政府と有権者)が相互連結する政治・経済環境を生み出そうとするものである。この場合、有権者から政府への直接的なベクトルが一票の行使であり、政府から有権者へのベクトルが上記諸政策である。
世界の趨勢は米ソ対立の冷戦時代とはもはや様変わりしている。いわゆる”BRICs”の台頭、とくに08年秋以降の米国金融危機と今世紀以降の中国の躍進は、これまでの米国の「一人勝ち世界」の構図を崩すこととなった。加えて、EUのさらなる統合への模索やアフリカ諸国の成長潜在力をめぐる共通認識など、ますます流動化し激動化する新グローバリズムの時代が到来したのである。
こうした新時代における日本の立ち位置に関して、左右両軸の座標に相反する見解(一例を挙げれば、対中国協調重視か対米国協調重視かといったスタンスの違い)が提示されている。しかし、これらはあくまでも日本のこれからのあるべき論であって、国家間地域統合をめぐる新たなうねりが刻々と歩調を早めているという状況認識の点では、左右両派の対立を超えてほぼ一致しているといえるのではないだろうか。
国内状況においても、雇用関係(働き方)一つを取っても、前政権によるこれまでの企業・団体を対象とする財源・公的資金の注入などの「下支え政策」は、当該の企業を存続させはしたものの、そこで働く従業員に対する果実の還元はなかった。企業はリストラに励み、使い勝手のいい非正規社員や契約社員をまさに使い倒すことで、結果として雇用状況の不安定化(=雇用の流動化)を招いたのである。
それでは国内外の政治・経済・市場の流動状況の中で、正の側面(たとえば国境を越えたボーダレスな市場の発展など)を伸長させ、負の側面(国内地場産業の衰退など)の解決を目指す上で、最も有用なキーワードを挙げるとすれば、それは「地域主権」ではないだろうか。
ここでいう「地域主権」とは、新政権が「一丁目一番地」と位置づける以上の意味合いを持つと考えられる。
高速無料化はある意味で究極のコスト操作を通じて、車のユーザーに休日の長距離移動を後押しするものである。確かに事故の多発や大量の排ガスの放出など、「タダほど恐いものはない」負の誘発効果が懸念されるものの、あくまでも採用はユーザーあるいは家庭の選択に委ねられる。政府が業界団体や企業ではなく、直にユーザー(有権者)に投げ返すボールなのである。ポピュリズムの究極的選択に過ぎない、あるいは有権者の票目当ての「ご機嫌取り政策」に過ぎないという批判はあるだろう。しかし、一票の行使によって政治がこれほど変わろうとし、その端緒に過ぎない現段階で早くも政治が個々の家計にアプローチし始めた(「ユーザー主権」)。
子ども手当や公立高校の授業料無償化についても同様である。巨額な財源を必要とする「ばらまき」の典型という批判以上に、従来の公共事業下支え、すなわち業界団体を対象とした供給過剰の加速化に見切りをつけ、需要喚起、それも使途については子どもの健全育成を政府は願う段階に止め、あくまでも各家庭(家計)の判断・選択に委ねようとしている。従来の財政出動では末端の個人に行き着くまでに、企業・団体を経由する過程で「中間搾取」のごとく漏れ落ちてしまう。それに対して子ども手当は「直(ちょく)」で家計に至る。その意味で農家から「直」で消費者につながる農家直営にも似た、「政府直営」(政府から家計へ)の側面を持つ(「家計主権」)。
その農家の戸別所得補償についても農家の生産意欲を各農家の選択にもとづいて刺激する点では、団体を飛び越してまさに戸別農家の自主性に委ねる考えが窺われる。また、ダム見直しに代表される公共事業の削減は、まさに当該地域の受け身的な「団体救済策」からの脱却を目指している(「農家主権」や「地域社会主権」)。
事業仕分けはその効果額をめぐり当初期待の相対的低さから批判はあるものの、国家の予算付けの前段階で、たとえ一部であるにせよ、これほどそのプロセスが白日の下に晒されたことはこれまでの予算編成史上かつてなかったことである(「納税者主権の萌芽」)。永住外国人への地方選挙権付与は共生社会の実現を担保する価値を持つ(「共生者主権」)。
沖縄の普天間基地移設や東アジア共同体構想にしても、前者は従来の日米関係を世界の時代的趨勢に対応する形で、「沖縄県民の主権」(県外移設)や「国家の主権」(国外移設)を追求しようとしているし、アジア諸国との新たな関係を日本・韓国・中国を軸に再構築していこうとするものである(「アジア主権」)。こうした日本における沖縄の立ち位置や、国際社会(とくに日米関係)における日本の立ち位置のあり方についての解は歴史が証明するであろうが、アジアの中の日本、そして日米関係が大きな転換期・変動期にあることは間違いない。
戦後60年以上に及ぶ正負ないまぜになった何層もの堆積に正面から立ち向かうかのように、一票の行使による有権者から政府への直接的働きかけと、政府から家計への還元がなされようとしている。
あらゆる政策領域に通底する「地域主権」具現化の環境が創出されなければならない。狭義では、国の地方自治体に対する予算や仕事内容の義務づけや国の直轄事業の地方負担の抜本的見直し、地方交付税に代わる一括交付金制度の創設、国と地方が対等な立場で協議する場の設定、国から地方への権限移譲、法律・条例関係におけるいわゆる「上乗せ条例」の認定、そして、中央省庁の機能そのものの縮小、グランドデザインにもとづいた都道府県と市町村・都道府県間・市町村間の新たな関係構築といった諸改革が挙げられる。日本の政治はこれらを真に実践するスタート地点に、明治国家の樹立あるいは戦後初めて到達したといえるのではないだろうか。