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細川哲也「メディアの公正・中立な報道について」

 

なぜこのテーマを取り上げたかというと、「現代政治の理論と実践」の講義で多くの学生が報道は表現の自由から認められているが公正・中立の立場をとらなくてはいけない、という考えを持っていたからだ。その中で私は中立性を重視した報道は難しいのではないかとかんがえていた。

 

いったいメディアの公正・中立な報道は可能なのであろうか。一般的な意見としては、「報道や言論活動は不偏的な立場に立ち正確な情報を伝える必要があり、それが行われてこそ健全な民主主義だ。」というものが多い。つなり一般的な考えは中立・公正な報道ができる、できないではなくそうあることがただしく、そうでなければいけないというものである。講義中での学生とおなじかんがえである。また問題点として「メディアは第4の権力とも言われ世論の形成に大きな役割を果たしている。メディアが情報を操作すると事実と異なった世論が作られる危険性。」というものがある。この問題掘り下げて考えてみる。

 

2001年9月11日の米アメリカ同時多発テロ事件でニューヨークのワールドトレードセンターに2機旅の客機が追突する映像が連日放送され、ステレオタイプ〔メディアの一方的な情報を受けて固定化する〕人間だった私はアメリカかわいそう、テロを起こした国はひどい国だと勝手に思い込んでしまいました。だから戦争も仕方がない、やるからには日本も前面的に協力するべきだ、と考えてしまったのだ。私以外にもこのように考えた人は多いだろう。今になってその時の自分はメディアによって操作されていたのではないのだろうか、と考えるようになった。あの時のアメリカかわいそうと思った映像はアメリカの見方につくようにという政府からの無言のメッセージのようにも思えてきた。それが後のテロ対策特別措置方の設定を納得させ、インド洋での自衛隊の後方支援を支持させたのではないだろうか。高校の地理の授業で中東の石油問題や民族問題を習い9.11事件を見直したときアメリカにも非があったということが分かった。また、パレスチナ問題を深く調べていくとアメリカの方が悪くも思えてくる。

 

また、NHK以外のテレビ局は広告費に収入を頼っている。だから、視聴率が取れなくては意味がないのである。よって真実よりも視聴率が重視され商業主義的の報道となってしまう。これにより、自分たちにとって都合のよいも報道し、不都合のものは隠すという悪循環に陥ってしまう。

 

私はメディアの公正・中立な報道には限界があると思う。その一つの理由が、同じ記事でも立場が違えばまったく違う報道として受け取られるからである。前述したアメリカ同時多発テロを例にあげると民族問題に詳しい方はこのテロは〜を主張しているのでないかと読み取る人もいれる。対してアメリカ大好き人間であれば、専らアメリカを保護するだろう。他にも、自分が自動車を運転していると歩行者が邪魔に見え、自分が歩行者の立場だと自動車が邪魔に見えるというのは誰もが経験したことがあるのではないだろうか。このように同じ状況であっても立場が違えば主張も違うのである。その時点で中立とは言えないのではないだろうか。

 

もう一つの理由は何かを伝えようとするとき全く主義を持たないということはありえないと考えるからである。考えを持つ、意見を述べる、ということは常に何かに対して否定することである。何かに対して賛成する、肯定するということでさえ、その考えに反対の人に対する否定なのである。このレポートを見てもわかるように、私は「公正・中立な報道はできない」という立場に立ち意見を展開しています。もし、完全な公正・中立報道をするならばこうなるでしょう。事実のみの報道。アナウンサーやコメンテーターによるコメントは一切なし。新聞の社説もなしです。これが実現できれば真の公正・中立報道だと思います。

 

 しかし、事実だけの報道では他社との差別化を図ることができません。ここで逆説的に考えて見ます。そもそも、公正で中立な報道など必要ない。各社、思い思いの主観で報道してもよい、としたらどのようなことになるだろう。私は、このようにしても大きな問題は発生しないと思います。なぜなら、自由な報道が可能になったからといい、反社会的な報道や行き過ぎた報道をしたら、視聴者の反感をかうと思うからである。逆に規制をはずしたことにより、より考えが多様化し、報道の仕方が増えるのではないだろうか。そうなれば、多様な民意の形成につながるはずである。主観のない事実のみ報道よりも意見をたくさんだし、その中から考えを取捨選択したり、自分の民意形成に役立てたりするほうがはるかにいいような気がする。

 

 

なにより、大切なのは、メディアが公正で中立な報道をすることだけではないのではないと思う。私たちがメディアに対するアクセス権〔メディアに対して個人が意見発表の場を広く求める権利、反論記事の記載要求・接近など〕を充実させること。そして、メディアリテラシー〔情報を批判的に読み解いて必要な情報を引き出しその真意見抜き、活用すること〕の能力であろう。