misumim013335「現代政治の理論と実際レポート」
「フランスの移民問題〜統合と排斥のプロセスをどう進めるか〜」 a013335 三角光弘
サッカーが好きな人であるならば、フランス代表の面々をご存知だろう。ジダン、アンリ、ビエイラ・・・世界のサッカー史に名を残すだろう猛者達の殆どは、実はフランス以外にルーツを持つ移民2世やそれ以降の選手たちである。(文末の写真参照)ジダンはアルジェリア系の移民2世であり、ビエイラはセネガル出身で渡仏してからフランス国籍を取った選手である(アルジェリア、セネガルはフランスの旧植民地)。私はこのサッカーフランス代表ほど現在のフランス、いや欧州全体の非白人の移民の急増を如実に表すものはないと思っている。このように元々移民だった人とその子供たちがフランス国籍を獲得してフランス代表としてプレーできるのは、フランスが血統主義(両親の一方がフランス人なら自動的にフランス国籍)と生地主義(両親が外国籍でも子供が5年間フランスに居住していればフランス国籍を取得できる等)の両方を取り入れた国籍法を採っているからであるが、フランスに限らず欧州では外国籍の人が比較的容易に国籍を取得でき(日本人から見れば)、大都市に行けば必ず黒人やアラブ系の人たちにあえる。特にパリはアルジェリア、モロッコ、スペイン、ポルトガル、ベトナムと様々な人種の人たちが集う“サラダボウル”である。
フランスには一体どのくらいの移民がいるのだろうか。フランスの場合、全人口に占める移民の割合は7.4%で(1999、国立統計経済研究所INSEE)、パリを含むイール・ド・フランス地方には移民全体の37%が住み、本土の22地域圏の中では群を抜く高さを示している(出典同)。移民の定義とは「外国で生まれた者が長期間フランスに移住する者」であり、「フランス本土内に居住するが、フランス国籍は持たない者」とされる外国人とは区別される。――――(本間圭一 パリの移民・外国人 高文研 2001 9ページ)1999年の統計による移民人口は、定義のフランス国籍を獲得した外国人156万人に、フランス国外で生まれた外国人275万人を加えた431万人となっている。移民を法的に認めていない日本の場合、外国人(外国人登録者)数は1999年で155万人に過ぎず、総人口の1.22%だからフランスの数分の1ということを示せばわかりやすいかもしれない。このフランスでは年々膨らむ懸案がある。それは犯罪発生件数と失業率の増加である。犯罪の内訳は窃盗が最も多く、2001年では前年比8.04%プラス、外国人による犯罪は全体の18.61%であるが、この数字には問題視される移民2世の若者らは含まれていない。彼らはフランス国籍の“フランス人”だからである。(山本賢蔵 右傾化に魅せられた人々 河出書房新社 2003 108ページ)失業率は1997年以降微減を続けたものの、2003年は9%台で推移していた。これはドイツと並んで先進諸国ではかなり悪い数字である。そしてこの社会問題の元凶として、“生粋”のフランス人たちから名指しで非難されるのが、増え続ける外国人、移民特に高度成長期にフランスに渡り、その繁栄を支えた1世の子供たちである移民2世なのである。
フランスの移民問題が拗れてますます移民と“生粋”のフランス人との間に摩擦が生じてしまう。不公平な書き方であることは充分承知しつつ、移民のフランス人への不満が表出した現象のみを紹介しよう。移民側のサンプルはフランスの中で最も数の多いとされるアルジェリア系移民とする。パリで1995年7月25日、地下鉄爆弾テロが起こった。死傷者は90人近くに上り、それ以降も同様の爆弾テロが各地で相次いだ。当局はイスラム原理主義組織による犯行としてハレド・ケルカルという24歳のイスラム系の青年を容疑者として捜索し、潜伏中のケルカル青年を路上で拿捕した後、発砲した。虫の息の青年がまだ武器を持っていることを確認した憲兵隊長は、再び発砲しついにケルカル青年は動かなくなった。青年の死亡を憲兵が蹴りながら確認する――――この“処刑”の一部始終はあるテレビカメラマンによって撮影され、全国ニュースで報道された。この映像がフランス人、特にアラブ系移民に与えた衝撃は計り知れないものがあった。ケルカル青年の24年の一生はアルジェリア系移民2世としてフランス社会で生きる人々の人生そのものといってもよい。ケルカル青年の半生をここに簡単に紹介しよう。アルジェリアで生を受けた彼は、先に渡仏した父の後を追うように母親とフランスへ渡る。フランスでの生活に目処がつき、祖国に残した家族を呼び寄せる――――このような光景は1960年代においてよく見られた。日本と同時期に高度成長に成功したフランスは先進工業化のために大量の労働力が必要となり、旧植民地だったアルジェリアから移民を労働者として受け入れたのである。受け入れたフランス政府は彼らのために住む場所を提供しなくてはならない。そこで大都市の郊外に低所得者用の住宅が建てられていった。パリ、マルセイユ、リヨン・・・この大都市の喧騒の中で働いた労働者たちは、同じ肌の色をした人たちの住む団地シテciteへと帰っていく。移民用の団地が立ち並ぶ地域をフランスではバンリューbanlieue(「郊外」という意味)と呼ぶが、これは現在のフランス社会ではかつてのユダヤ人居住区“ゲットー”に近いニュアンスがあるのだという。つまり、地区外の白人から白い目で見られているということである。ケルカル青年はこのような環境で育ったが、学業の優秀だった彼は白人の通う高校に入学した。しかしそこで受けた疎外感からか次第に学校に行かなくなり、窃盗などの犯罪に手を染めるようになる。彼は就職が出来なかった。それは他の移民2世の子供たちも同様である。高度経済成長が終わると、企業はさらに安い労働力を得るために工場を外国に移転し、移民だけではなく、フランス人労働者でさえも手持ち無沙汰になってしまったからである。彼は絶望の中で投獄され、そこでイスラム教と出会った。盗みから足を洗ったケルカル青年はそのまま敬虔なイスラム教徒となる。イスラムに入信した彼の遺した言葉がこれだ“イスラムを学んで、精神が大きく開かれるのを知った。目の前が開けていった。人生が見えた。楽ではないが、もっと一貫性のある未来が見えた”――――(山本賢蔵 右傾化に魅せられた人々 河出書房新社 2003 153ページ)フランスにいる多くのアラブ人はイスラム教徒といっても厳格に戒律を守っているわけではない。ル・モンド紙の2001年9月の調査ではイスラム教徒の79%がモスクに通っていないことを指摘している。ケルカル青年に限らず、爆弾テロを実行して逮捕された多くの移民2世はイスラムとは殆ど縁も無く一般の学校で教育を受けた人たちだったが、彼らがイスラム原理主義というイスラム教の中でも極端な解釈をする一派の論理に呑み込まれてしまったのは、明確にあそこのだれを敵と規定し、それを殺せばよいという単純さが、彼らにとって極めて分かりやすかったからではないかと思えてくる。ケルカル青年は少し思いつめていたのかもしれない。イスラム教へ入信する移民2世の全てがあのような犯罪行為に走るわけではない。それだけは彼らの名誉のためにも言っておきたいが、ただそういう行動が逆にアラブ系移民とフランス人の距離をますます広げてしまうだけなのはとても悲しいことだ。
フランスへの移民の歴史は古く、繁栄の時代には大量の移民が流入し、労働供給国もフランスの国力が増大すると共に隣国から地中海対岸の北アフリカ諸国の植民地へと拡大していったが、逆に国内が危機の時代には国境を閉鎖して移民の流入を防いできた。フランスは移民を単に労働力としてみていたから、国力の波に合わせて国境の蛇口を開閉していたわけである。さて移民たちは移住先に住んでいたフランス人と「統合」する過程を経なければならない。最近の研究では、過去にフランスに移住してきた人の大半が、そこに定住せずに他の国へ移っていったことが明らかになっている(ジェラール・ノワリエル 「フランスの移民統合モデルは有効か」http://www.diplo.jp/articles02/0201-3.html)移民はどうしてもそれまでいた人より立場が弱くなってしまい、不利な労働環境に甘んじてしまったり、差別の対象になったりする。故国に帰った人もいれば、別の国で根を下ろした人もいたかもしれない。この「統合」の過程はまず移民側の積極的なアプローチが必要である。つまりその地域の人、風俗に“溶け込む”のである。それは決して自分たちの生活習慣、アイデンティティを完全に捨て去って郷に従うというわけではない。ここは現在でも世界各地で争いの火種になっている難しい問題ではある。しかし移民側が現地に溶け込もうとせず、自分たちの閉鎖的なコミュニティーを築いてしまえばおのずと周囲のマジョリティーから爪弾きにされてしまうというのは、長い間迫害を受け続けて欧州各地を転々としていたユダヤ民族の例をとるまでもない(もちろん積極的に地域に溶け込んだユダヤ人は大勢いたのであろうが)。移民の統合は現地の人との結婚やポジティブな助け合いによって築き上げる長年の信頼関係、就労の平等化などによってほぼ完成されるといっていいのではないだろうか。そう考えると先の例であげたアルジェリア系移民と生粋フランス人の間はまだまだ統合が完結してないということができる。しかし殆どイスラムの教えを守っていないという大半のアラブ人が閉鎖的なコミュニティーを積極的に形成することがもしあるとすれば、“それはアラブ人がシテ(前出の団地)に閉じ込められているからだ、白人の世界に足を踏み入れると嫌がらせや警官まで飛び出してくるから身を守るために寄り添っているのだ”というアラブ人の肩を持った主張が私の頭をもたげる。すると私の頭で白人がこう反論する――――“君たちは犯罪を犯しすぎる。あなた方のような危険な人たちとは一緒に住めない。ここはもとはといえば私たちの土地だ”と。こうなるとどうしようもない。お互いに不信感が強すぎる。ここは社会学者アズズ・ベガグの証言を信じたい。もちろん移民はアラブ系だけではないけれども――――“フランスのマグレブ(北アフリカ)出身者は統合主義である。その証拠に、彼らには異民族間結婚が非常に多い” ――――(ラバ・アイト=ハマデゥシュ 「アラブ系フランス人の政治意識」http://www.diplo.jp/articles02/0207-2.html) そしてバンリューのシテに住むアラブ人と白人の積極的な交流も数多くある。
さて、「統合」の過程を先に取り上げたなかで何度も登場したように、異文化同士が溶け合うときには必ず両者の反発があるものである。これがなかなか融和せずに相手を「統合不可能」な相手としてしまうと「排斥」が始まる。フランスでは“1970−80年代の間、歴代政権が移民問題に本格的に取り組んだことはなかった。19世紀末以来、移住者とその子孫は、政府や専門家が取り組まずともフランス社会に溶け込むことができた”(ノワリエル氏の前出の論文)これはそれまでフランスに流入してきた移民がおもに隣国のスペインやイタリア、ポルトガル、戦前はポーランドら東欧諸国と、同じキリスト教文化圏の国の出身の白人であったために現地のフランス人とそれほど軋轢がなかったからだと考えられるが、フランス政府が手をつけなかった第二次世界大戦後の高度成長期に押し寄せた大勢の移民は今までと勝手が違った。彼らが肌の色も宗教も生活習慣も違う人たちだったからである。フランス人たちは増え続ける“異邦人”の存在に次第に不安や嫌悪感を抱くようになったのだろう。こういう言い方はいやだが、もともと白人以外の人種や文化を見下すような意識が潜在下で眠っていたのに、あまりにその数が増えすぎると“寛容の国”“人権の国”の民も我慢の限界だったのかもしれない。それは一気に爆発したかのように見えた。何も知らなかった外国の人、特に日本人の私には。2002年フランス大統領選挙で極右政党「国民戦線」の党首ジャンマリ・ルペン氏がジョスパン首相を破ってシラク現大統領との決選投票に進出したのだ。当初フランス、日本も含めて世界のマスコミはルペンは危険、フランスは彼を大統領にしてはならないと騒ぎ立てた。1999年にオーストリアで極右勢力と目された自由党が連立政権に加わったことが、欧州でただならぬことが起こったことを伝えたばかりなのに何故よりにもよってフランスで?という思いが多くの人にあったのかもしれない。私はその頃単純に極右は道義的に悪だと鵜呑みにして決め付けていたが、政党にレッテルを貼ることではフランスやオーストリアだけではなく、イタリアやオランダやドイツなど欧州各地で起こっている急進的右派勢力の台頭を理解することはできないだろうと今は思っている。これらの勢力の主張は乱暴にやれば一つの言葉に集約できる。「移民排斥」である。フランス人にとってのアルジェリア人や黒人であるように、ドイツでのトルコ人、オランダ人にとってのスリナム系の隣人が憎悪、排除の対象になっている。急進的右派は議席を増やすためにひとりのポピュリスト(煽動家)をトップに戴いている。ポピュリストの主張は明快である。――――“あなたの国が弱くなり、あなたの生活が脅かされ、あなたの身の安全が危機に瀕しているのは、あなたの隣りにいる肌の色が違う人があなたの国にいるからだ。そいつらは追い出さなくてはいけない。” ―――― 扇動家である彼らは聴衆にわかりやすい論理で説明する。イスラム原理主義と極右の主張は敵を決めて極端に排他感情を煽るという点では似ていると思う。
フランスは、欧州はこれからどこへ向かうのだろうか。いつかまたヒトラーのような人間が現れて人々を民族主義の熱狂で包む時代がくるだろうか。フランスではその後、国民戦線が議席を減らし、ハイダー氏も政権から去った。フランスでのイスラム原理主義は下火になった。しかしこれで一時の強烈な「排斥」の嵐が鳴り止むとは思えない。いや欧州の現場では私たちの目にはとどかない「排斥」の暴風が吹き荒れているのかもしれない。しかし彼らはいつも争っているばかりではないと思う。「統合」もある場所で確実に実現されているはずなのだ。結局異なる文化同士が「統合」と「排斥」のはざ間を揺れ動いている。時の政権政党によってその方向はどちらかに偏ることはあっても、個人が違う人種の人と仲良くするか毛嫌いするかは自由であるはずだし、政治や法律、人がこの二つのテーゼを常に揺れ動きながら徐々に一つの方向にまとまっていくことでしか移民問題を解決するのでは難しいのではないか。素人ながらに考えるのは、移民の子と他の住民が将来に渡って平等に扱われる基礎となるのはとにかく教育だと思う。フランス移民に関する本を読んで思ったのは移民の子供がとにかく学校に行っていない。行ってもそこで暴れている。読み書きができない子が多い。これでは将来社会的基盤と心の準備が整っても肝心なコミュニケーションツールがないから他の子と同じ土俵に立てない。それから欧州は移民制限をもっと厳しくするべきである。これは日本に対しても同じ考えだが、“知的な移民”つまり学業や研究、スポーツ、芸術などの分野で活躍が見込まれる人なら戦略的に入国を奨励してもよいが、もう労働力目的で手ぶらの移民を入国させるべきではないと思う。そんなことは人道に反するのではないかという声が聞こえてきそうだが、欧州は既に飽和状態であり、これ以上移民を入国させてもお互いを不幸にするだけである。人は自分の土地だ思っているところに見かけの全然違う人が増えすぎることをどんな人種であれ良くは思わないし、全ての人間が博愛主義者ではないことは明らかだ。フランス政府や国民の移民に対する大きな間違いの一つは、彼らには移民を労働力という概念で捉えて、生活者で自分の隣に住む人間という考えが足りなかったことだ。彼らを請け負った金銭的、社会的責任はその国の主人たるフランス人が負うべきなのだ。外国人参政権や移民規制の問題を抱える日本にとってもこのことはとても示唆的である。日常の生活空間を外国人と共にしない今の日本人に、大量の移民を受け入れる度量があるとは思えないが、少子化が避けられない日本にとってフランスの経験を生かしながら経済成長と移民受け入れ、そして最も大事な日本人の心の問題をどうバランスを取りながらソフトランディングしていくかに私の未来の隣人と日本の将来がかかっているような気がしてならない。
写真:サッカーフランス代表イレブン、ジダン(後列右から3番目)、アンリ(前列右端)、ビエイラ(後列左から2番目)