Suzukis040119

 

鈴木沙紀「朝鮮民主主義人民共和国に対する日本の外交と世論への印象」

 

  今から二年前、二〇〇二年九月十七日に小泉純一郎首相が朝鮮民主主義人民共和国(以下北朝鮮)を訪問し、金正日総書記との会談をもったというのは記憶に新しいことと思う。他の方々がこの報にどのような印象や感情を抱いたのかは分からないのだが、少なくとも私には寝耳に水のことであった。(恥ずかしい話だが)何故ならその当時の私にとってその国は隣国であるにもかかわらず、特別何らかの印象や知識を持っている国ではなかったのである。

 

  そこで、この国と日本の関わりを私なりの視点で見ていく前に、おおよそではあるが日本と北朝鮮の間に起こった事件や主な動きを追ってみることにする。

 

  日本が連合国に無条件降伏し、朝鮮解放が行われたのは今から約六十年前、一九四五年のことである。その後、北朝鮮が日本に対して国交正常化を求めたのは朝鮮戦争の休戦(一九五三年七月)からしばらくしての一九五五年二月。同年十月に日本の商社と北朝鮮の朝鮮貿易公社の間で取引契約が結ばれ、一九五七年には日朝貿易協定が締結。日朝貿易が開始される。在日北朝鮮人の帰国運動はそれから二年後の一九五九年から一九八四年まで。日本人拉致が頻繁に行われていたのは一九七七年から一九八三年の間とされている。現在では、外交関係はないということになっている。第一回目の国交正常化交渉が行われ始めたのは一九九一年のことであった。そして現在に至るまでに十回ほど交渉がもたれている。この他に両国の外交関係を変化させたラングーン爆破テロ事件や大韓航空機爆破事件など様々な出来事がある。

 

  以上、本当に主な日本と北朝鮮の間の動きのみを見てみた。

 

  これだけを見てみると、最近まであまり日本の政府は北朝鮮と接触を持っていなかったように感じられるがそうではないらしい。北朝鮮との繋がりは政府、外務省を通じてというよりも両国の党同士(共産党や日本社会党、自民党と、労働党)の間にあった。はじめは共産党、そのうちに社会党との関係が強まっていったようである。

 

  勿論訪朝もあった。社会党では一九七〇年にはじめて社会党委員長の訪朝が実現している。その他にもたびたびあったようだ。自民党では、一九九〇年に金丸信元副総理が五日間北朝鮮を訪問した。といっても自民党のみではなく、社会党議員も加わった合同訪朝団である。社民党では日朝首脳会談が行われ、金正日総書記が拉致を認めるまで拉致問題はないという立場を表明していた。

 

  このように少なからず水面下での交渉はあったようなのに、正式な国交正常化交渉は以上に述べたとおり、一九九〇年代にはいってからのことである。

 

  これはどうしてなのかと疑問に思う。もっと早くに正常化交渉をもつことは出来なかったのであろうか。

 

 この政府や各党の動きにたいし、他はどうだったのだろうか。今でこそ北朝鮮に対する批判的な意見が大半を占めているようだが、日本では一九八七年の大韓航空機爆破事件と八十八年のソウルオリンピックまでは北朝鮮に対する評価が強かったようである。これは、私にとっては少し意外なことに思えた。

 

  首脳会談直前の北朝鮮に対する報道はどうであったか幾つかのホームぺージを見て回ったが、あまり多くの記事を見付ける事が出来なかった。具体的な話題や動きがなければ記事にならないのは当然だとも思うが、二〇〇二年の日朝首脳会談まで少なくとも私がまともに新聞の記事やニュースの内容を理解出来るようになってからの間は北朝鮮に関する報道はあまりなかったように思う。

 

  それは、それまでの拉致問題などに関する私達世論の関心の薄さや認識の乏しさがそのまま反映されたものではないだろうか。