2002129日 現代政治の理論と実際 増保智久 作成ノート

 

朝鮮民主主義人民共和国についての調査4

 

東京・ワシントン・北京・ヨーロッパ対北情報網密着取材 特殊!「小さな将軍」金正男の秘密行脚

http://www.infovlad.net/underground/asia/nkorea/ref/kimjungnam_special1.html から抜粋

金正男ミステリー第2弾 金正日・金正男、愛憎の父子関係

http://www.infovlad.net/underground/asia/nkorea/ref/kimjungnam_special2.html から抜粋

 

金正日の長男、金正男について

 

1.日本での逮捕事件

 

2001年5月1日、彼が日本で逮捕されて以来、日本政府は金正男の指紋を確保し、逆追跡調査を行っている。日本の法務省と外務省は東南アジア諸国はもちろん、米国、フランス、カナダなど、金正男が偽造旅券で日本入国ビザを申請する可能性のある国の日本大使館や総領事館に、金正男の指紋を送って詳細な調査を指示したことが伝えられた。

 

金正男が日本に行ったのは、北朝鮮がイラクに輸出したミサイルの輸出代金を集金するためだった。北朝鮮は、最近、SAM16A(肩撃ち式対空ミサイル)300基をイラクに輸出し、金正男は、この金を取り纏めていたのである。イラクは、SAM16Aの代金をスイス、香港、シドニー、東京に分散して預け置いていた。代金を送金したところは、ロンドンだった。

 

日本公安関係者からの情報によると、金正男一行を66時間調査した日本公安調査庁は、金正男が北朝鮮のミサイル輸出代金を集金するために、東京に来たという事実を明らかにしたのである。北朝鮮は、最近、SAM16A(肩撃ち式対空ミサイル)300基をイラクに輸出した。金正男は、この金を取り纏めようとしたのである。イラクは、SAM16Aの代金をスイス、香港、シドニー、東京等、4ヵ所の秘密銀行に分散して預け置いた。代金を送金した地域は、国際金融中心地であるロンドンである。ミサイル販売代金のような巨額が移動すれば、国際情報網に露出する危険が大きい。イラクは、西側情報機関の監視網を避けるため、販売代金を4ヶ所に分けて送金した。ロンドンを最初の送金地に託した理由は、夥しい規模の国際資本が移動するところであり、現金移動を隠すのが容易いためである。

成田空港で逮捕される前の金正男の旅行ルートを見れば、イラクが販売代金を分散して預け置いた都市4ヶ所と正確に一致する。彼は、日本に来る前、オーストラリアのシドニーに行き、ミサイル販売代金4包みの内の1つを中国の秘密口座に送金した。金正男がミサイル販売代金を洗濯する場所は、中国だった。中国で洗濯した後、この金を平壌に送る方式である。彼は、3都市に分散して預け置かれたミサイル代金を全て取り纏めた後、残り4分の1を集めようと、東京に入ったが、首根っこを掴まれたのである。

 

2.なぜ金正日は金正男に危険な代金収集を任せたか

チャン大使は、金正日の絶対的信任を受けていた人物で、北朝鮮の外交政策決定過程に対して、内密の情報を持っていた。その上、チャン大使と一緒に亡命したチャン・スンホ、パリ駐在北朝鮮総代表部参事官は、10年以上、海外で外貨稼ぎの専門家として勤務したために、北朝鮮の外貨稼ぎの実態を誰よりも詳細に把握していた。

黄長[火華]氏とチャン大使が亡命した後、金正日委員長は、誰も信じられなくなった。そのような状況においては、信じられるのは家族の外になかった。それで、金正日は、政権を支えるのに最も重要な「現金」と「軍部」の核心業務を長男に任せたのである。

 

3.金正男の北朝鮮での地位と長男としての立場

金正男事件の核心は、彼が北朝鮮内でどのような存在かという点だ。彼の位相がまさに彼の役割を規定できるわけだ。しかもこれは金正日の後継構図とも連結する問題だ。これに対しては二種類の解析が交錯する。

最初に金正男は頭の悪いならず者で、ミサイル輸出の責任者や情報通信産業の総責任者など、何らかの役割をするということ自体が不合理説という主張だ。この解釈に従う彼らは、金正男の東京への密入国はいかなる任務を遂行するための訪問でもなく、単純にディズニーランドに遊びにいくためのものだ、と分析する。

二つ目は長子論だ。誰が産もうが、儒教伝統が支配する北朝鮮社会では長男を無視することができないため、金正男は今回の恥さらしな行為にもかかわらず、まもなく現業に復帰するはずだ、との主張だ。

 

4.金正男逮捕事件の南北関係への悪影響

米国は、現在、北朝鮮をならず者国家、不良国家又はテロ集団として規定している。金正男事件でこのような認識は、更に固まった可能性が高い。最高権力者の息子が疚しく不法的な方法で外国に出入するのを見て、全世界は、北朝鮮政権が「異常な国の異常な権力集団」という認識を再確認した。その上、欧州連合(EU)議長国であるスウェーデンのフェルソン総理が訪朝し、金正日のソウル答訪が準備されている時点に起こった今回の事件は、南北関係と韓国の世論にも、大きな衝撃を与えた。

昨年の6.15南北頂上会談以後、我が国民は、金正日国防委員長が過去のイメージとは異なり、非常に明晰で、対話が可能な人物と考えた。しかし、今回の事件を見て、そのような認識は、大きく変わった。1995年以後、数百万が飢えていた北朝鮮の最高権力者の息子が最高級の衣類とアクセサリーを纏って、鞄にドルの札束を一杯身に付けたまま、旅行をしている事実を納得するのは難しかっただろう。

何よりも、この事件は、金正日国防委員長の大きな金蔓の中の1つを断ち切った。北朝鮮に実質的な助けを与えていた現代の支援すら物足りない中で、これは、深刻な打撃でない訳がない。その上、他人を信じられず、実の息子を動員して、外貨を調達しているが、その存在すら露出したのは、痛いことではない訳がない。西側の対北朝鮮工作は、1日、2日で行われたものではない。これに対応する金正日政権の身動きの幅は、過去よりもだんだん狭まっている。

韓・米・日間に戦略情報が共有されていない点も、深刻な問題である。今回の事件は、ブッシュ行政府出帆以後進行した米韓間の不協和音を剥き出しにして見せた事件だという指摘がある。今回の事件に対する情報を最初に流したのが、本当にCIAならば、ブッシュ行政府は、朝鮮半島政策を「対外政策」として接近するのではなく、「工作」次元として接近するものと見ることもできる。これは、一言で言って、太陽政策を展開する金大中政府に大様に対応しないということである。

大部分の北朝鮮専門家は、金大中政府が朝鮮半島問題に中国、ロシア、EUを引き入れることに対して、米国は、自国の対北朝鮮政策を孤立化しようとする意図で見ていると語る。遺憾にも、金正男が東京で捕まった時期は、フェルソン総理が南北を行き来して、和解のメッセージを伝えていた時期だった。

米国事情に精通したある情報関係者は、「昨年9月初め、北朝鮮最高人民会議金永南常任委員長をひどく身体検査して、米国訪問を取り消させたのは、クリントンの意思とは関係ないCIAの工作だった。金正男事件の意味も、これを連想させる」と語った。

ある北朝鮮専門家は、ブッシュ行政府が「金正日の国家権力を解体する作戦」に着手し始めたと分析した。金正男事件は、その信号弾ということである。

 

5.正男と金正日、金日成

金正日には長男、金正男がはじめから堂々と提示することのできる存在ではなかった。金正日が人妻の成恵琳を連れて生活したことからして、北朝鮮では極秘事項だ。

金正男の生母である成恵琳の最初の夫はイ・ピョン(当時、金日成総合大学の研究者)で、舅は作家同盟委員長の李箕永(越北)だ。日帝時代、カプ(KAPF)を代表した有名作家の李箕永は、金正日が自分の息子の嫁を強奪すると、これに抗議する意味で以後、生涯絶筆した。

北朝鮮社会は社会主義思想がいかなる国より濃厚な共産国家だが、伝統儒教文化圏の倫理観が強調されている。北朝鮮政権の創始者である金日成主席自身も儒教教育を受ける。このような父の下で、金正日は極秘裏に成恵琳と生活し、自然に息子である正男の存在も初期には公開することができなかった。

金正日は、金正男が産まれた事実を金日成にも隠した。この問題で金正日と成恵琳はいつも争った。成恵琳は金日成に正式に話して、息子の嫁として堂々と認められたがったが、金正日はこれを防がねばならない境遇であった。成恵琳が神経性疾患にかかったのも、このためだ。

当時この問題で、金正日の妹の金京姫が成恵琳に対し、金正男を自分が育てると提案したこともあったのだが、成恵琳は受け入れなかった。金正男を奪われれば自らが立脚する場所がなくなるためだ。このような争いは成恵琳の病気を加速した。さらに金正日が金英淑と結婚し、高英姫ら他の女性と生活を整えると、成恵琳の病気はより一層悪化した。

金正日は成恵琳の存在を隠すため、軍保衛司令部(司令官・元応煕)要員をモスクワに送り、金正日と成恵琳の関係をすこしでも知っている留学生を満遍なく呼び入れた。北脱出者金ギルソン氏の手記には、自分がなぜ国家保衛部に捕らえられていったのかが出ている。彼の罪目は、私席で金正日と成恵琳の関係を話した、ということである。北朝鮮では金正日と成恵琳の関係を知っていること自体が罪になるのだ。

 

金正男が三歳なった頃から、金正日には金日成が定めてくれた女性(金英淑)がおり、また高英姫と同様なほかの女性もいた。

金正男が十歳の時である1980年、スイスに留学することになると、金正日は娘を嫁がせる母親よりも悲しんだという。金正男の家庭教師だった成恵瑯氏によれば、金正日は酒を飲んで子どものように泣いたということだ。1980年3月、金正男がスイスのジュネーブに到着した後に、金正日は毎日のように金正男に電話をかけた。成恵瑯氏によれば、この父子は懐かしさゆえに電話線を通じてお互い泣いたという。

 

6.金正男の平壌生活と現在の地位

2000年11月頃、北朝鮮側がラエナック病院に特別な「要人」が心臓疾患を治療するため、病院を訪問するので、治療してくれと要請したという。病院側は、北朝鮮側が送った患者の身上記録を見て、驚いたという。「要人」が7歳に満たない子供だったためである。その上、随行する警護員が数十名もいた。

病院側は、尋常ではない人物であることを悟り、「金ナムイル」という名前を使ったこの子供の患者の身元を確認するため、四方に聞きまわった。その結果、「金正日の知られていない息子」と結論を下した。しかし、子供の患者「金ナムイル」は、訳があって、この病院に来て、治療を受けることができなかった。この関係者によれば、ラエナック病院に身上記録を送った子供と東京に金正男と一緒に現れた子供が同一人物であるということである。

最悪のイメージで国際舞台にデビューした金正男は、5月4日、北京空港に到着した後、再び消えた。その後、真っ直ぐ平壌に戻って行った。平壌に戻った金正男は、どのように暮らしているのか?

 

去る3月、金正日の誕生日頃、平壌を訪問して、金正男の家で開かれたパーティーに参席し、彼と一緒に時間を過ごしたA氏の証言は、次の通りである。

金正男と一緒に交わるグループが20余名いるが、彼らは、金容淳、張成沢、趙明録等、北朝鮮最高首脳部の子女だという。彼らは、中国で言えば、「太子党」と似た存在のようである。

黄長[火華]氏が亡命する前には、黄氏の息子もこのグループに属していたが、今は、地方農村の職場に転出したという。黄氏の息子は、事実、銃殺対象者だったが、金正男が保護して、銃殺を免れたという。

金正男は、平壌の外交街にある平壌駐在ロシア大使館の横に大きな家を持っているが、この家で最高位層の子女グループとしばしばパーティーを開く。この家は、軍人が警護しているという。家の中には、大きなTV(CNNと日本のTV、韓国のTVまで見ることができる)と日本・米国のポルノフィルム、カラオケ、ゴルフセット、猟銃、ビリヤード台、値が張る洋酒まで備えているという。A氏によれば、金正男は、音楽鑑賞が好きで、日本のTVを見て、A氏一行に日本の若い歌手のCDを買ってくることを頼んだという。

金正男は、平素、ベンツ380を乗り回し、彼がこの車に乗って出るときは、前後に護衛車両が付くという。彼は、ヨットも持っている。このヨットに乗って、大同江で舟遊びをするという。このように豪奢な生活を証明するように、日本の成田空港で逮捕されたとき、金正男の鞄の中には、約10万ドルがあり、財布の中にも3cm厚の100ドル紙幣、日本の1万円札が一杯入っていた。金正男は、金のネックレスをかけ、手には、ローレックスの白金時計をはめていた。女性2名が持っていたハンドバッグは、ルイビトンとイタリア製品だった。

金正男は、北朝鮮で海外輸出を目的に開発中であるソフトウェア事業開発分野において、主導的任務を担当している。未確認報道によれば、彼は、2年前、エリート・コンピュータ専門家を養成する目的で設立した政府委員会の責任者に任命された。北朝鮮は、ソフトウェア工学を促進して、海外情報技術(IT)投資を誘致するため、平壌に大型コンピュータ・センターを設立した。ソフトウェア開発は、金よりは頭脳に依存する。北朝鮮がこの分野に力を入れているのは、このためである。

また、金正男は、「小さな将軍」と呼ばれ、人民軍大佐(韓国軍の大領に該当)の階級章を付けた人民軍服を着て、金日成総合大学大学院に在学中であるという。現在、彼が担当している職位と関連しては、「朝鮮民主主義人民共和国コンピュータ委員会委員長」、「人民軍保衛司令部核心幹部」、「国家安全保衛部幹部」、「労働党総務部幹部」等、噂だけがはびこっている。

 

7.金正男の留学経験

金正男が自由に外国を行き来するのは、彼が子供の時から外国生活を行ったためである。金正男は、平壌で教育を受ければ、井の中の蛙となりやすく、将来、父の跡を継いで政治をしようとすれば、外の世の中を知らなければならず、子供の時から外国留学をした。

金正男の義理の兄である李韓永氏が書いた「大同江ロイヤル・ファミリー、ソウル潜行14年」によれば、金正男の留学対象国として先ず最初に浮かび上がった国は、ロシアだった。しかし、ロシアはだめだという結論が下された。ロシアは、北朝鮮が良く知る国では大きく習うことがないということだった。

南朝鮮統一まで念頭に置けば、教育は、資本主義国家で受けるのが良いという意見だった。それで、北朝鮮当局は、資本主義国家の中でも、教育システムが最も優れた国を選んでスイスを選択し、その中でも、ジュネーブ国際学校を選んだ。

ジュネーブ国際学校は、スイスでも最も名望ある学校である。インドのガンジー等、著名な人物が通り過ぎ、歴史と伝統が深い学校である。1つの班の定員が10名以内で、教育は、円卓を囲んで行われる。登録金が高くて、1月に1,000ドルを超えたという。

しかし、北朝鮮でも、誰もが資本主義国家に留学できるわけではない。金正日の直系家族でなければ、夢にも見られない。金正日直系家族の中でも、資本主義国家に勉強しに行ったのは、金正男が最初だった。他のロイヤル・ファミリーは、大概、ロシアや、チェコ、フランス、中国に留学する。李韓永氏は、金正日と高英姫の子供である金正哲(20)がスイス、ベルンの国際学校に通ったと回顧した。

金正男がジュネーブ国際学校に入学していたとき、事件が1つ起こった。国際学校らしい学生達が自分の国の国旗を持って、入学式に参席するが、金正男だけ国旗を持っていなかったのである。

当時、スイス駐在韓国大使はノ・シニョン氏だったが、入学式に来ていたノ大使が国旗なしに立っている「東洋の子供」を見て近付いた。後ろに立っていた警護員がピンと緊張したが、ノ大使は、金正男に近付き、どの国から来たのか訊ねた。金正男は、大きな声で「平壌から来ました」と答えた。

ノ大使は、驚いたが、金正男の頭を撫でて行ったという。金正男は、このときからフランス語を習った。李韓永氏が81年の夏休みに来た頃、金正男は、フランス語を流暢に駆使したという。このとき、金正男と李韓永氏は、スイスは勿論、オーストリアのウィーン等、各所に遊びに行ったが、金正男が継続して通訳をしたという。

金正男は、ジュネーブで2年程度勉強したが、1982年春帰国した。家の付近で韓国の自動車が目に止まったためだった。しかし、以後、金正男は、モスクワのフランス大使館学校で学業を継続した。84年に、彼は、再びジュネーブに行き、国際学校に編入された。10代時節、彼のジュネーブ留学は、順調ではなかった。学科勉強に興味を持てず、同年代の友人と付き合う術も知らなかったという。思春期に寂しい外国生活を送り、あるときは、酒と女性に溺れた。結局、彼は、留学生活を全て終えられずに、1988年、再び平壌に戻った。

 

8.日本の情報収集能力

日本には、情報機関だと言える機構が3群ある。

内閣調査室は、韓国の国情院に該当する情報機関である。しかし、ここの人員は、300〜400名に過ぎず、直接動かす人員もいない。ここは、米国に見立てれば、中央情報局(CIA)の上級機関であるNSA(米国家安全保障会議)のような現場から上がってきた情報を分析する機関である。ここから集合分析された情報は、そのまま総理に報告される。内閣調査室は、捜査権や、逮捕権がない。しかし、内閣調査室の最高幹部は、内務省次官と法務省次官、警視庁長が担当しているので、内閣調査室長は、警視総監が担当する。

内閣調査室の手足の役割を行う機構が法務省傘下の公安調査庁である。公安調査庁は、内閣調査室の指示に従い動く工作機関であり、捜査機関である。防衛庁通信室(FI・別班)は、監聴のみを行う機構である。太平洋戦争を戦った国家である日本の監聴水準は、世界最高水準である。2次世界大戦当時、スターリンがドイツに送った間諜ゾルゲを捕まえたところは、ソウル龍山の日本軍駐屯基地だった。日本が通信情報に有利なことは、一名「象の檻」と呼ばれる巨大なアンテナを北海道、その下にある愛媛県と沖縄県に設置しているためである。

このように強大な情報力を持っている日本が米国に劣る分野は、映像(LCD)情報である。米国は、かなりの情報は、宇宙空間の衛星から撮った衛星写真で得る。