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宇都宮大学国際学部 講演会

「野宿に追い込まれる労働者と私たち」

藤井 克彦 氏(笹島診療所)

20011112

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去る11月12日、宇都宮大学会館多目的ホールにて、平成13年度国際学部国際社会学科主催の講演会が行われました。講師の藤井克彦氏は、現在、名古屋市にある笹島診療所のケース・ワーカーとして、野宿を余儀なくされている人々の生活面や医療面での相談にのっている方です。日本では、ホームレス問題への関心は1990年代に入ってから、特にここ数年高まってきたわけですが、藤井氏は1970年代の後半からいち早くこの問題に注目し、ボランティアとして支援活動に取り組んできました。藤井氏は、1990年代に入ってからは「林訴訟」の事務局として、野宿者の生活保護獲得の闘いにも精力的に取り組んできました。講演会では、20数年におよぶ支援活動の体験を交えながら、野宿者が生み出されてしまう社会的背景や野宿生活の厳しい状況がリアルかつ具体的に語られると共に、日本社会の制度や仕組み、そして日本社会に暮らす人々への問題提起が多様な観点からなされました。当日は100人近い参加者があり、質疑も活発に行われ、非常に盛況な講演会となりました。なお、夜には懇親会が行われ、20名程度の参加者のもとで活発な議論が続けられました。

 以下に、当日の講演内容の要約を掲載します。

                                              

議事・進行 田巻松雄(国際学部教授)

総合司会  片桐雅義(国際学部教授国際社会学科長)

 

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左から片桐雅義氏、田巻松雄氏、藤井克彦氏の3氏

 

 

一、なぜ日雇い労働問題・野宿問題に関わったのかー自己紹介を兼ねてー

(1)1965年に工学部工業化学科を卒業して、名古屋の化学会社に就職。

   研究所に勤めていたが、会社の不当労働行為や賃金格差に疑問を感じる。

(2)1973年の「オイルショック」を契機とする深刻な不況。1975年に横浜・寿町の日雇労働者を描いた「どっこい!人間節」とその上映運動。不況により仕事がなく、全国的に多くの日雇労働者が野宿を強いられる状況を知る。

 その直後の「息たえだえ労働者の街」や、「職も食もなく一円玉残る懐。“餓死”今年も11人」という見出しの新聞記事を見る。

@資本主義社会における失業問題ととらえる。

A「豊かな日本」の中で何故同じ労働者が餓死・凍死していかねばならないのか、同じ労働者として日雇い労働者を見殺しにしてよいのか。

(3)「日雇い労働者を見殺しにするな!」。1976年1月中旬より名古屋駅周辺で野宿を余議なくされている日雇労働者におにぎりとみそ汁配り、医療活動を開始。その後色々なことを経験しつつ、198510月に活動の拠点として名古屋駅前に笹島労働者会館を設立(3600万円の借金)。そこに笹島診療所も設立し、無料の診察や医療・生活相談。

  ・1987年8月に会社勤めを辞めて活動を継続。

  ・2000年4月、笹島診療所職員となる。

 

二、「豊かな日本」の中の貧困問題ー野宿を強いられる日雇労働者ー

(1)「貧しい日本」から「豊かな日本」へ

       戦後日本の民衆は貧しかった(豊かなアメリカと貧しい日本)・・・敗戦直後には、路上に貧しい人があふれていた。「浮浪者」と言われた人たち。 

・ 「豊かな日本」へ・・・1955年以降の高度経済成長のもとで「所得倍増」。

  都市に工場をどんどん建設し、第三世界から資源を安く輸入して、製品をつくって輸出。そして、「豊かな日本」へ。

 ・ 「豊かな日本」を可能にした理由には、

  @「南の世界」(「第3世界」)から、資源を不公平に安く獲得(収奪)。

  A都市で必要な労働力の確保(零細農業をつぶすために1961年農業基本法を制定。エネルギー政策の転換で炭坑ををつぶす。そうした地方で失職したり食べていけなくなった人を、都市に吸引し労働力とした。「金の卵」)。(出身地:地元、九州、北海道・東北など。)

 B 工業の発展には、道路・鉄道の建設、工場の建設が必要。基盤産業としての建設産業は、重層的な下請構造をもち、その末端で日雇労働者が必要とされた。高度成長期に日雇労働者が仕事を求めて集まる「寄せ場」が大きくなる(大阪・釜ヶ崎、東京・山谷、横浜・寿町、名古屋・笹島など)。労働・生活環境は劣悪で、警察などによる差別事件もあり、釜ヶ崎などで暴動が起こることもあった。現場で追い回され働かされ、労災で亡くなっていった多くの労働者。底辺労働者の使い捨てが「豊かさ」を支えてきた。

  C「生産優先主義」・・・公害列島。労働災害・職業病の多発。過労死。

 

(2)豊かな日本の中での日雇い労働者の状況ー私の体験からー

 @産業予備軍としての日雇い労働者

  ・仕事がある日は雇用され、仕事がない日は雇用されない。景気の調節弁としての日雇い労働者(退職金は要らないし)。 

  ・建設産業は、最底辺で日雇い労働者を組み込むことで、成立している。

  ・他の産業でも、「気軽に使える」日雇い労働者を使うことがある。

  ・日雇い労働者を必要としている社会。誰かが日雇い労働者にならざるを得ない社会(現在は、パート・アルバイトなど不安定就労者の比重が増大)。

  A建設(土木・建築・港湾)産業で使い捨てにされる日雇い労働者

  ・重層的な下請制度の下でのピンハネされている。

  ・現場生産という特徴により、現場を求めて転々とせざるを得ない面あり。

  ・新年度から梅雨の時期には仕事が激減。他に盆休み。年末から2月にかけて少なく なる。雨の時にも仕事がない。

  ・下請制度の最末端での労働力の選別・確保に暴力団などが介入。業者による暴力支配が未だにある。飯場の問題(タコ部屋、半タコ)。

  ・労働法違反が日常茶飯事(契約違反、賃金不払い、労災もみ消し、など)。

  ・労働災害の多発(政府統計でも年間10万人以上の死傷者。全産業の半分から1/3の労働災害)。

  B不安定な就労と劣悪な労働条件からくる不安定な生活

  ・仕事を求めて、転々と・・・定住しにくい条件。

  ・同じ地域に住むにしても、出張などがあるのでアパートでなく簡易宿泊所(ドヤ)に住む人も多くいる(名古屋ではドヤが少なく、ドヤ代も高い)。

  ・日雇い労働では、安定した収入が得られない。

  C日雇い労働者に対する社会的差別

  ・「住所不定者」差別。行政も、飯場やドヤ住まいでも「住所不定者」扱い。

 ・「肉体労働」に対する差別→「労務者」。  

 ・野宿労働者に対する差別。

 

(3)平成大不況と産業構造の転換

  平成大不況と産業構造の転換により、日雇労働者だけでなく、他の不安定就労者や比較的安定した就労者も失業に追いやられ、野宿を強いられている。

 

(4)日雇い労働者にとっては機能していない社会保障制度

  @戦後最大の不況の最中廃止された失業対策

 1949年に「緊急失業対策法」が施行された。すでに1980年代から政府は失業対策を縮小してきたが、皮肉にも、戦後最大の不況の最中の1995年にこの法律は廃止され、失業対策は打ち切られた。

  A日雇労働者の雇用保険制度・健康保険制度

 いずれも、2ヶ月に26日以上働いて、26枚以上の印紙の貼付がなければ資格がない。保険に加入しなかったり、印紙を貼付しない業者も多い。現在のように仕事が少なければ、ますます資格外の人が増える。

  B年金制度はない。退職金制度もないに等しい

   中小企業退職金共済法(建設業界で働いてきた労働者が建設業界を辞めるときに退職金が出る制度)があるが、日雇い労働者は無視されている。

  C住宅保障制度がない。公共住宅入居も、住居があることや保証人の要件。

  D最後の社会安全網(セイフティーネット)である生活保護制度も、全国的に、「住所不定者」や働ける人は保護の要件がないという違法な運用がなされており、憲法や生活保護法で保障されている生存権が侵害されている。

  E野宿へ追い込まれる労働者

 こうして、仕事がなかったり、傷病で収入が少なくなると、たちまち生活に困窮し、アパート代や宿代が払えずに野宿を強いられ、全国で多くの労働者が死に追いやられている。

 

三、戦後最大の不況の中で野宿を強いられる労働者

(1)1992年以降の「戦後最大の不況」。しかし今の日本の物質的生活水準は、世界的に見て「豊か」である。粗大ゴミを見れば、よくわかる。

(2)全国的に野宿者が激増。日雇労働者や他の労働者も失業などで野宿へ。

  大阪市(約1万人)、東京都(6千人以上)、名古屋市(千人以上)、川崎市(千人)、横浜市(700人以上)、京都市(600人以上)、福岡市(500人以上)、北九州市(300人以上)、神戸市(350人以上)、浜松市(150人以上)、千葉市(100人以上)など(時期・根拠は色々)。これだけでも2万人以上になる。

 

(3)名古屋の野宿者の数(名駅・栄周辺部の夜回りで出会った平均労働者数)

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│年│1991  19921993199419951996199798/298/799/5 2000

         

├─┼──  ──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┤

│人│(230   289 382(434 480 521(532 539 898 909 1000

└─┴──  ──┴──┴──┴──┴──┴──┴──┴──┴──┴──┘

     名古屋市当局の発表した野宿者数(16区)

   ┌────┬──┬──┬──┬──┬──┐                        

   │ 年   19971998199920002001                        

        645 758101912041318                        

   └────┴──┴──┴──┴──┴──┘                        

  92年の不況以降急激に増え、1998年の春以降再び急増している。

 

(4)野宿労働者のおかれている厳しい状況

 (1)〈笹島〉問題を考える会の野宿者199人からの聞き取り結果(19998)

 @野宿になった時期は、景気下降がはっきりするようになる1992年以降は、86.8%と非常に多い(98年以降は3割)。

 A一日の食事回数は、余り食べていない9.2%、1回の人16.3%、1−2回の人5.1%、2回の人34.2%であり、65%の人が2回以下しかとれていない。

   食事方法は、支援者の行う炊き出しを利用47.7%、自炊36.7%、仲間からもらう32.7.%、商店から30.7%、外食購入29.1%(31.3%)である。

 B健康状態は、自覚症状がある人が63.5%もいる。

 C嫌がらせの経験のある人は、4割(三角コーン、空き缶ビンなどを投げられた。段ボールやテントをずたずたに切られた。暴走族に寝場所にガソリンをまかれた。寝場所から出て行けといわれた。若い人から襲撃を受けた。自転車や花火を投げ込まれたりして、一緒にいた仲間が亡くなったなど)。

 D仕事がなかったり、病気・ケガ・高齢など就労ができないために3割強の人が2ヶ月間に全く収入がない。

 E雇用されている人は僅か2割。しかもその大部分は日雇いや臨時雇用・アルバイトという不安定な雇用。半数の人が1ヶ月に4日しか働けておらず、収入も4割の人が1ヶ月3万円しかない。

 Fそれ以外の収入がある人は約5割であるが、大部分は廃品回収によるもので、収入額は8割の人が3万円以下。仕事に就くことができず、やむなく夜中に長時間かけて空き缶など廃品回収をしても、僅かな収入にしかならない。

 G雇用される仕事がなかなかない状況でも、75%の人が求職活動をしている。

 (2) 支援者の行う炊き出しに早くから列をなして待っていたり、期限切れの弁当を必死になって探している生活、夜中中廃品回収をしても一日千円もない、寝場所を求めて転々とする生活、寒さにふるえる生活、悪化する健康状態、そして襲撃などの危険にさらされ現に仲間が死亡する危険な生活、そして寝場所すら奪われるという生活は、決して「健康で文化的な最低限度の生活」ではない。

 (3)ある野宿者の叫び

  −野宿に追いやられて、初めてゴミ箱に手を突っ込むときは、たまらなかった。誰も見ていないことを確認して、手を突っ込み、残飯を食べた。ああ、とうとうおれもこんなものを食べなければならないようになってしまったか。そう思うと情けなかった。人間としての誇りが奪われるように思われた。しかし、野宿とは、そういうことを繰り返しすることなのだ。その度に人間の尊厳が奪われていく。そして、ゴミ箱に手を突っ込むことを恥ずかしく思わなくなり、人前でも突っ込むようになる。どんどん奪われるんだよな。−

 (4)野宿の場からも排除される現状

 やむなく野宿を強いられても、市民の多くは野宿の背景・原因や現状を知ろうともせずに、「好きでやっている」、「働く気がない」と一方的に判断し、公園などからの排除を求めている(市会議員なども)。水を撒く、ベンチに仕切をつくる、歩道橋の階段の下に囲いをつくる、柵を作るなど、野宿ができないようにあれこれの対策。

 197710月より国鉄が行政や警察の協力のもとに名古屋駅構内から野宿者を夜間閉め出した。19978月名古屋市当局は若宮大通り公園の冒険砦から話し合いによる解決を求める野宿者約三十名を強制排除。989月にも名古屋市当局が若宮大通公園水の広場から強制排除。しかし、排除を実施する職員も、議会で排除を主張する議員も、行くところのない野宿者が別の場所に移るだけで解決にはならないことを知っている。

 ヨーロッパでは、「反排除法」(フランス)ができたり、ソーシャル・インクルージョンという考え方になってきている。

 (5)野宿から死へ

 日雇労働者などの底辺労働者は、労働災害や長年の重労働の後遺症(多いのは腰や脚の症状)、不安定な食生活も関係する慢性の病気(高血圧や糖尿病)、などに悩まされている。過酷な野宿生活は健康や気力をも奪っていき、衰弱は進み、結核などの感染症も拡げてしまう。笹島診療所が確認しただけでも毎年数十人が亡くなっている。やや古いデーターだが、その平均年齢は約56才で、全国平均より20才も若く死んでいることになる。

 

四、生存権保障の最後の安全網としての生活保護制度

  ー失業者や「住所不定」の生活困窮者も生活保護が受けられるー

(1)憲法第25条【生存権、国の社会的使命】:「国民は、健康で文化的な最低 限度の生活を営む権利を有する。国は、全ての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」。生存権保障を国家の義務とし、これから洩れてはいけないという意味での最後の社会的安全網として制定されたのが現在の生活保護法である。

 

(2)生活保護法の目的は、最低生活の保障と自立の助長(第1条)

   「この法律は、日本国憲法第25条に規定する理念に基づき、国が生活に困 窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障するとともに、その自立を助長することを目的とする」。

  ここで「自立の助長」というのは、単に最低生活を保障するというのではなく、人間としての尊厳を持って生きられるようにすること。この法律の立案から制定に至る実質的な責任者であった厚生省保護課長の小山進次郎さんは、人 はすべてその中に何らかの自主独立の意味において可能性を持っており、その内容的可能性を発見し、これを助長育成することだと説明し、例えとして、次のようなことをあげている。すなわち身体も強健で労働能力もあり、労働の意 思もある人が、一時的に失業し、生活が困窮した場合には、この人に必要なものは就職の機会とそれまでの生活費の補給であるから、生活扶助費の支給とい うことが解決策であるが、労働を怠る者の場合は、金銭給付をしつつも、働く意欲を取り戻せるようにケースワークをすることが必要であると。

  人間らしい生活ができなくなるという状況では、希望を失ったり、生きる意欲がなくなったりする場合もある。そうした場合にも、経済的に生活を保障しつつ、その人の苦しみ・悩みを一緒に考え、その人自身が希望を持って生きられるようにバックアップしようと言うわけである。生活保護法というのは、しみったれた法律ではなく、本来はこのように人間を温かく見ている法律である。

 

(3)無差別平等ー性別・身分・困窮の原因は一切問わないー

  「すべて国民は、この法律の定める要件を満たす限り、この法律による保護を、無差別平等に受けることができる。」(第2条)

  救護法や旧生活保護法では、素行著しく不良な者あるいは勤労を怠る者については、救護や保護を行わないと定めており、生活困窮に陥った原因のいかんによって保護をするかしないかを定め、差別した取扱をしていたが、現行法は、性別、社会的身分などはもとより、生活困窮に陥った原因の如何はいっさい問わず、もっぱら生活に困窮しているかどうかという経済状態だけに着目して保護を行う(厚生省保護課監修「保護のてびき」)。

 

(4)「資産・能力の活用」は、絶対的なものではない!

  生活保護は、「生活に困窮する者が、その利用し得る資産・能力その他あらゆるものを、その最低限度の生活の維持のために活用することを要件として行われる」(法第4条1項)とされている。先ほどの小山さんは、この規定は一種の受給資格だが、正面から受給資格を規定したものではない。そうすることが絶対的に必要である訳でもないし、またそうすれば必ず何らかの形において欠格条項を設けざるを得なくなり、無差別平等の原理に反するからである、という趣旨のことを述べている。そしてこの規定では旧生活保護法のように欠格 条項を明記していないので、過去はどのようであれ今後この規定に沿って行動 する見込みさえあれば保護が与えられることになっているとしている。

 

(5)急迫している場合は、まず保護をすべし

  また4条2項では、民法で定める扶養義務や他法での扶助を保護に優先して行われなければならないとし、3項では、但し1項・2項の規定は、急迫した事由がある場合に必要な保護を行うことを、妨げるものではないとしている。野宿は急迫状態とも言える。

 

(6)定まった居住地のない者も現在地で保護が受けられる

  福祉事務所は、(1)居住地を有する要保護者、(2)居住地がないかまたは明らかでない要保護者であって所管区域内に現在地を有する者、に対して、保護を決定し、かつ実施しなければならない(第19条)。「住所不定者」は生活保護を受けられないという見解は明らかに違法である。

 

五.生活保護行政の問題点

 定まった住居が持てない生活困窮者に対する保護行政の問題点ー名古屋の事例を中心にー

(1)稼働能力のあると判断されると、事実上生活保護はダメ

 病気・怪我など自覚症状があり病院での受診を希望すれば、基本的には受診はでき、働けないと判断されると入院か入所という形で生活保護が開始される(但しアパートでの生活保護は認められないのは、居宅保護の原則からしておかしい)。しかし、軽作業可能も含めて医師が働けると判断したら、医療費のみ医療扶助として認めるが、生活保障はされず、野宿のままの通院となる(東京都や横浜市などと違って、簡易宿泊所での生活保護も認められない)。

@林訴訟における司法の判断

 不況と両足痛により、仕事が見つからず、就労してもすぐに解雇され、所持金が底をつき、野宿に追い込まれた日雇労働者林勝義さん(当時55才)は、1993730日に福祉事務所にその月に4度目の生活保護を求めたところ、福祉事務所は診断結果が「就労可能」だったとして、生活扶助・住宅扶助の支給を認めず、「応急手当」として一日だけの医療扶助を与え、その医療扶助もすぐに廃止して放置したため、9月末まで林さんは野宿を余儀なくされた。この処分を違法として提訴したのが林訴訟。

 961030日の一審判決では、「申請者が稼働能力を有する場合であっても、その具体的な稼働能力を前提にした上、申請者にその稼働能力を活用する意志があるかどうか、申請者の具体的な生活環境の中で実際にその稼働能力を活用できるかどうかにより判断すべきであり、申請者がその稼働能力を活用する意志を有しており、かつ、活用しようとしても、実際に活用できる場がなければ、『利用し得る能力を活用していない』とは言えない。」とした。そして林さんの場合、軽作業ができる稼働能力をもっていたにしても実際に就労の場がなかったと認められ、生活、住宅、医療扶助の生活保護を開始すべきであったとし、原告の全面勝訴となった。

 しかし9788日の二審判決では、生活保護法(以下「法」という)第41項については一審と同様の解釈をしながらも、事実を歪曲した上で、保安職などの有効求人倍率(全年齢の平均)が1.0を超えていたことを理由に職安に行って求職活動をすれば就労の可能性はあったと推認できるのであり、就業の場の可能性を否定できない、という推定を行い、保護の要件を満たしていないとした。林さんは直ちに上告したが、無念にも991022日にがんで亡くなった。そして今年213日最高裁判所第三小法廷(元原利文裁判長)は、@福祉事務所が生活保障を認めなかった処分の取り消しについては、原告林勝義さんが死亡したので訴訟は終了した、A損害賠償については、二審判決に誤りはなかったので上告を棄却する、という判決を出した。

 敗訴したとはいえ、「住所が定まらない者は保護の要件がない」とか、「稼働能力があるから保護の要件がない」という各地の運用が違法であることが、明らかにされ、各地の運動に大きな励ましを与え、生活保障のたたかいは前進し、厚生省にも影響を与えた(後述)。

A林訴訟控訴審判決の当日である199788日の民生局保護課長の指示事項

 「住所不定者の稼働能力に関わる補足性の要件判断等について」という文書を通して、「住所不定者については3ヶ月の就労活動をみること」と福祉事務所に指示した。野宿の状態で求職活動をしても、なかなか仕事は見つからない。しかも食事をとることもままならず、睡眠不足、衰弱した身体で、3ヶ月間の求職活動とその記録を要求することは、実質的に失業者の生活保護を認めないことを意味するのではないか。

B難聴と高血圧症がある51才のCさんの場合

 Cさんは、野宿のまま時々通院しながらも職安からの紹介だけでも約3ヶ月間に15件不採用になったが、生活保護が認められず。福祉事務所は勝手に妹さんに5万円送金させ、Cさんを市営の簡易宿泊所(有料)に入れさせる。Cさんは、気が弱く、不服申立をすることはできなかった。こんなことがあってよいのだろうか。

CAさん(59)の場合

 胃潰瘍で3ヶ月半入院後昨年9月より名古屋で野宿となったが、その後も福祉事務所を通じて4回通院後約1ヶ月入院。退院後野宿となり、14回の通院と救急搬送。その間仕事を探すもほとんどなく9-10月の収入は計8千円。11月から職安でも求職するも7件不採用。そこで1218日に生活保護申請をしたが、保護申請しても福祉事務所は翌日の検診命令を出しただけで、Aさんは野宿を強いられた。やむなく翌日笹島診療所が宿泊費を貸し付けて名古屋市簡易宿泊所笹島寮に入寮。福祉事務所は1016日の退院後の求職活動の記録の提出を要求。Aさんは、記録と記憶の限りを尽くして記入した。そしてやっと、1227日に更生施設に入寮。1218日に遡って生活保護の開始が決定され、更生施設に入る前の生活扶助費として約2万円がでた。保護の理由は、「3ヶ月求職活動をするも仕事がなく生活に困り申請するもの」というもので、明確に失業が理由であることを認めている。

 明確に失業による生活保護を認めたことは一歩前進。但し3ヶ月間の求職活動という高いハードルや、保護申請時以降の宿泊場所の保障なし、診療所が貸付を含め頻繁にバックアップしなければならないようなやり方は改善する必要があるだろう。

 

(2)就職が決まった場合の問題点

@野宿あるいは簡易宿泊所生活で、就職が決まった場合

 野宿状態などで求職活動をして就職できても当面の生活費・宿泊費がない時は、最低生活が可能な賃金が得られる(1ヶ月先か1ヶ月半先)までは生活保護を適用して、自立の助長を図るべきである。生活保護申請をしても福祉事務所は宿所提供施設もあるのに生活保護を認めず、法外援護も行われなかった。

 失職して昨年7月初旬から野宿となり、喘息に悩まされながら求職活動をしたBさん(46才)は、726日に警備会社の(仮)採用が決まり、29日から数日の研修で特に問題がなければ正式に採用されることになった。しかし当面の宿泊・生活費がないので、相談を受けた診療所が、生活保護を申請する条件で、名古屋市簡易宿泊所(1ヶ月しかおれない)での宿泊費などを貸し付けた。Bさんは、81日に正式採用となり就労し始め、保護決定がでないままに820日に会社の寮に入った。Bさんは保護申請をしたが、「応急処置としての医療扶助のみの適用」がなされただけであったので、不服審査請求をした。

 20015月の愛知県の裁決は、「求職活動の結果、就職がおおむね内定していたことから、請求人の稼働能力不活用を理由に保護の要件を欠いていたものとする判断は妥当ではない」というものであった。名古屋市当局はこれを受けて、就職が決まって保護申請をした場合は、とりあえず一時保護所からの通勤、その後宿所提供施設熱田荘入所、さらにアパート入居という道をつくった。

A更生施設在寮時に就職が決定した場合

 自動車の運転免許を持っているCさん(51才)は、昨年3月退院後更生施設植田寮に入所したが、すぐに就職が決まった。福祉事務所は、名古屋市簡易宿泊所から通えというが、就職支度金3.1万円では当面の生活費や宿泊費が足らないし、朝が早く遠隔地なので通勤もできないので、居宅保護への保護変更申請をし、アパートも見つけてきたが、福祉事務所は居宅保護を認めないという。就労日が間近なため、やむなく藤井が入居費用を貸付して、就労日前日に更生施設を出てアパートに入居し、その区ですぐに生活保護を申請し(この区での生活保護は認められた)、翌日から働き始めた。結局保護変更申請をしてから、約3ヶ月後に転宅費用が認められたが、何故初めから居宅保護を認めないのか。我々の援助がなかったらCさんは就職決定をふいにし、意欲も削がれ、福祉事務所への不信だけが残ったであろう。Cさんは、その後は生活保護を受けることなく同じ職場で元気に働いている。

 

(3)稼働能力があると判断されると、退院・退所と同時に保護廃止

  次に、入院や施設入所をして生活保護を受けていても、退院や退所する際に、「働ける」と判断されると保護を廃止されることが多く、野宿を強いられる結果となりがちである。これも違法な運用であり、野宿を再生産している。

@Eさん(45才女性)とFさん(45才男性)の場合

 EさんとFさんは知り合いで同じ病院に入院。退院後は一緒に住みたいと考え、昨年4月初旬に福祉事務所や診療所にその意思を伝える。5月中旬に病院から、2人とも6月初旬に退院といわれ、N福祉事務所に再度その意思を伝えたが、「自分たちでお金を貯めてアパートに入るように」と言われる。二人は診療所と相談し、退院後は宿所提供施設かアパートでの保護にして欲しいという保護変更申請書を61日に提出。65日には退院。66日に二人は福祉事務所に行くも、「病院を自己退院した」という理由で保護を廃止され、野宿生活を余儀なくされる。二人はこの処分に納得できないため、83日付で、66日の保護廃止決定処分の取り消しを求めて、愛知県知事に不服審査請求。

 1113日付で、処分取り消しの裁決が出る。「保護廃止の実質的理由は、保護の継続の方法がないということであると判断される。退院翌日に福祉事務所を訪れており、宿所提供施設への入所を始めとして保護を継続する何らかの方策をとることは可能であり、保護を継続する方法がないとする主張には理由がない」というもの。

 2人は、すぐに宿所提供施設に入所となり、その後アパートに入居した。二人は野宿を強いられている仲間を今も気遣い、相談活動に参加している。

A退院後の保護廃止が違法とされたにもかかわらず、状況は改善されていない

 

六.厚生省の生活保護適用に関する見解の変化

 林訴訟運動は、「ホームレス」だからとか、「働けるから」という理由で生活保護は受けられないとする各地での運用が違法であることを社会的に明らかにしてきた。そして厚生省の見解も次のように変化せざるを得ないようになってきた。

(1)従来の厚生省見解

 厚生省社会・援護局監査指導課は、〈住所不定の取り扱いについて、適正な保護要件の確認と自立に向けての指導及び的確な保護決定の事務処理を行うにためには、居住地が安定している必要がある。高齢あるいは障害で働けない場合は、保護施設などへ入所して保護の適用になる〉とし、実質的には非定住者を保護から排除し、あたかも働けない人しか保護の要件がないかの如く述べていた(「生活と福祉」488号、17頁。199612月)。

 

(2)最近の厚生省見解

 しかし200033日に社会・援護局保護課は、「稼働能力を有する要保護者については、保護の実施要領で示してきたとおり、自らの稼働能力等の活用を怠りまたは忌避していると認められ、かつ、活用に向けた助言指導に従わないときに、保護の要件を欠くものであり、稼働能力を活用するため努力していることが認められるのであれば、もとより保護の要件を欠くわけではない。・・・ホームレス対策として来年度から自立支援センター事業が実施されるところである。ホームレスなどに対する生活保護の適用の要件は、一般の者と異なるところはなく、保護する場合の方法については、個々の者の実情に即して行われるものであるが、本事業のセンターの入所者については、就労に向けた指導が行われるものであるので、本事業について十分理解の上、適切な連携を図られたい」(「社会・援護局主管課長会議資料」8-9頁)、と指示をした。

 また、200135日にも、同課は次のような指示をした。「いわゆるホームレスに対する生活保護の適用については、単に居住地がないことや稼働能力があることをもってのみ保護の要件に欠けるということはなく、真に生活に困窮する方々は、生活保護の対象となるものである」(「社会・援護局主管課長会議資料」5頁)。これらは法の趣旨からして当たり前のことであるが、厚生省がこのように何度も言わざるを得ない状況になっている。

 

七.貧困問題と私たちー何故豊かな日本で野宿が放置されるのかー

(1)日本の豊かさは、第3世界(南)の民衆と、日本の底辺の民衆とを犠牲にして成り立っているが、多くの人がその構造に気付いていない。

(2)日本の貧困は、何故見えにくいのか

 ・「日本は豊かだ。普通に努力をすれば豊かになれる。怠けるから、貧困なのだ。貧困は個人の責任」というのが、現代日本の主流の考え方(行政、マスコミ、「市民」など)。「野宿者は怠け者」という考え方は、「貧困は個人の罪」という19世紀中頃までの考え方と同じ。貧困は社会問題という当たり前のことさえ知らないで、平気でいる私のおかしさ。

 ・多数が「豊か」になったので、少数の(貧困)問題は、社会問題ではなく、個人の問題として考えがちである。行政も、マスコミも、野宿問題を社会問題としてきちんと取り上げない。「市民の苦情」があるから取り上げる、という姿勢しかない。私たちは、「共に生きる」という人間の生き方を忘れた「貧しい」人間ではないか。

(3)貧困、日雇い労働者、野宿者に対する偏見と差別。事実を知らないで、予断と偏見に基づいて現象を解釈し、判断する。偏見の再生産と差別の強化。

(例えば、昼間公園のベンチで寝ているのを見て、「昼間から怠けて寝ている」と判断。「怠けている」という予断・偏見があるから、そう見える。そしてやっぱり怠け者だと確認する。しかし、現実は、夜中に食べ物を探したり、廃品回収しているために、昼に寝る。あるいは、夜は、襲われたりして怖いので、昼間通行人のみんなのいる前で寝る。あるいは、仕事にあぶれ、行くところがないので公共の場所にいる、のである)。

 

八、すべての人が共に生きられる社会を目指して

(1)何が基本的か

 @行政も市民も、この現状が社会的問題であり、その解決は様々な立場の者が意見を出 し合っていく必要があることを認識すること。

 A基本は労働問題である。使い捨ての問題。仕事保障の必要性。就労援助。仕事の分かち合い。

 B住むところ(住宅対策)・居住支援(保証人問題も)。生活の保障。

 C全過程において主体は当事者。尊厳の確認。

 

(2)排除ではなく、野宿をしなくてもよい状況づくりを!

 排除は問題の解決にならないばかりか、社会的に野宿者を排除してよいことを植え付け、嫌がらせ・襲撃の一因にもなり、さらに野宿者の行政や社会への不信をますます高めることになり、最悪の「対策」である。

 行政や社会への不信は、行政や社会が尊厳ある人間として今まで接してこなかったから生じているといえるだろう。行政や社会への不信は、その人の今までの体験や野宿の長さによって、深さ・浅さが異なるであろう。

 野宿者のニーズに応じた多様な施策を計画するとともに、その施策をじっくり選ぶ自己決定権を保障すべきである。その一つとして、例えば、緊急援助や様々な情報が得られ、相談に乗れる、出入り自由な場をつくるべきではないか。そうした中で行政への不信を拭うことができてくるのではないか。

 今度は、社会・行政の側が、不信感が拭われるまで、待つべき番である。

 

 

九、おわりにーみなさんへの期待ー

@ 自分の感情や主観で物事を見るのでなく、客観的・多面的に物事を見て欲しい。そういう見方・方法を大学で学び、身につけて欲しい。

A 「共に生きる」ことの意味・重要性を、しっかり考えて欲しい。人間は、他者と共に生きてこそ「人間」であり、物質的に豊かであっても、差別や抑圧があるところでは、豊かではない。共に喜び共に苦しみ、助けあって生きること。

Bどんな人であろうとも人間らしく生きる権利がある。人間は歴史的・社会的存在。貧困も差別も社会的に解決しなければならない。しっかり学び、自分の頭で考え、行動し、自分と社会の未来を切り拓いてください。

 

 

(連絡先)藤井克彦 名古屋市中村区則武2-8-13 笹島診療所 /FAX052-451-4585