アメリカとオーストラリアにおけるマイノリティ政策 084103A 近藤 香
1、はじめに
米国とオーストラリアはともに、近代の殖民や移民を起源として構成された国家である。そして、これらの国は多民族、多人種のアクターによって構成される多民族国家である。オーストラリアでは、移民への国内政策は、ヨーロッパ系白人[1]に対しては同化主義政策がとられ、非ヨーロッパ系(非白人系)移民に対しては白豪主義政策[2]によって、非ヨーロッパ系(非白人系)移民の締め出しを行っていた。そのため、非ヨーロッパ系(非白人系)は国内において少数であった。米国でも移民への国内政策はヨーロッパ系移民に対しては同化主義的なものが取られ、非ヨーロッパ系(非白人系)移民に対しては入国制限によって締め出しを行った。けれども、奴隷制の過去をもつアメリカにおいて、非白人系移民は多くなかったが、黒人という大きなマイノリティ集団をかかえることとなった。黒人に対して、同化という形ではなく、分離する政策を取った。この黒人系の存在は、アメリカがマイノリティ政策を行う上で重要となる。
非白人系の締め出しとヨーロッパ系に対する同化政策を採用していた、米国とオーストラリアにおいて、第二次世界大戦後の経済成長における労働力確保のために、南欧系、さらにアジア系など非白人系移民を受け入れ、それらの移民は同化が困難であったことから、その政策の変更せざるをえなくなった。そこで、米国、オーストラリアは同化ではなく、多文化主義的な政策を採用した。現在のオーストラリアでは、異文化・言語維持促進プログラムが重視されるが、米国ではかつて、数値目標であるクウォータ制度をともなうアファーマティブ・アクションを、重視していた[3]。米国におけるアファーマティブ・アクションとオーストラリアにおける積極的な多文化主義政策の比較、さらにそれらの政策を今後日本が採用しうるのか考えたい。
2、アファーマティブ・アクション―米国
アファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)とは、肯定的差別と言われることもある。肯定的(あるいは“逆”〈reverse〉)差別は、機会均等を生み出そうという動機から生じている。肯定的差別は、教育と職業において「遅れを取り戻す」ために、その他の領域で不利な立場におかれてしまうおそれのある人々に対し、便宜を与えようとする[4]。このアファーマティブ・アクションとは、1965年に出された「大統領行政命令1246号」や1972年「雇用均等法」(Equal Employment Act) などに基づき、雇用や大学入学試験の際に黒人をはじめとするマイノリティや女性に対して一定の枠を設けて、雇用や高等教育の機会拡大を推し進めようとする政策である。このような政策を米国が採用した背景には、黒人に対する歴史的な社会差別への補償、1960年代に頻発した黒人暴動への対処の必要性、そして数値で人種差別の是正を判断する行政があったからであろう。かつては肌の色や出身国によって不利な立場にあった人々が、同じ理由で優遇されるのである。エスニシティの外面的な要素によって、人々の待遇が決められているのである[5]。
けれども、アファーマティブ・アクションに反対するうごきも出てきている。その理由として、公民権運動[6]や1964年公民権法[7]に逆行するものであり、再び人種や民族を可視化し、人種・民族間の対立を助長するものである、さらに、特定のマイノリティ集団を優遇することによって逆に差別を被る人々が出るからである。こういった不利であるとマジョリティの、特に白人男性が感じる逆差別の問題が浮上し、逆差別裁判が起こり、さらにはカリフォルニア州などで、アファーマティブ・アクションを廃止している。
3、多文化主義政策―オーストラリア
多文化主義は、国民国家は一文化、一民族によって構成されるべきであるとする「同化主義」に基づくこれまでの国民統合政策を否定する[8]。多様な文化・言語を承認し、その保護と発展のために政府が援助していくと同時に、オーストラリア国民国家の発展に役立てようとするものである。多文化主義政策とは、1960年代から70年代にかけて、それまで連邦政府が推進してきた非英語系移民の同化や統合が困難で、こうした移民への政策的支援が必要であるという認識から導入され始められた。アルバート・グラスビー移民相が1973年に発表した多文化政策が最初である[9]。この多文化主義政策は、マイノリティ集団への差別をなくすだけでなく、積極的に社会・政治参加を支援するものである。
しかしながら、多文化主義の確立と並行して伝統的国民文化の同様に不安を感じる国民も増えている。「黒色・褐色・赤色・黄色・白色を問わず民族性の最近の神格化は、民族集団に分裂する社会という暗い展望を蘇らせた[10]」という主張、多文化主義政策によって人種、民族が強調され、さらに国民を分裂させるのではないかという批判も高まり、多文化主義に反対する人々も増えている。その傾向は、96年のハワード政権において、移民向けの社会福祉の抑制・削減、難民受け入れ削減といった政策にも顕著に表れている。
4、まとめ
米国のアファーマティブ・アクション、オーストラリアの多文化主義政策のどちらのマイノリティ政策も、異なる民族、人種、文化を強調することによって再び差異を可視化するものであり、民族・人種間の溝を広げる要素も持っている。けれども、オーストラリアにおいて、米国のような特定のマイノリティを優遇するアファーマティブ・アクションには消極的であって、国民の分裂の恐れを抱く人々は存在するとしても、逆差別を訴える人々は少ない。オーストラリアがアファーマティブ・アクションを積極的に採用しなかった背景には、黒人系マイノリティの不在があり、採用する必要性が低かったと考えられる。したがって、オーストラリアの多文化主義政策の方が、アメリカのアファーマティブ・アクションに比べて、異人種・民族・文化間の対立を引き起こす可能性が低いようである。今後日本が外国人を今以上に受け入れ、外国人が増加した場合に、アファーマティブ・アクションを採用するのか。それとも黒人系マイノリティのようなアクターの不在から採用しないのか。また、多文化主義政策を採用するのか、さらに、それらの政策と日本の多文化共生とはどういった点で異なるのかを考えたい。
参考文献
・アーサー・シュレジンガー,Jr.(都留地重人監訳)『アメリカの分裂』岩波書店、1992年
・明石紀雄「アファーマティブ・アクション」明石紀雄、飯野正子『エスニック・アメリカ(新版)』有斐閣、1997年
・浅岡高子「オーストラリアの多文化・多言語主義政策」俆龍達、遠山淳、橋内武編『多文化共生社会への展望』日本評論社、2000年
・井上達夫「多文化主義の政治哲学―文化政治のトゥリアーデ」油井大三郎、遠藤泰生編『多文化主義のアメリカ』東京大学出版会、1999年
・エマニュエル・トッド(石崎晴己、東松秀雄訳)『移民の運命―同化か隔離か』藤原書店、1999年
・ガッサン・ハージ(保苅実・塩原良和訳)『ホワイト・ネイション ネオナショナリズム批判』平凡社、2003年
・ジェフリー・ブレイニー(加藤めぐみ、鎌田真弓訳)『オーストラリア歴史物語』明石書店、2000年
・塩原良和『ネオ・リベラリズムの時代の多文化主義―オーストラリアン・マルチカルチュラリズムの変容』三元社、2005年
・志村陽一『異文化社会アメリカ(改訂版)』研究社、2006年
・関根政美「多文化主義のなかの白人性―オーストラリアの多文化主義論争から」藤川隆男編『白人とは何か?―ホワイトネス・スタデイーズ入門―』刀水書房、2005年
・関根政美『多文化社会の到来』朝日新聞社、2000年
・杉渕忠基『アフリカ系はアメリカ人か―植民地から現代まで―』大学教育出版、2005年
・竹田いさみ『物語 オーストラリアの歴史』中公新書、2000年
・永井浩『オーストラリア解剖』晶文社、1991年
・中篠献『歴史の中の人種―アメリカが創り出す差異と多様性』北樹出版、2004年
・ヴィクター・J・カラン(関根政美、関根薫訳)『オーストラリア社会問題入門』慶応通信社、1994年
[1] イギリス系、アイルランド系、そしてドイツ系などの西欧出身の移民をさす。
[2] 白豪主義政策とは、西欧以外からの移民を制限した1901年連邦移住制限法(Commonwealth
Immigration Restriction Act)と、非ヨーロッパ系住民の帰化を禁止した1903年帰化法(Nationalisation Act)によって確立したイギリス系を中心とした国家形成を目指す政策であった。
[3] 関根政美『多文化社会の到来』朝日新聞社、2000年、49頁。
[4] E.エリス・キャシュモア編(今野敏彦監訳)『世界差別問題辞典―民族・人種・エスニシティの解明―』明石書店、1988年
[5] 明石紀雄「アファーマティブ・アクション」明石紀雄、飯野正子『エスニック・アメリカ(新版)』有斐閣、1997年、303頁
[6] 歴史的に長く差別されてきた黒人が、奪われた権利の獲得と社会的な平等の実現を求め、1950年代半ば頃から起こした社会抵抗運動である。
[7] 就職、公共設備、学校において、個人は、人種、肌の色、宗教、性別、出身地に基づく差別を禁止したもの。
[8] 関根政美『多文化社会の到来』朝日新聞社、2000年、41〜2頁
[9] 竹田いさみ『物語 オーストラリアの歴史』中公新書、2000年、219頁
[10] アーサー・シュレジンガー,Jr.(都留地重人監訳)『アメリカの分裂』岩波書店、1992年、130頁