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中村祐司「北京オリンピックをめぐる『ネガティブ』課題の転換は可能か―新聞報道を素材にして―」

 

 

本レポートは、北京五輪をめぐる新聞各紙(期間は20078月から20081月まで)の「ネガティブ」報道(=開催の成功をめぐる否定的な諸課題の新聞掲載)を抽出・列挙して、そこで指摘された諸課題が「ポジティブ」な方向へと転換できる可能性があるとすれば、その論点は何であるかを探ったものである。

 

 

1.北京五輪施設をめぐる事故、重労働、管理運営の問題

 

 北京五輪施設建設中の事故(北京大学構内の体育館での火災や地下鉄工事現場での崩落事故)は「完成を急ぐための無理な工程が原因」といわれる[1]

 

農村部からの出稼ぎ労働者「農民工」は、全国で約12000万人。北京では約100万人を数え、このうち3万人が五輪施設の建設を支えている。農民工の月収は全国平均で約1000元ほどであり、重労働と低賃金にあえいでいる。労災、医療保険などもほとんどなく、賃金の未払いなど問題は山積し、期日に賃金が払われるのはわずか45%というデータすらあると指摘されている[2]

 

「五輪招致成功以来の最大の失態」と呼ばれるのが入場券をめぐる071030日の大騒動である。予測を超えるアクセスが集中し、銀行窓口も含め統一の予約システムがダウンし、組織委は販売中止を翌日発表した[3]

 

北京五輪の主会場は、年間4000万〜5000万元(約6億〜75000万円)の維持費がかかる見通しで、民間企業が建設費の半分近くを負担する代わりに五輪後30年間の経営権を取得している。商業施設やホテルの経営、命名権売り出しなどが行われる予定である[4]

 

 

2.ドーピング対策、胡同撤去、引退選手の処遇をめぐる逆風

 

新たなドーピング(禁止薬物使用)検査センターである「中国国家体育総局運動医学研究所」が反ドーピング策をどれだけ実効性のあるものにできるかが、「中国が通らねばならない最大の関門」である。また、公安部、情報産業部、体育総局の合同会議を経てどのようなネット売買の取り締まり策が打ち出されるのかも注目される[5]

 

北京における「違法建築」の撤去は06年が計450万平方b、07年が332万平方bに達する[6]。一方で市内の自動車は08年夏には330万台に到達するとみられている[7]。海外のNPO(民間非営利)団体は立ち退きを迫られた住民が150万人に上ると推計する。片や「会場建設に伴う立ち退きは6000世帯にすぎず、すべて補償済みだ」(北京五輪組織委員会新聞宣伝部副部長)という反論もある[8]

 

とりわけ北京の歴史ある路地、横町である胡同(フートン)における四合院(中庭の四方を母屋が取り囲むつくり)は、観光客向けの一部を除いてなくなってしまうのだろうか。「平和の祭典を口実に、どれだけの市民が地獄に突き落とされたか。横暴なやり方は許さない」という声もある[9]

 

「国際オリンピック委員会(IOC)に国際NGO「プレイフェア」(英国)が中国、企業4社で児童労働が行われていると告発した問題もある[10]

 

「引退選手の8割が困窮している」と指摘する関係者もいる。07年には元女子陸上選手が現役時に獲得したメダルをインターネット上で売りに出して話題になった。「ひと握りのエリートが笑う陰に、無数の悲劇がある」といわれる[11]

 

 

3.水、食べ物、治安、テロをめぐる対策

 

北京五輪直前の合宿地として、日本での合宿が内定しているのは米国、英国、ドイツ、フランス、アイルランド、スウェーデン、フィンランド、オランダである[12]。その背景には中国の環境問題(大気汚染、飲食物の安全性、水不足など)がある。

 

北京市では一人当たりの水資源量は300立方b未満と全国平均の8分の1程度で、世界平均と比較すると約30分の1に過ぎない[13]。北京市水務局は北京五輪期間中の1日の水使用量が最高275万dになると予測し、中国史上最大の水利事業といわれる「南水北調」(長江(揚子江)の上流、中流、下流からそれぞれ取水し、水路を経て黄河を通って北京などへ送り込む国家プロジェクト)など、下流の首都への水の供給になりふり構わない取り組みを行っている[14]

 

北京五輪が中国の08年実質GDP(国内総生産)を押し上げる効果は0.25%553億元=約8600億円)にとどまるとの試算もある[15]

 

北京五輪期間中、選手村や記者村で消費される食材はすべて、ICカードなどを用いて管理される。異物の混入などを防ぐために運搬車両も衛生利用測位システム(GPS)で監視する。それだけにとどまらない中国国内の10カ所に外部から隔離された養豚場が建設された。“クリーン”なブタ肉を選手に提供するため、有機飼料を使って飼育するうえ、1日2時間、ブタに運動させるという話が広まった[16]

 

中国政府のシンクタンク、中国社会科学院は大気汚染、交通渋滞、食品安全、サイバーテロなど五輪の支障となりかねない十項目の危険性を列挙した。とくに、転換期にある中国では暴動などが頻発し、失業者らが五輪期間中に実力行動に出る可能性を「排除できない」という指摘がなされ、犯罪への対策としては街頭などに263000台のカメラを既に設置、治安強化を図るとした[17]

 

中国国内に潜入する国際テロ組織対策として、0512月からは「空中警察」が民間旅客機に配置されてきた[18]。北京五輪へ向けての危機管理マニュアルを作成中であるが、起こりうる危機のリストは何千にも上るという。

 

 

4.「ネガティブ」課題の転換は可能か

 

以上、北京五輪に関わる新聞報道におけるネガティブ課題を抽出したが、ここで考えたいのは、ネガティブ報道を受けた政策対応によって、悪影響の緩和や課題解決への転換を敢えて見出す視点が存在するかどうかである。以下、個々の視点を羅列する。

 

例えば、児童労働の実態告発を受けて、中国政府が調査し違反に対しては契約解除を行う対応が挙げられる。施設建設に絡む事故については、その原因と再発防止策がオープンな形で明らかになっているかどうかが問われる。

 

ドーピング対策は上層部の方針が現場にどれだけ徹底・浸透するかである。胡同の保存・撤去を強制する判断基準は果たしてどこに置かれているのか。北京市の交通渋滞をめぐり、仮に330万台の半分の160万台から170万台になれば、一定の効果を挙げたことになるのか。節水の強制的な徹底が水資源の確保のための郊外農地の犠牲を少しでも緩和する可能性はないのか。

 

北京五輪の中国GDP押し上げ効果が限定的であろうとも、効果額8600億円自体は莫大な金額である。「五輪豚」の真偽はともかく、それは北京にやって来る選手・報道関係者への熱いもてなしの側面もあるのではないか。「空中警察」が国際テロ組織対策の先例となり得るのではないか。社会の相対的平穏を保つための上からの国民意識糾合を全面的に否定することはできないのではないか。

 

北京五輪後の主会場の管理運営はアジア地域におけるこれからの巨大スポーツ施設をめぐる「マネジメント学」の先例となるのではないか。欧米の代表選手・チームの直前日本合宿は選手らにアジア諸国を見る上での多面的な捉え方を提供する機会となるのではないか。

 

入場券販売をめぐる中国国内でのトラブルはたとえ漸進的であっても官僚制組織の改革につながっていくのではないか。引退選手の生活実態が明らかになることで社会意識が変わる方向へ向かうのではないか。施設建設を支える農民工の存在意義がたとえ微々たるものであっても社会的処方箋を生み出す契機となるのではないか。中国政府系シンクタンクによる国内暴動の懸念表明が国民相互の冷静な抑止行動、すなわちソフトパワーの発揮につながるのではないか。

 



[1]  200773日付朝日新聞「卓球会場が火災」。

[2]  2008114日付産経新聞「五輪の中国」。

[3]  20071213日付読売新聞「五輪チケット ゴタゴタ続き」。

[4]  20071020日付朝日新聞「アテネ五輪から3年 施設 進まぬ再利用」。

[5]  200788日付毎日新聞「北京五輪まで1年」。

[6]  200788日付読売新聞「中国疾走 五輪まで1年」。

[7]  200787日付産経新聞「祭典準備 急ピッチ」。

[8]  20071120日付産経新聞「熱烈大陸訪中記2007」。

[9]  2008115日付産経新聞「五輪の中国」。

[10] 200778日付朝日新聞「下請けの労働環境も重視」。

[11] 200812日付毎日新聞「スポーツ「科挙」制度」。

[12] 200813日付読売新聞「直前合宿日本へ続々」。

[13] 200786日付日本経済新聞「モーレツ開発 しわ寄せ市民に」。

[14] 200788日付毎日新聞「『水を北京へ』水路3000`」。

[15] 200788日付毎日新聞。

[16] 2007914日付産経新聞「北京五輪 選手村の「食」の安全は?」。

[17] 2008119日付下野新聞「北京五輪の懸念公表 中国・08年版社会青書」。

[18] 2007824日付産経新聞「中国、北京五輪向け対策テロ訓練」。