シエラレオネ紛争と政策

 

1.シエラレオネ紛争概要

 シエラレオネ紛争は19913月に勃発し20021月に終結した、アフリカの西の小国シエラレオネ共和国(Republic of Sierra Leone)の内戦である[1]。この紛争はアフリカ各国でこぞって指摘されるような、部族、氏族、民族間の対立ではなく、勢力争いの結果であった。詳細な対立相手として主に対反政府祖組織・革命統一戦線〈RUF〉であり、彼らと戦闘を行ったのは政府軍をはじめ、西アフリカ諸国で組織される停戦監視団ECOMOG、紛争後期に起こった拘束事件では国連派遣のUNAMSILなどがあげられる。

紛争時期は主に4つに分けられる[2]。第T時期(19911997.5)は元来の政府対反政府勢力(RUF)の対立構図であり、第U時期(―1998.7)は反政府勢力が政権掌握に力を貸して成立した国軍革命評議会〈AFRC〉/革命統一戦線〈RUF〉軍事政権対西アフリカ諸国経済同盟〈ECOWAS〉の対立構図だ。第V時期(−1999.10)は文民政権が成立し、政府は国連やECOWASの活動援助を受け、RUFに対してDDRを要求する。最後の第W時期(−紛争終了の2002)は停戦・和平協定を基に国連シエラレオネ派遣団〈UNAMSIL〉が派遣され、紛争処理を目標としたDDR活動を行った。DDR活動で軍事要因ほとんどの武装解除が行われ、そのときの式典にてカバー大統領から非常事態宣言解除が正式に発表され、終結との流れとなった。現在は200789月に大統領決戦投票が平和裏に行われ、新しく大統領に就いたアーネスト・コロマ氏の下で内政復興が行われている。

 

2.政府

シエラレオネ紛争は政府内で3回のクーデターが発生し10年間で6度も政権が変わっている。紛争中の政権交代は以下の通りである。Tモモ大統領政権('91.3.22'92.4.29)→ストラッサー軍事政権(〜’96.1.16)→ビオ軍事政権(〜’96.3.26)→カバー文民政権@(〜’97.5.25)→U国軍革命評議会〈AFRC〉/革命統一戦線〈RUF〉軍事政権(〜’98.3.10)→VWカバー文民政権A(〜’02.1.18)。そのためクーデター発生でそれまでの政策がふいにされ、第U時期は反政府組織に政権を握られ政策が断絶している。

各政権の紛争に対する政策は次のとおりだ。まずモモ大統領政権は、紛争勃発時サンコー率いる反政府組織・革命統一戦線(RUF)がリベリアからシエラレオネ領内に侵入したことから、当初からリベリアの反政府組織・リベリア愛国戦線(NPFL)が関与していると非難し、攻撃対象として確認した。また勃発当初にナイジェリアへ訪問し支援要請を行い、ナイジェリア軍・ギニア軍の国境部派遣を促している。ストラッサー軍施政権下ではRUFとの和平交渉を進める一方で、国軍増強のためさまざまな団体との軍事訓練を行った。ナイジェリアの軍事顧問派遣による訓練、ギニア部隊の増援、ガーナとの軍事協定と、近隣諸国との密接な関係を築くが、一番の成果は民間軍事企業エグゼクティブ・アウトカムズ社〈EO〉との契約である。軍事訓練・情報収集・治安維持などを委託し、二ヶ月後には各地と戦闘が有利に展開したとしてEOの契約結果であるという評価も出た。EOとは'97.1まで契約が有効とされ、支払われた報酬は3500万ドルであった。この総額の経費は政府の年間軍事予算の約三分の一であったことが指摘されている[3]。ビオ軍事政権時は対話による交渉を呼びかけながら、大統領選挙を行った。だがRUF側は選挙妨害のため市民への攻撃を強め、彼らの手足切断繰り返している。カバー文民政権@誕生後は最初の明確な和平協定が合意され、RUFの要求によりEOを含むすべての外国部隊の撤退が決定された。このため政府から政府軍とカマジョー(伝統的な狩猟部族)を中心にした市民防衛軍〈CDF〉にRUF掃討が呼びかけられ、各地で衝突が起きた。UAFRC/RUF軍事政権では、RUF指導部が兵士に対して戦闘活動を呼びかける一方、ECOWAS諸国に対し自身らの軍事政権を孤立化させないよう求めた。この時期の政策は彼らが正当な政権であることを内外に認めさせることに一貫していたが、ナイジェリア主導のECOWASとの戦闘が和平合意をはさんで二度おき、投降、カバー文民政権の復帰となった。この時期はECOWASや国際社会の活動援助を受け、紛争終結に向けた政府政策が実施されるが、必ずしも上手くいかなかったようである。

 

3.ECOWAS

 西アフリカ諸国経済同盟〈ECOWAS〉は1975年に西アフリカ諸国15カ国からなる地域枠内で、経済協力を目的として組織された。事務局はナイジェリアの首都アブジャに置かれ、議長は加盟国の持ち回りで年期は1年だが、複数回議場国を担当した国に対しまだ一度も議長を担当していない国もある。[4] ECOWASが国際的に評価され得る点は、紛争に関して独自の監視体制を設けた西アフリカ諸国停戦監視団〈ECOMOG〉の活動である。停戦監視が主な活動で中立の立場をとらなければならない組織ではあるのだが、シエラレオネ紛争では時折戦闘アクターにもなっており、その点では批判もされている。

シエラレオネ紛争へのECOWASの政策は、議長国をナイジェリア〈’96-98〉とトーゴ(’99)が担った年度、特に紛争時期Uに打ち出され、これら働きにより停戦協定・和平協定(’99.5.187.7)の成立に成果を残した。一連の流れは以下のとおりだ。ECOWASのシエラレオネ問題四カ国委員会が設置され、停戦にむけた「交渉」が行われたが、打開策も限界に達した最高議会はAFRCに対する「経済措置」を決議した。だがこの制裁措置の実行をめぐってECOMOGAFRC/RUFとの「戦闘」が開始され約一ヶ月続く。この間に国際社会の関与を求めたカバー大統領に応える形でシエラレオネへの経済措置を定めた安保理決議1132号が決議され、それら措置を歓迎したECOWASAFRC代表団との間にコナクリ「和平合意」を調印させた。合意によりカバー政権への民政移管とAFRC/RUFの武装解除が定められたが、和平計画はスケジュールどおりには進まなく、ECOWASは対話の要求、制裁や禁輸の遂行、武力行使の三つの選択肢を用いた計画の決意を表明する。それにより停戦合意初の武力衝突が起き、反撃としてECOMOGによるフリータウン制圧にむけた戦闘が開始し、一週間で「制圧」、軍事政権の指導部や兵士を投降させた。その後ECOMOGは全土制圧をめざすが完全鎮圧には至らず、ギニアに亡命していたカバーの帰国と政権復帰を行い、カバー文民政権主導のDDRを支援した。だがここでもDDR計画実現の不可能さから対話と軍事行動を同時期に行う「二重路線アプローチ」[5]を採択し政策の方向転換をなされた。その後のRUF侵攻による首都攻防戦では戦闘主導のナイジェリアの反撃と対話主導のトーゴの停戦要求が同日に行われ、政策の確実な遂行が伺える。

 ECOWASの政策はナイジェリア主導の戦闘、設置された委員会を通して行われるさまざまな対話、'99年の議長国トーゴを中心とした停戦・和平協定の交渉にその特徴を見ることができる。アフリカ内部の問題を他地域や他機構に頼らず独自で解決しようとする意志の基で活動し、積極的に解決への意図口を模索した。

4.国連

 国連におけるシエラレオネ紛争の政策は主に三つの部署から行われた。国連安全保障理事会、アナン事務総長、彼らの決定により活動が決まった国連シエラレオネ監視団(UNOMSIL)及び国連シエラレオネ派遣団(UNAMSIL)である。

国連安全保障理事会は紛争中の出来事について議長声明という形で支援や批判を行っている。だが明言をさけることが多く、シエラレオネ紛争介入に意欲的なアナン国連事務総長を追随する形となっている。主な決議はシエラレオネへの経済措置(1997.10.8、決議1132号)、禁輸措置の解除(1998.3.161156号)、UNOMSIL派遣(7.131181号)、UNAMSIL派遣(1999.10.221270号)と続く。中でもシエラレオネ産ダイヤモンドの全面輸入禁止(2000.7.51306号)は「紛争ダイヤモンド」の存在に国際社会が関心を示し措置がなされた最初の決議であった[6]。その後さまざまな国際会議で「紛争ダイヤモンド」が議論され、ダイヤモンド原石を輸出の際は封印の上で原産地証明書を付けること、意図的に違法ダイヤモンドを取引した国や企業には制裁を課すことが含まれた「キンバリー・プロセス」[7]証明制度が、200211月に52カ国の政府によって批准・採択、2003年の8月に完全実施の運びとなった。

アナン国連事務総長は事務総長シエラレオネ特別代表を立て、独自に会談や調査、支援仲介などを行った。国連事務総長による報告書は紛争期間中12回にのぼり、現在も報告し続け、それら報告書はシエラレオネ紛争を分析する手段のひとつとなっている。

UNOMSILは、アビジャン和平協定で決定した、国際社会派遣の中立的な監視グループの導入により、シエラレオネ政府とRUFの要請に基づいて派遣された。彼らの活動目的は、シエラレオネ政府が行うDDR計画を支援するECOWASの活動を監視することであった。そのため最高70名の軍事顧問を含んだスタッフが派遣され、主に治安状況、国際人道法の遵守、自発的な軍備縮小と復員活動であるかを監視した。同様にUNAMSILは軍事関係者260名を含む6000名を定員規模とした部隊で、2000年と2001年に数回、要員数が拡大された。活動の中心はシエラレオネでのDDR計画の実施の援助とそのために国内の重要な地域にDDRセンターを設立することであり、国連職員活動の安全と自由を保障すること、停戦合意に従った停戦履行の監視、信頼を構築軍事要員が機能することの支援、人道支援への譲渡の促進なども含まれた。20002月には、主要空港や政府ビルなどの安全の確保、人々や人道支援などの自発的な流れの促進、プログラムすべての場所での安全確保、収集した武器や弾薬などの軍備を保全することなどが付け加えられた[8]。これらの活動が行われるのは紛争時期Wであり、この時国連部隊襲撃拘束事件がシエラレオネ各地で発生し、再びシエラレオネ紛争を再注目させた。

 国連における政策で評価できる点は、「紛争ダイヤモンド」について議論される筋道を作った決議(1306号)と、20015月以降本格的に再開したUNAMSILDDR活動である。特に後者は再開して1年もかかわらずほとんどすべての軍事要員、45844名の武装解除・動員解除を行っている[9]。これらは軍事要員すべての協力と彼らを根気よく説得した国連監視要員の努力であり、その後のイラン、アフガニスタンのDDR活動に貢献された。

5.参考文献・HP

伊勢崎賢治,(2004)「武装解除を指揮する―シエラレオネ」,『武装解除 紛争屋が見た世界』,講談社

伊勢崎賢治,(2006)「INTERVIEW 知られざるシエラレオネ紛争の10年」,『BLOOD DIAMOND パンフレット』,松竹株式会社事業部

井上実佳,(2005)「紛争対応における国際連合とアフリカ連合」,『アフリカレポート』40号,アジア経済研究所

稲田十一,(2004)『紛争と復興支援 平和構築に向けた国際社会の対応』,有斐閣

王志安,(1998)「シエラレオネのクーデターへの国際的対応―不承認及び崩壊せしめる政策の展開―」,『駒澤大学 政治学論集』48号,pp. 1-40

落合雄彦,(1999)「ECOMOGの淵源─アフリカにおける『貸与される軍隊』の伝統─」,『アフリカ研究』第55号,日本アフリカ学会,pp.35-49

落合雄彦,(2000)「シエラレオネにおける国連部隊襲撃拘束事件」,『アフリカレポート』第31号,pp.7-10

落合雄彦,(2001a)「シエラレオネ紛争関連年表」,武内進一編,『アジア・アフリカの武力紛争−共同研究会中間成果報告−』,国際協力事業団

落合雄彦,(2001b)「シエラレオネ」,総合研究開発機関/横田洋三 共編,『アフリカの国内紛争と予防外交』第二部第二章第二節,国際書院

落合雄彦,(2001c)「アフリカの準地域機構による紛争対応」,総合研究開発機構/横田洋三 共編,『アフリカの国内紛争と予防外交』第三部第二章第三節,国際書院

落合雄彦,(2002)『西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)』,国際協力事業団平成13年度準客員研究員報告書

落合雄彦,(2003)「シエラレオネ紛争における一般市民への残虐な暴力の解剖学−国家、社会、精神性−」,『国家・暴力・政治 アジア・アフリカの紛争をめぐって』,アジア経済研究所

国際協力事業団国際総合研究所,(2001)『事業戦略調査研究 平和構築報告書』

酒井啓亘,(2001)「シエラレオネ内戦における「平和維持活動」の展開(1)ECOMOGからUNAMSILへ―」,『国際協力論集』,第9巻第2号,pp.97-126

酒井啓亘,(2002)「シエラレオネ内戦における「平和維持活動」の展開(2・完)ECOMOGからUNAMSILへ―」,『国際協力論集』,第9巻第3号,pp.95-129

PW・シンガー,山崎淳訳,(2004)『戦争請負会社』,NHK出版

武内進一,(2001)「「紛争ダイヤモンド」問題の力学―グローバル・イシュー化と議論の欠落―」,『アフリカ研究 58』,pp.41-58

楢林健司,(2001)「シエラレオネ内戦に対する西アフリカ諸国経済共同体と国際連合による介入」,『愛媛法学会雑誌』274

真島一郎,(1998)「リベリア内戦史資料 (19891997)」,武内進一編『現代アフリカを理解するために』,国際協力事業団

六辻彰二,(2004)「西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)の紛争管理メカニズム」,『サブサハラ・アフリカにおける地域間協力の可能性と動向 』,日本国際問題研究所

六辻彰二,2002)「シエラレオネ内戦の経緯と課題 19912001,『アフリカ研究』60号,pp.139-149

国連/紛争ダイヤモンドhttp://www.un.org/peace/africa/Diamond.html

国連/UNAMSIL  http://www.un.org/Depts/dpko/missions/unamsil/index.html

国連/UNAMSILFacts and Figures http://www.un.org/Depts/dpko/missions/unamsil/facts.html

 

2007年度 宇都宮大学国際学部 卒業論文

渡辺麻衣,「アフリカ紛争に関する一考察―シエラレオネ紛争におけるアクターの活動―」



[1] 本稿でシエラレオネ紛争を「内戦」ではなく「紛争」として統一した理由は、全体を通して必ずしも戦闘アクターが国内組織に限られていないからである。

[2] 卒論「アフリカ紛争に関する一考察―シエラレオネ紛争におけるアクターの活動―」第三章第二節参照

[3] PW・シンガー,2004,P.229

[4] 落合,2002

[5] 酒井,2001及び2002

[6] 武内,2001

[7] 2000511-12日に南アフリカのキンバリーで開催された紛争ダイヤモンドを取り巻く問題を話し合うフォーラムが発端になっている。

[8] HP国連/UNAMSIL http://www.un.org/Depts/dpko/missions/unamsil/facts.html 参照。

[9] 落合雄彦,(2001a)「シエラレオネ紛争関連年表」2002.1.9の項目より