08121moriy
森喜朗「憲法第九条および平和主義で平和は守れるのか?」
日本国では日本国憲法第九条(以下、九条)によって「公式」には軍隊を持っていないことになっている。幸運にも日本は太平洋戦争後、少なくとも大規模な戦争に直接巻き込まれ血を流すことはなかった。一部の人々はそれが九条と平和主義の産物であると主張している。しかしそれは本当に九条と平和主義の産物なのだろうか。
現在、九条改正を軸とした憲法改正論が盛んである。大まかに言えば与党が憲法改正推進派であり、野党が憲法改正反対派である。反対派の野党や団体の主な主張[i]としては、
@日本は太平洋戦争で加害者であり、被害者であった
Aそのため、日本は平和主義を誓った
Bそれにもかかわらず、現在日本は憲法を変えて戦争をできるようにしようとしている
C平和は絶対的なものである
D外交問題は全て話し合いで解決できる
E憲法は「守るべきもの」である
と私は理解している。
私個人としては憲法改正に賛成である。その結果戦地に送られたとしてもかまわないとも思っている。客観的に見れば今まで日本を守ってきたのは日米安保条約と在日米軍とほんの少しの幸運の存在であり、例えるなら今まで日本はアメリカという名の傘のおかげで戦争という名の雨に濡れなかっただけである。極端に言ってしまえば一歩国外に出てしまえば平和主義も憲法九条も感動小説程度の価値でしかない。なぜなら日本国憲法は日本国民および日本国在住の外国人に適用されるものであり、何がしかの感動をもたらすかもしれないが外国政府の行動を束縛するものではないからである。戦争は利害と感情で始まるものである。侵攻される国の憲法にいくら平和と書いてあっても侵攻する国には全く関係ないのである。また、始めから戦争をする気の国の場合、いくら戦争反対と叫ぼうが外交交渉を重ねようが最初から無駄である。
九条第二章には、「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」とある。これは求めた後に守る必要があるのではないだろうか。一般社会ならば正義と秩序を守るのは警察の仕事である。では国家間においては誰がどうやって正義と秩序を守るのであろうか。実は国際社会の正義と秩序は各国のモラルにまかせっきりなのである。一応国連軍などもあるが、即応性はないに等しく、どうしても後手後手になってしまう。もしどこかの国が国防軍の存在しない国に侵攻した場合、仮に国連軍が編成されて出動したとしてもそれまでは侵攻軍にやりたい放題にされるのである。つまり国防軍のない国というのは国民の生殺与奪権を他国に委任してしまうような国家ではないのだろうか。
Cについて、平和を追求するのは結構なことであるが、あまりに目先の平和ばかりを追い求めるとかえって大戦争を招くこともあり得る。有名な例としては第二次世界大戦前夜の英仏の対独宥和政策[ii]がある。1936年のラインラント進駐、もしくは1938年のミュンヘン会談の時に英仏がナチスドイツに対して毅然とした態度を取っていたら、第二次世界大戦は起こらなかったか、起こったとしてももっと小規模なものになっていたかもしれない。
Eについて、憲法改正反対派はなぜ「憲法改悪反対」と叫ぶだけなのだろうか。彼らも自らの主張である集団的自衛権の放棄、非核三原則、さらに踏み込んで自衛権や武装の放棄を盛り込んだ憲法修正案を提出するべきではないだろうか。憲法とは本来、国家を運用するための道具に過ぎない。未来永劫一言半句たりとも変更を加えてはならないものではない。憲法は変わるべきものであるし、変えるべきものである。それとも彼らの頭の中には未だに大日本帝国憲法のような「憲法は不磨の大典である」という認識が残っているのだろうか。
軍隊を持たなければ、平和と唱えれば平和が来るという考え方は、警察をなくせば犯罪がなくなるという理論を主張することと同じではないだろうか。クラウゼヴィッツの有名な言葉に「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」というものがある。戦争には必ず予兆がある。治に居て乱を忘れず、平和と叫ぶよりも他国の出す戦争のシグナルに耳を澄ませて、対策を立てたほうが良いのではないだろうか。