修士論文 上ノ段憲治『地方都市における中心市街地活性化のあり方―香川県高松市の活性化対策を事例に―』を読んで                               

中村祐司

 

中心市街地の活性化という日本全国の街に共通する極めて困難な課題を対象に、その解決策を探った論文である。

第1章で中心市街地をめぐる衰退の諸要因、制度的対応や変遷などについてまとめ、TMOのパターン等にも言及している。そして、第2章で高松市を事例に、中心市街地の概要や対策、課題について一次資料にもとづいた整理と考察を行っている。3章では前章での成功例(あるいは成功裡に推移しつつある取組み例)をも視野に入れながら、中心市街地の「あるべき論」ともいうべき展開に入っていく。すなわち、高齢者の生活視点を基点とし、介護サービスを絡ませた形でのまちづくりや中心市街地の在り方について検討されるのである。

同章第3節では、人と人との”face to face“の関係が重視され、世代間の垣根を越えた空き店舗利用などが提案される。「おわりに」にあるように全体を通じて行政の「コーディネータ的役割」や民間企業、NPOとの連携が強調される。そして、帰結的に、「中心市街地の問題は、物理的な視点が強調され、ソフト的な文化や哲学があまり重要視されていない」として、「コミュニティーに対する意識改革」に加えて、居住者用サービス施設の充実、騒音問題の解消、産業創出対象地区の設定、車両の制限と歩行空間の確保などが提言される。

 特に第1章を書き上げる上で、インターネット情報の利用も含め、関連文献の読み込みとその把握や整理に精力的に取り組んだ点は評価できる。第2章の高松市の事例についても、もう少し一次資料の収集やインタビュー活動を広範囲に展開できなかったかという思いはするものの、入手し得た資料の範囲で丁寧に事例を紹介しており、資料的価値も含めれば、両章間の連結は総論と事例ということになり違和感はない。

 ところが、第1章と第2章を踏まえて、第3章で上ノ段君による独自の視点に立脚した「中心市街地活性化論」ないしはその設計が展開・提示されると思ったものの、残念なことにその中身については質量ともに課題が残ったといわざるを得ない。確かに高齢者に焦点を絞った上での中心市街地の在り方を取り上げたこと自体、ユニークな視点の表れであるし、中心市街地の課題を考察する上で高齢者の存在は避けて通れないであろう。しかし、そのことと、特に第1章で展開したような中心市街地をめぐる「総論」とでもいうべき内容との間の「乖離」がどうしても気になってしまう。

 要するに第1章の制度紹介や広範に及ぶ問題提示の「重厚さ」と、第3章の生活価値観に立脚した「あるべき論」とが噛み合っていないのである。確かに第3章でも例えば、「介護対応型マンション」の事例が挙げられており、これがモデル事例としての意味合いを持っていることは分かる。しかし、ここでは第1章第2章の勉強の蓄積を踏まえつつ、本論文のテーマに関わる制度設計なり、政策設計なりが上ノ段君独自の構想力にもとづいて重層的に展開されなければいけなかったのではないだろうか。「おわりに」における論点整理がきちんとなされているがゆえに、第3章の内容の相対的希薄さが余計目についてしまった思いがした。

 「中心市街地の活性化」と「高齢社会における中心市街地の活性化」はほぼイコールなのであり、例えば、「高齢者のための中心市街地活性化」「高齢者を活用した中心市街地活性化」「世代間の交流達成に向けた中心市街地活性化」など、中心市街地をどのような視点から検討していけばよいのか、論文の最初に明確にし、その視点にもとづいて章を展開していくという手法もあったかもしれない。

 そうはいっても極めて困難な政策課題、生活課題、社会課題でもある本テーマに果敢に取組み、高齢者に視点を据えた世代間交流も含めた中心市街地の活性化やまちづくりにこそ、課題克服・解決の方策を見出したことの意義は否定できない。修論作成の経験を今後、大いに生かしてほしい。