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黒崎政男(東京女子大学教授)「大学制度 揺さぶるネット ―情報の独占・落差の終焉―」(2001年5月23日付朝日新聞朝刊)

 

「『インターネットから取ってきた文章は、じゃあ、引用はどう表記しておけばいいんですか?』大学卒業論文の指導をしているときに、学生にこう質問された私はかなり面食らった。

 

 例えば哲学・思想系の場合、卒業論文は一つの大きなテーマを設定し、基礎となる古典的なテキストを読み、それについての研究書を何冊も読み、さらに(可能ならば)自分の考えを加味しながら、長い時間をかけて仕上げる。この苦労のなかで、先達の思想を深く理解したり、自分の考えを練り上げるなどの成長が見られることになる。他者の思想や意見は注で明記し、どこまでが他者の考えで、どこからが自分の考えかをはっきり区別するのが伝統的な論文のスタイルである。学生がひそかに参考書を丸写ししても、年季の入った教師たちは、本人がどれだけ自分で考えたか、あるいは、誰の本のどの個所を写したか、だいたい検討がつく。大学制度は、専門分野について大方のことは把握している教師と、それを吸収し理解しつつある学生という構造によって成立してきたと言ってよい。

 

 ところで、インターネット上の情報は、記述の原作者と引用者、ネットへの掲載者の区別があいまいで截然と分けられないことが多い。文章の引用や改変がきわめて容易であるため、ここにある情報は、多くの人々によるコラボレーション(共同作業)の結果であり、オリジナルと引用などといった伝統的な区別が成り立たない。つまり、明確な<文責>が存在しないことが多いのである。

 

もし学生が、あるテーマでキーワード検索して表示させた多くの情報から、自分に関心のあるいくつもの記述をつなぎ合わせ、新たな記述を作り上げてしまえば、ほとんど機械的にそれなりの文章ができてしまう。しかも、そこには教師も知らない最新情報が盛り込まれていることさえある。さらに、ネットの即時性や流動性を利用して、書いている途中の論文をインターネット上に公開し、ネット上の人々の意見やアドバイスを仰いでいる例もあると聞く。極端な話だが、現在では卒業論文、修士論文もインターネットで売買されているらしい。このように、情報のメディア的大変革が進行している状況にあって、既存の大学制度における<教える>と<学ぶ>とはいったいなんなのだろうか。

 

従来、学者や教師など専門家の権威を形作ってきたのは、<情報の独占>と<情報のタイムラグ>であったと言える。情報をより早く所有し、それを自分たちだけで囲い込むことで専門家の権威は発生してきた。日本の人文系学問ということで言えば、明治以降最近にいたるまで、大学教授は欧米の情報を独占的に仕入れ、少しずつ小出しにして、自らの権威を成立させてきた側面もある。大学制度を成立させてきたのは、結局のところこのような<情報の落差>だったのである。

 

書物メディアに立脚した従来の学問は<独占>と<タイムラグ>を特質として成立してきたが、今後ますます強力になるインターネット情報は、それとは正反対の<開放性>と<同時性>という特質を持っている。もちろん今後とも、学問や教育において、情報の占有・落差という要素が完全に消え去るとは思えないが、ちょっとした努力で、必要な情報や資料は、関心ある者すべてにいわば平等に開かれていることになる。

 

むろん、こうした変化に積極的な意味を見いだすこともできる。印刷書物テクノロジーが、固定的で標準的な同一テキストの大量生産を可能にし、<一対多>の啓蒙的教育システムを成立させたのであれば、インターネットは、権威の終焉や規範的テキストの解体を成し遂げながら、集団的著者性や新たなネットワーク文化をもたらすといえるからである。

 

だが実際のところはどうだろうか。情報の支配的メディアが書物からインターネットへと変わるのであれば、書物文化と深くリンクしていた大学制度が大きく変容・崩壊することは大いにありうる。こんな状況で大学とはいったいなにか。『情報の量や速さをいたずらに追い求めるのではなく、情報を見きわめる判断力や、断片的知識の寄せ集めから統一的な意味を見いだす洞察力を身につける』。まっとうではあるが、歯切れの悪いこのような言説しか、今日の大学人には残されていないかもしれない。」