土田恵理子030139U
「グローバル・コンパクト」の基本理念または理解のされ方の落とし穴
グローバル・コンパクトとは、グローバリゼーションに起因する様々な課題に対処するために作られた世界的なフォーラムである。1999年1月、スイスのダボスで開かれた世界経済フォーラムでアナン国連事務総長が呼びかけたもので、世界各国の有数企業に対して、人権、労働基準、環境の3分野での9つの原則を支持し、実践するように要請している。各企業には国連、NGOなどと協力して、アナン国連事務総長の言葉を借りれば「世界市場を人類全体に役立つものにするための共通の価値観と原則の創出に貢献すること」を目的に活動することが求められる。グローバル・コンパクトは、規制の手段でも、法的に拘束力のある行動規範でもないが、企業の社会的責任(CSR)を促すものと期待されている。
国連のホームページでのグローバル・コンパクトについての説明の中で次のようなことが書かれてあった。「参加する企業リーダーの皆様は、グローバリゼーションについて、止めることのできない経済的の必然的な流れと考えられていたものの、ごく最近になって、実は非常にもろく、将来が不確かなものであることが判明したという共通の認識をお持ちです。実際、開発途上国に対するグローバリゼーションの影響には懸念すべきものがあります。(中略)グローバリゼーションが持続不可能であることを示しています。(中略)戦略と行動方針を規定しなおすことによって、グローバリゼーションの恩恵をすべての人が享受できるように支援するために設けられました。」これに代表されているものは何であろうか。それは、偽善ではないだろうか。確かに、グローバリゼーションの影響が偏って出ていることをいぶかしく思うのは当然だ。そしてそれを理由に「持続不可能」と認めるまでは謙虚であるとさえいえるだろう。しかしだからといって、「最も困っている人々の利益となるようなプロジェクトを開発し」というのは巧妙な論点のすり替えではないのだろうか。これから受け取られるのは次のようなことである。結局グローバリゼーションが持続可能か不可能かということは問題ではなくて、自分たちの戦略が失敗し、いきづまったために変換をよぎなくされている状況にあり、自分たちが生き残っていくためにはグローバリゼーションを死守する形での糸口を見つけなければならない。そのために、グローバリゼーションに反対派の勢力、つまりは恩恵に乏しい人々をも巻き込む戦略が必要となってくる。しかしそれを打ち上げるのは容易ではなく、多くの人々の信頼を受け、相互理解が進んでいる国連やNGOとの協力によって実現への道を探っていこう、というものだ。究極、民間企業は営利団体である。「最も困っている人」のためではなく、「自社の利益追求のため」が実際の出発点であるように思える。偽善、論理のすり替えといったのはそのためだ。この活動は企業に社会的責任を促すという意味では、確かに画期的であろう。だが、その核となる理念や解釈のされ方に建前のような論理が見えてしまっては、本当に途上国などの多くの人の賛同を得るものになるかは疑問である。
大体、いまのグローバリゼーションに限界があると認めているのならば、なぜそれに固執する必要があるのか。グローバリゼーションの限界はグローバルという視点そのものが原因になったものも多い。原理主義による反発などはその例である。これは根本の発想が相反するというものであり、そのことを無視して「共通の認識/普遍的な原則」と言及するのはそもそも本質を理解していないことを意味しはしないか。本質を理解せずに、あたかもグローバリゼーションの問題は世界市場での恩恵の有無のみであるかのような見方は不可解さを招く。
ここで、このグローバル・コンパクトなる存在を否定しているわけではない。上記で述べたようにその社会的役割、つまり広範囲の利益を視野に入れ、自社のプロジェクトに責任を持つというのはむしろ推進されるべきものであろう。だが、その拠り所となる基本理念には落とし穴があると指摘したいのだ。それは、あり得たたくさんの選択肢の中からグローバリゼーション増進という選択肢を選び、その選択は自分に都合の良い視点から選んだものにすぎないのに、それを善行的な普遍のものとして仕立て上げている点にある。自分にとっての善は時に他人にとっての悪であり、自分にとっての普遍は時に他人にとっての特殊であるという視点がそこには全く見受けられない。確かに、先進国に代表されるコア企業から成る価値観は、世界の中で有力かもしれない。だが、その価値観を世界中の人が「普遍」的に賛同しているわけではない。ましてそれを押し広げてほしいとは必ずしも思っていないだろう。そのことを忘れて、あるいは社会的責任の中に上手く混同され隠蔽された形で、このプロジェクトが理解されるのではないかと懸念する。