シエラレオネ紛争と真実和解委員会
国際社会研究専攻 渡邉麻衣
はじめに:本稿の位置づけ
本稿はシエラレオネ紛争を扱った映画「EZRA」(監督Newton
I. Aduaka、フランス・ナイジェリア・オーストリア、2007)の舞台となった「真実和解委員会(TRC: the Truth and Reconciliation
Commission)について詳述する。自身の修士論文(「シエラレオネ紛争における少年兵の表象と比較」)において、本稿を「EZRA」の表象分析のひとつとして位置づけ(第3章3節の3)、連鎖的に紛争後の少年兵[1]に対するシエラレオネ政府の政策、加害者/被害者の少年兵の認識、等まで細見できればと考えている。
1. TRC活動と紛争略年表 (著者作成)
日付 |
事象 |
詳細 |
内戦勃発 |
革命統一戦線〈RUF〉がリベリアからシエラレオネ領内侵入 |
|
1996.3.15 |
大統領選挙決戦投票 |
カバーが当選 |
.11.30. |
アビジャン和平協定 |
カバー大統領とサンコー代表がコートジボワールの仲介(国連、OAU、英連邦特使立会い)のもと調印 |
1997.5.25. |
クーデター発生 |
逮捕されていたJ.P.コロマ少佐が刑務所から解放され元首に なる。国軍革命評議会〈AFRC〉とRUFが権力分有を行う。 |
.10.23. |
コナクリ和平合意 |
西アフリカ諸国経済同盟〈ECOWAS〉シエラレオネ問題5カ国委員会とAFRC代表団の間にて締結(国連とOAU特使が立会い) →1998年4月22日までに民政移管を実現することで合意 |
1998.3.10. |
カバー政権復帰 |
|
.7.8. |
副大統領発表 |
全児童兵に恩赦を与えるとの旨 |
1999.1.6. |
市街戦激化 |
RUFがフリータウン(首都)侵攻 |
.5.18. |
ロメ停戦協定 |
|
.7.7. |
ロメ和平協定 |
即時停戦、全戦闘員に対する無条件恩赦、武装解除・動員解除・社会復帰(DDR)、サンコーの副大統領就任、RUFの政党化等を条件に調印 第26条にて「真実和解委員会」の設立を示唆 |
.2.22 |
「TRC法2000」採択 |
シエラレオネ議会にて可決 国内機関として成立 |
2000.5. |
国連シエラレオネ 派遣団〈UNAMSIL〉拘束事件 |
数箇所にてRUFによる拘束事件が発生 5月10日現在にて拘束推定要因は491名を数えた |
.9. |
シエラレオネ特別法廷に関する会合 |
12-14日 ニューヨークにて協議 18-20日 フリータウンにて協議 |
.10.4 |
報告書 |
『シエラレオネ特別法廷設置に関する国連事務総長報告書』 |
.11.10. |
アブジャ和平合意 |
|
.11.16-17 |
ワークショップ開催 |
TRCの設置を促進する目的でフリータウンにて開かれる |
2001.5.15 |
新たな停戦合意調印 |
武装解除プログラムの即時再開、UNAMSILへの児童兵の引渡しなどを規定 |
.5.18. |
DDR活動再開 |
31日までに3502名(RUF1096名、CDF2406名)の武装解除完了 |
.5.29. |
児童兵の引渡し |
591名の児童兵がマケニでRUFからUNAMSILに引き渡される |
.6.4. |
|
RUFが178名の児童兵をUNAMSILに引き渡す |
2002.1.5. |
公式的な武装解除 終了日 |
|
.1.16 |
|
シエラレオネのための特別裁判所〈SCLS〉設立に関する協定締結 |
.1.18. |
紛争終結 |
ルンギで式典開催 カバー大統領が戦闘状態終了と非常事態宣言解除を正式に発表 |
.5.13. |
委員会構成メンバー任命 |
|
.7.26. |
就任式宣誓 |
|
.10.5. |
活動開始 |
活動実施計画整備、担当者(50名以上)の派遣、地方事務所の開設 |
.12.4 |
陳述収集開始 |
内戦勃発地ボマルから 2週間ほどの間に約1400の陳述を得る 陳述を行った者の3分の1は女性、10分の1は子ども |
2003.2. |
|
3500を超える陳述が得られる |
.4.14 |
|
全国13会場(首都含)にて新たに被害者・加害者双方から話を聴取する活動を開始 <EZRAの舞台> |
.8.6. |
活動終了 |
|
.年末 |
活動期間延長 |
|
2004.10 |
任務終了 |
最終報告書を大統領に提出 |
2.TRC設置までの主な流れ
本稿においてまとめる真実和解委員会(TRC)とは、犯罪行為の訴追や処罰をするのではなく、真実の究明を目的として公権力や反政府武装勢力による広範な暴力行為を調査する組織である。犠牲者に着目した取り組みで、過去に生じた人権侵害や出来事を調査し、記録し、事実を明らかにし、時には補償や制度の改善を勧告する[2]。この取り組みが注目されるようになったのは、1995年に南アフリカに設置された真実和解委員会で、過去の広範囲な人権侵害に対して司法制度の外から追求するという考えが評価された。さまざまな国で設置され、各国の委員会の評価についての多くの論文が提出されている(主に南アフリカ、東ティモール)。
そのなかでも本稿が取り上げる国はシエラレオネであり、シエラレオネ紛争の概要は前回の発表に挙げたとおりである。今回は紛争概要に紛争前後の真実和解委員会の設置と活動を加えた略年表を用意した。以下では略年表の事象についておさえる。
まずシエラレオネにおいて真実和解委員会の設立が示唆されたのは、1999.7.7に調印されたロメ和平協定の第26条においてである。このロメ和平協定は、1999年1月の首都フリータウンでの首都攻防戦を経て締結された。1991年の紛争勃発から度重なる政府側のクーデターに終止符を打ち政権復帰したカバー文民政権と、反政府組織革命統一戦線(RUF)の停戦・和平協定は1996年11月30日のアビジャン和平協定、1997年10月23日のコナクリ和平合意に続き三度目である。前回二度と今回のロメ和平協定の大きく異なる点は、前戦闘員の無条件恩赦、RUF指導者サンコーの副大統領の就任、RUFの政党化である。これら紛争当事者にほとんどアメだけに近い無条件かつ無制限な恩赦を和平協定に含有したのには、シエラレオネ国内及び国際社会に要因があるといわれる。望月(2007,PP.297-298)は恩赦の国内的要因を「事態を進展させるインセンティブ」、国際的要因を紛争の終結が緊急課題であった、と述べている。この協定第26項条に初めて公的文書で「真実和解委員会」の文字が出、シエラレオネにおける委員会の基礎となっている。
この協定において「委員会は、本協定署名後90日以内に設立され・・」と規定され、シエラレオネ議会によって2000年2月22日に「TRC法2000」が可決、採択された。だが2000年5月に起こった国連シエラレオネ派遣団〈UNAMSIL〉拘束事件と、それを機に政府の恩赦を否認する方向転換によって、委員会の成立・活動は頓挫し大幅に遅れた[3]。
本格的に設立が開始されたのは紛争終結半年後であり、構成メンバーの任命、宣誓、活動開始と進んでいく。だがこれらも数ヶ月ごとにタイムラグがあり、遅れた理由として活動資金の調達がなかなかできなかったためだと説明される[4]。山下によれば、委員会の活動は国際的な寄付によってまかなわれることになっており、資金募集の主な責任者は国連人権高等弁務官であった。だが弁務官の懸命な訴えにもかかわらず、ドナーの対応は低調で、当初1000万ドルが見込まれた活動予算は、700万ドル弱に縮小された。しかしながら活動を開始してもそれら予算不足は解消されず、予算が組まれてもそれ以下の寄付の約束しか得られず、しかも受け取った額は約束した寄付を下回る金額であったとの報告もある[5]。
委員会の活動は2002年11月5日に開始され、多くの都市・地方で証言を得、約一年後活動を終えた。その後最終報告書(四冊と付一冊)を大統領に提出するが、この提出もロメ和平協定で定められた「作業開始より遅くとも12ヶ月後に・・・」の期限である2003年10月の予定を大幅にずれ込み、2004年10月に提出し活動を終えている。
3.TRCの活動内容、活動期間
シエラレオネの真実和解委員会の目的はロメ和平協定第26条に定められているとおり、「真の癒しと和解を促進するために不処罰に取り組み、暴力の連鎖を断ち切り、人権侵害の被害者と加害者の双方が自らの話を語るための討議の場を提供し、過去の明確な描写を行う」ことである。任務はTRC法6条1項によれば、次の五つ、「1991年に紛争が開始されてからロメ和平協定が署名されるまでに、シエラレオネでおきた武力紛争に関連する人権法及び国際人道法の侵害及び蹂躙に関して、@その公平な歴史的記録をまとめること、A不処罰に取り組むこと、B被害者の要求に応じること、C癒しと和解を促進すること、D被った侵害及び蹂躙の再発を防ぐこと」と規定した。構成メンバーについてTRC法3条1項によれば、7人(4人はシエラレオネ国民、3人は外国人)とされ、外国人メンバーは国連事務総長特別代表と国連人権高等弁務官の勧告に従って任命された。委員会の時間的管轄
は前述したとおり内戦勃発の1991年3月23日からロメ和平協定の1999年7月7日までとされた。聴取の取り方の規定としてTRC法8条1項(C)では、聴取する対象者は、すべての個人・集団・組織のメンバーとされ、TRC法7条4項において、子どもと性的虐待をうけた者の聴取時は会合の非公開などの特別措置をとる権限が与えられた。加えてTRC法8条1項(C)に話をする際に宣誓を求める権限、(d)ではすべてのものに出頭と証言が強制できることも定められている。さらに(b)において委員会は通達なしにあらゆる場所に訪問が可能で、文書の写し、資料の確保もできた。
4.映画「EZRA」における描写
「EZRA」は2007年にフランス・ナイジェリア・オーストリア共同で監督Newton I
Aduakaによって撮られた映画で、シエラレオネ紛争を題材にした少年兵の物語である。2007年2月終わりにブルギナファソで開催された「第20回汎アフリカ映画テレビ祭」でグランプリを受賞し、2007年サンダンス映画祭ではヒューマ二タス賞・グランドジュ―リー賞にノミネートされた。
物語は真実和解委員会(現在)と主人公エズラの少年兵時代(過去)が織り交ざりながら展開していく。時間経過は一定に逆行しないため、気をぬけば少々話に置いていかれることもあり、理解には注意が必要な映画であった。本映画は現段階で海外でも日本でもDVD化されておらず、筆者は2008年6月20-27日に行われた国連難民高等弁務官(UNHCR)駐日事務所及び日本UNHCR協会主催の第三回難民映画祭にて試写した。
物語において真実和解委員会は、反政府軍兵士によって残虐な襲撃を受けたオニチャの村の真実を明らかにするために開かれ、その混迷する事実の証言者として、主人公のエズラ、エズラの姉オニチャ、エズラとともに少年兵であったシンシアが呼ばれた。証言の場は、裁判所のような配置で描かれている。場所は教会と思われる場所で、議長と委員会メンバー(三名)が上座に座り、中心に証言者が立ち、下座に村人などの傍聴者が配置される。多くの市民に真実を知ってもらえるよう傍聴は可能であったが、時折議長が当委員会は戦争の真実を聞くことが目的で裁判の場ではないと強調しながらも、村人たちのエズラに対する罵声(加害者への謝罪を求める野次)が起こる場面も描写されていた。
また物語内での時間的管轄は1999年1月6日とされ、その日に起こったことが映画のキーワードになっている。現実の1999年1月6日は略年表で示したとおり、RUFが首都フリータウン奪還を望んで侵攻・襲撃し、市街戦が激化した日付でもある。同様にシエラレオネ紛争を扱った「ブラッド・ダイヤモンド」(監督エドワード・ズウィック,2006年,アメリカ)での、ダニー・アーチャー(レオナルド・ディカプリオ)とソロモン・バンディー(ジャイモン・フンスー)がフリータウンの街中を走り逃げる場面もこの日だと推測される。現実ではその後西アフリカ諸国経済同盟〈ECOMOG〉とシエラレオネ政府軍がRUFと参戦したが、フリータウン東部と南部をほぼ制圧された。だが1月19日にECOMOGがフリータウン市内を制圧し奪還している。
さいごに:修士論文における課題
以上のようにシエラレオネ紛争における真実和解委員会の活動をまとめてみたが、そのほとんどが時間系列であり、法文の紹介となった。修士論文では委員会の証言から、シエラレオネにおける少年兵の描写を抽出したいと考えている。そのため今回は未読であった真実和解委員会の最終報告書から必要部位を読み進める作業が必要である。また世界の真実和解委員会について分析している論文を充分に手に入れてはおらず、概説的にもいまだ知識が不十分であるため、さらなる理解が必要だと感じた。
修士論文の中心のひとつとなる、本稿の映画「EZRA」と委員会描写の分析部分では、試写したときに自身がかなり印象に残った部位であった。だが自身が「EZRA」がまだ一度しか見れていないため、解釈が間違っている可能性もあることを書き加えておく。そのためまずは映画の入手と物語の把握に力をいれるべきであろう。
参考文献
落合雄彦,(2000)「シエラレオネにおける国連部隊襲撃拘束事件」,『アフリカレポート』第31号,pp.7-10
落合雄彦,(2001)「シエラレオネ紛争関連年表」,武内進一編,『アジア・アフリカの武力紛争−共同研究会中間成果報告−』,国際協力事業団
山下恭弘,(2004)「紛争後の恩赦と裁判―シエラレオネの場合―」,『福岡大学法学論叢』,第49号,PP.149-186
望月康恵,(2008)「紛争後の社会への司法介入―ルワンダとシエラレオネ」,武内進一編,『戦争と平和の間−紛争勃発後のアフリカと国際社会−』,国際協力事業団
須田裕美,「真実委員会と司法機関の関係 ―情報共有に関する問題―」
http://www.tufs.ac.jp/insidetufs/doc/yusyu19_suda.pdf (2008.12.1閲覧)
映像資料
BLOOD DIAMOND (監督エドワード・ズウィック,2006年,アメリカ)
EZRA(監督Newton I Aduaka ,2007年,フランス、ナイジェリア、オーストラリア)
修士論文構成案
「シエラレオネ紛争における少年兵の表象と比較」
序章 背景
論文の目的、方法
論文の構成
第1章 世界状況とシエラレオネ紛争
1-1世界状況
1-1-1 世界の少年兵、研究
1-1-2
少年兵の生活と概要
1-1-3
カラシニコフ(AK47)
1-1-4
真実和解委員会
1-1-5
1-2シエラレオネ紛争
1-2-1 シエラレオネにおける少年兵の需要と特徴
1-2-2 徴集、任務、教化、生活
1-2-3 紛争概要と政策
1-2-4 紛争後の政策
1-2-5 少年兵に関する政策
第2章 作品@「BLOOD DIAMOND」
2-1 作品概要
2-1-1 舞台
2-2-2 監督、スタッフ、出演者
2-2
社会的評価
2-2-1
興行収入と受賞歴、論評
2-2-2
映画の社会的影響
2-3 描かれる少年兵
2-3-1 使用箇所
2-3-2 教化と生活
2-3-3 自動小銃AK47
2-4 小結
第3章 作品A「EZRA」
3-1 作品概要
3-1-1 舞台
3-1-2 監督、スタッフ、出演者
3-2社会的評価
3-2-1 興行収入と受賞歴
2-2-3
映画の社会的影響
3-3 描かれる少年兵
3-3-1 使用箇所
3-3-2 教化と生活
3-3-3 真実和解委員会
3-4 小結
第4章 作品B「アラーの神にもいわれはない」
4-1 作品概要
4-1-1 舞台
4-1-2 著者
4-2社会的評価
4-2-1 書評
4-2-2 文学の社会的評価
4-3 描かれる少年兵
4-3-1 使用箇所
4-3-2
4-2-3
4-4 小結
終章 教化と生活
参考文献